第22章 会いに行く
十二日後。
セレスティア。
エリックは、豆を温めていた。
鍋。
湯気。
いつもの匂い。
世界が一度、時間と場所を見失ったあとでも――豆は、豆だった。
*
端末に着信。
ケイトからだ。
『また豆?』
エリックは、鍋の向きをわずかに変えた。
「見れば分かるだろ」
『十二日前に世界が終わりかけた人の食事じゃないよ』
「終わらなかったからな」
『もっといいもの食べなよ』
「うまいよ、これ」
『見た目がねぇ……』
画面の向こうで、ケイトは黄色いパンを持っていた。
二人、少しだけ黙る。
そして――ほぼ同時に、吹き出すように笑った。
*
観測局。
実験番号:247。
『RN航法試験、開始』
セレスティア側の密閉容器が、ふっと輪郭を失って消失する。
アルマ側の受け入れ台座の上に、その密閉容器が出現した。
内部時計、正常。
外部時計との対応、正常。
質量、構造、すべて一致。
容器が複製されたわけではない。出発地点から消えたものが、アルマへ移動したのだ。
サイモンが静かにデータを読み上げた。
「247回」
ダニエルが身を乗り出す。
「全部?」
「全回、成功です」
「時間は?」
「正常」
「位置は?」
「正常」
「……気持ちは?」
サイモンは、一度だけダニエルを無表情で見つめた。
「……まだ気持ち悪いです」
*
時空の境界を通過したあと、世界の時計は再び、互いに比較できるようになった。
だが――以前とまったく同じに戻ったわけではない。
セレスティアとアルマ。
通常の物理空間距離:47.2光年。
関係的時空距離:ゼロ。
その関係を移動の道として利用する技術は、「関係航法(Relational Navigation)」と名付けられた。
略称、RN航法。
RN航法によって移動する物体に、以前のような不可解な時間の空白は観測されなくなっていた。
出発と到着は、双方の記録で寸分違わず対応している。
まるで――最初から、すぐ隣の部屋だったかのように。
*
ヘレン・カーターが、画面から目を離さずに告げた。
「次へ行くわよ」
エリックが顔を上げる。
「生体?」
「もう始めてるわ」
ダニエルが検査項目を示した。
「植物組織、微生物、培養細胞群ね」
「じゃあ――」
「駄目よ」
「まだ何も言ってない」
「人間でしょ」
「……うん」
「駄目」
エリックは、実験室の硬い椅子へ腰を下ろした。
「俺でいいよ」
「よくないわ」
「ジャックだって通った」
「あれは事故よ」
「モップだって」
「人間じゃないわ」
「花は?」
「人間じゃない」
「俺は――人間だ」
「だから駄目なのよ」
ヘレンは、ゆっくりとエリックを見つめた。
「あなた、自分が何を言っているのか分かっているの?」
*
ダニエルも、珍しく笑っていなかった。
「俺も反対」
「なんでだよ」
「友達だから」
エリックの顔が、ぴたりと止まる。
「何その顔」
「いや……」
「気持ち悪い?」
「ちょっと」
「殴るぞ」
ヘレンが二人のやり取りを遮るように言った。
「物が247回届いた。……たった247回しか、成功していないのよ。単純な生体だって、まだ始まったばかり。花は花。モップは勝手に行っただけ。ジャックはただの事故!」
ヘレンはトントン、と机を指で叩いた。
「人間は最後よ」
「いつ?」
「安全だと判断できた時」
「誰が判断するんだよ」
「私だけじゃないわ。両惑星の医療、生物、物理、輸送、安全委員会……そのすべてが納得した時よ」
エリックは露骨に顔をしかめた。
「……時間、かかるな」
「当たり前でしょう」
*
その日の夜。
ケイトとの通信。
映像は、今ではほとんど遅延がない。
ケイトは画面の向こうで、手元の解析仕事をしながら話している。
「今日、断られた」
ケイトの手が、ぴたりと止まった。
『何を?』
「人間のRN航法試験」
『……誰を?』
「俺」
ケイトは、ゆっくりと画面をまっすぐ見つめた。
『……何考えてるの?』
「最初の被験者に立候補したんだ」
『エリックが?』
「うん」
『なんでそんなこと……』
「早く会えるから」
ケイトは端末から完全に手を離した。
『駄目』
「博士と同じこと言うなよ」
『当たり前でしょ!!』
「247回連続で成功してるんだぞ」
『物でしょ!?』
「生体だって――」
『人間じゃない!!』
「ジャックは――」
『事故だったって言ったでしょ!!』
ケイトの声が、急激に熱を帯びて強くなる。
離れた席にいたミアが、驚いて顔を上げた。
ケイトは立ち上がり、端末を持ったまま窓の方へ歩いた。
『……会いたいって、言ったよ』
「……うん」
『私も、会いたいって言った』
「うん」
ケイトは窓の外を見つめた。
アルマの街には、いつもと変わらない静かな灯りがついている。
『だからって……実験台になってほしいなんて、一言も言ってない!!』
エリックは、言葉を失って黙り込んだ。
『もし……届かなかったら?』
「今まで一度も失敗してない」
『聞いてるのは、そんなことじゃない!!』
ケイトは画面ではなく、夜の窓の外を見つめたまま言った。
『……もし、届かなかったら?』
エリックの指が、キーボードの上で凍りついた。
文字ではなく、今は声で直接話すことができる。
それでも――何の返事も出なかった。
ケイトは、ようやく画面へ視線を戻した。その目は少し潤んでいる。
『それを……「失敗でした」って言って終われるの……?』
エリックは、何も言えなかった。
『私は嫌。絶対に嫌だ』
「……うん」
『会いたいから言ってるんだよ』
「分かってる」
『分かってない!!』
「分かってるよ……!」
『じゃあ、待ってよ……!』
重く長い沈黙が流れる。
今まで、二人の間に流れる沈黙は、一度だって不快なものではなかった。
けれど今夜は、違っていた。
『……仕事、戻るね』
「……うん」
通信が、ブツリと切断された。
エリックは暗くなった画面をただ見つめていた。
いつもなら最後に交わす言葉。
「おやすみ」「また明日」「いる?」「いる。」
何一つ、残らなかった。
*
アルマ。
ケイトは自席へ戻った。
ミアは何も言わずに、静かに書類を整理している。
ケイトは解析画面を開き、閉じる。
また開き、また閉じる。
画面の数字が、まったく頭に入ってこない。
ミアがぽつりと呟いた。
「……怖いんだね」
「何が」
「会えるのが」
ケイトがミアを見る。
「違うよ」
「じゃあ……エリックが消えちゃうのが?」
ケイトは、答えなかった。
ミアは少し間を置いて言った。
「47.2光年離れてた時はさ……『会えないのが普通』だったじゃん」
「……うん」
「今は『会えるかもしれない』」
「……うん」
ミアは、ケイトの横顔をまっすぐ見つめた。
「だから……『失うかもしれない』ようになったんだよ」
ケイトは机の上、何も置かれていない真ん中のスペースを見つめた。
あの一輪の白い花が、たった一日だけ咲いていた場所。
「……そう、かもね」
*
翌朝。
エリックは端末を開いた。ケイトからの通知はない。
彼は送信欄を開いた。
《おはよう》
――打ちかけて、消す。
《昨日は――》
――消す。
《ごめん》
指が止まる。
そのまま、送信。
*
アルマ。
ケイトは出勤途中の路上で、その三文字を見た。
足を止める。通勤の人波が横を通り過ぎていく。
《私もごめん》
エリックからすぐ返信。
《ケイトは悪くないよ》
《そういう気遣い、いらない》
《はい》
少しの間。
《会いたい》
エリックは画面を固唾をのんで見つめた。
《俺も》
《だから、待つよ》
《うん》
《ちゃんと、会おう》
エリックの指が止まる。今度は迷いなく、打ち込んだ。
《うん》
*
三十一日後。
無機物のRN航法試験:1,642回成功。
生体のRN航法試験:112回成功(植物、微生物、小型多細胞生物)。
初期実験で白い花に確認された代謝周期の異常も、その後のRN航法による移動試験では再現されなかった。
移動前後の代謝、神経活動、遺伝情報など、対象に応じた検査項目で異常なし。
セレスティアとアルマの独立研究機関でも、同じ結果の再現性が確認された。地球や他の植民惑星の研究機関も検証に参加し、試験記録の解析を進めていた。
「……失敗です」
サイモンの声に、ダニエルがガバッと顔を上げる。
「出たのか!?」
「失敗数、ゼロです」
「その言い方やめろ!! 心臓に悪いだろ!」
そして――最初の「有人試験」の日がやってきた。
被験者は、エリックではなかった。
高度な訓練を受けた、専門の試験要員。
二つの惑星の医療チームが、万全の態勢で待機していた。
エリックはセレスティアの観測室にいた。
ケイトはアルマ側の受け入れモニターの前にいる。
ジャック船長も少し離れた場所で見守り、ゾーイ、ノア、モップもそれぞれの場所で、同じ瞬間を待っていた。
移動室。被験者の人間が一人。
呼吸、正常。心拍、正常。
ヘレンが指示した。
「RN航法、起動」
輪郭がふわりと揺れ――消えた。
アルマ側の受け入れ室。
空間が揺れ、輪郭が現れる。
人間だ。
医療班が一斉に駆け寄る。
意識、あり。記憶、正常。身体機能、正常。
被験者の第一声。
「……腹、減ったな」
ダニエルが椅子へ崩れ落ちた。
「そこ!? 第一声がそれ!?」
サイモンが真顔で答える。
「……生命活動として、極めて正常な反応かと」
ヘレンは、満足そうに笑っていた。
その後、二人目、三人目の移動。往復、長期間の滞在、再移動。
いずれの試験でも、重大な異常は認められなかった。
人類に、47.2光年を歩かずに渡る「道」が完成した瞬間だった。
*
三か月後。
セレスティア、RN航法ターミナル。
かつて巨大な観測施設だった場所は、今や人や荷物、鮮やかな案内表示が行き交うターミナルへ変貌していた。
行き先表示:『アルマ』。
その隣では、地球や各植民惑星への航路を拡張する計画が紹介されている。
エリックは、肩に小さなバッグを一つだけ掛けて立っていた。
「荷物、それだけか?」
ダニエルが尋ねる。
「うん」
「47光年だぞ?」
「47.2な」
「細かいな、お前は」
ダニエルはエリックのバッグをじっと見た。
「……豆、入ってるのか?」
「入ってる」
「本当に持って行くのかよ!」
「約束したんだ」
「嫌がってたろ!」
「だから持っていくんだよ」
「嫌がらせかよ!」
出発アナウンス。
『ALMA GATE — OPEN』
エリックがRN航法ゲートを見つめた。急に足が止まる。
「……怖いか?」
「ちょっとだけ」
「やめるか?」
「やめない」
ダニエルは力強く頷いた。
「行ってこい」
エリックは一歩を踏み出した。
*
アルマ、到着区画。
ケイトは、もう二十分も同じ場所に立ち尽くしていた。
「まだ?」
ミアが横から覗き込む。
「あと三分」
「十五分前から『あと三分』って言ってるよ」
「表示が変わったんだって!」
「嘘つかないの」
少し離れたベンチに、ゾーイ、ノア、そしてモップがいる。
「……ケイト、めちゃくちゃ緊張してるね」
ノアの言葉に、ゾーイが頷いた。
「誰だってするよ」
「してるしてる」
ミアまで加わる。
「全部聞こえてるからね!!」
モップ。
トントン。
「モップも待ってるよ」
ノアが笑った。
到着表示インジケーターが、青く点灯した。
ケイトの身体が、緊張でカチコチに固まる。
空間が、わずかにゆらりと揺れた。
一人の男が、そこに姿を現した。
エリックだ。
写真も動画も、毎日見ていた。
声も知っている。表情の癖だって知っている。
なのに――目の前に立つ「本物」は、全然違っていた。
ケイトは何も言えなかった。
エリックも、同じように立ち尽くしている。
数秒の沈黙。
「……普通だね」
エリックが言う。
「そっちこそ」
ケイトが返す。
「そこ!? 第一声がそれ!?」
ミアの声に、二人同時に吹き出すように笑った。
「……ケイト」
「うん」
「エリックです」
ケイトが耐えきれずに笑い転げる。
「知ってるよ!」
また、心地よい沈黙。
二人の距離、わずか二メートル。
47.2光年を超えるよりも、ずっと縮めるのが難しい二メートル。
「抱きしめればいいのに!」
ミアが口を挟む。
「ちょっと、ミア!」
エリックが、おずおずと尋ねた。
「……する?」
「聞かないでよ!」
それでも、ケイトが一歩。
エリックが一歩。
少しぎこちない、けれど温かい、短く愛おしい抱擁。
身体が離れる。二人とも恥ずかしそうに、どこを見ればいいのか分からない。
「……意外と普通だね」
ノアが呟く。
「余計なこと言わないの」
ゾーイが小声でたしなめた。
モップが滑らかにエリックの足元へ近づいてきた。
「……これが?」
「モップです。本物」
ゾーイが答える。
「本物だよ」
ノアも頷いた。
エリックがしゃがみ込み、そっと手を差し出した。
モップがピタリと止まる。
トントン。
エリックは床を指先で叩いた。
トントン。
モップの身体が、ふわりと柔らかく広がる。
「あ、気に入ったみたい」
「分かるのか?」
「たぶんね」
「たぶんね」
「みんなして『たぶん』って言うなよ」
*
到着区画を出ると、そこにはアルマの街が広がっていた。
人々が行き交い、車が走り、風が吹き、空が広がっている。
エリックは足を止め、空を見上げた。
「どうしたの?」
「普通だなと思って」
「何が?」
「空」
ケイトも一緒に見上げた。
「普通だよ」
「47光年離れてるのにさ」
「47.2ね」
「……細かい?」
「うん、細かい」
二人は並んで歩き出した。
ケイトとエリック。少し後ろをミア、ゾーイ、ノア、そしてモップが歩く。
「メシ、食べに行こう」
「開口一番がそれ?」
「約束したろ」
「何食べたいの?」
「黄色いパン」
「嫌だよ!」
「なんで」
「もっと美味しいものたくさんあるから!」
「一度食べてみたいんだって」
「三か月間、ずっとそれ覚えてたの?」
「うん」
「ちょっと怖いんだけど」
街角を吹き抜ける風。
アルマ固有の爽やかな植物の香り。
遠くの空へ上がっていく輸送船と、新しいRN航法ターミナル。
どこまでも続く、普通で尊い日常。
しばらく歩いて、エリックが呟いた。
「……いいな」
「何が?」
「ここ」
ケイトは誇らしそうに、けれど少し照れくさそうに微笑んだ。
「まだ何も見てないでしょ」
「でも」
エリックは、隣を歩くケイトを優しく見つめた。
「いいよ」
ケイトがふと尋ねる。
「今、何時だろ?」
エリックは自分の腕時計を見た。そして指が止まる。
「……分からん」
「なんで?」
「セレスティア時間のままだから」
ケイトが吹き出す。
「直しなよ」
「どれに直せばいいんだ?」
ケイトも自分の時計を見た。
そして、嬉しそうに笑った。
「……まあ、いいか」
二人は、また歩き出した。
同じ道。
同じ風。
同じ時間。
それが本当に「同じ」なのかどうかは、もうそれほど重要なことではなかった。
47.2光年。
その果てしない距離は、今も宇宙のどこかに存在している。消えてなくなったわけではない。
けれど――二人の間には、もうなかった。
(第二十二章 了)




