七
ガタンッ!
戸の開く音がした。ぼくは振り返った。戸の外に安夫さんがいる!
いそいでそちらに、駆け出そうとした。
だが、体を動かすことがまったく出来ない!
「おまえを道連れにしてやる!」
ぼくの首に、細い女の指が掛かった! 女とは思えないほどの強い力だ!
頚動脈が締まりはじめた。目の前がチカチカしてきて、真っ白な世界が拡がりはじめた。息ができない!
――気が遠くなりはじめた、ちょうどそのとき。
「それはやめてくれ。まだ、来てもらっては困る」
御先祖様の声が、祈祷所に響き渡った。
安夫さんが居た場所に、いつの間にか御先祖様が立っている!
腕にニワトリを抱えていた。
『コケコッコー!』
その鶏が一声、大きく鳴いた。
ぼくの記憶は、そこで途切れた。
「風間さん! 風間さん! 大丈夫じゃろうか!」
「え? 宮司さん……ケホ、ケホ……ケホ、ケホ……安夫さんは?」
「戸が開いてたんじゃ。今、秦野さんがそてー探しに行った」
「ええ! 大変だ! ぼくも行きます!」
ぼくは宮司さんと祈祷所の外へ走り出た。夜明け前で、まだ暗かった。
「安夫さーん! 安夫さーん!」
「秦野さん! 秦野安夫さーん!」
どこにもいない。母屋から安夫の叔父夫婦がやってきた。
「敷地内はすべて探したが、安夫はいねー。あたー屋敷の外じゃ。うちはちかまーりを見てくる」
安夫の叔父夫婦は近所を見てくると走り去った。
「では、おれは裏山を探するんじゃ。風間さんは、港の方に行ってみてつかあさい」
宮司が裏山へ向かって走り去った。ぼくは反対方向の海へ向かった。薄暗い中、港へ向かう坂道を駆け足で下った。運動神経の悪いぼくは何度も転びそうになりながら、やっとの思いで港へ到着した。だが、安夫さんらしき姿はどこにもない。
そのとき沖から、明かりをつけた漁船がやってきた。こんな時間に港に戻ってくるとは、イカ釣りの漁船だろうか? だが、船はそれ一艘しかやってこない。舳先に大柄な男が立っていた。背広を着ている。通勤客が乗っているのか? だが、よく見るとそれは白木の箱を持った塩岡先輩だった!
「先輩! 塩岡先輩! 風間です!」
「……風間くん? 秦野さんが乗ってるんだ! 今、そちらに着けるから!」
「え? 安夫さんが?」
船は、あっという間にぼくの立つ船着場へ接岸した。小さな古い漁船だった。
中から、体を毛布にくるんだ安夫さんが出て来た。寒さに震えている。憔悴しきっているが特に怪我はなさそうだ。
「風間くん! すぐに彼の家に連絡してあげて!」
「はい!」
ぼくはいそいで電話で安夫の叔父と連絡を取った。すぐに安夫の叔父夫婦が、宮司と共にやってきた。
「安夫! よかった! どうしたんだ! 震えとるじゃねーか!」
安夫の叔父が、うれしそうに安夫さんに飛び付いた!
「せーが……気がついたら海で溺れていて。こちらの船の方たちに助けとっただきたんじゃ」
安夫さんがしっかりと答えた。
「安夫を助けてつかあさった方じゃのー? なんとお礼を言うてええのか……どうもありがとうじゃった」
安夫の叔父が、塩岡先輩に何度も頭を下げている。
「ありがとうじゃった。おれからも礼を言おるで。秦野さん、はよー戻って安夫さんをぬくめてあげなさい」
宮司が塩岡先輩にお礼を言うと、安夫の叔父に、安夫さんを連れ帰るように勧めた。
「はい、そうするんじゃ。ほんなら失礼致するんじゃ。みなさん、ほんまにどうもありがとうじゃった。後日、お礼に伺わせてもらうで」
宮司と安夫の叔父夫婦が、安夫さんを両脇から支えながら、うれしそうに帰っていった。
「いったい……どういうことですか?」
「秦野さんはこの先の、大きな岩の近くで溺れていたんだ。ちょうど通り掛かったから、よかったものの……」
「そうでしたか……先輩、どうもありがとうございました」
「礼なら船長の息子さんに言ってくれ。飛び込んで助けてくれたんだ。岩の上に白木の箱が置いてあったから、持って来た。これが例の……犬の首だよな?」
「え? そうです! この箱に犬の頭蓋骨を入れておいたんです! どうして、ここに……。安夫さんが持ち出したんでしょうか? 全然、気が付きませんでした……」
「陰陽師からもらった札を貼っておいた。このまま四国に戻り、K神社にこの首を納めに行く」
「先輩……折り返しで申し訳ないです……ここまで、どうやって来られたのですか?」
「近所の陰陽師にお札だけもらい、車を飛ばして瀬戸内海の港へ行った。近くの漁師さんの家を訪ね回り、無理を言って船を出してもらったんだ。一刻を争う事態だったから」
「そうでしたか……本当にどうもありがとうございました。先輩にはいつも助けられてばかりで、申し訳ありません」
「暇だから、お節介してるだけだよ。気にしないでくれ。前回、役に立てなかったからずっと気になっていたんだ。また、何かあったら言ってくれ。すぐに飛んで来るから」
「わかりました。そのときはまた、お願い致します」
「そろそろ行くよ。この禍々しい箱を、早く神社に納めたい」
「塩岡先輩、本当にどうもありがとうございました! お気をつけてお帰りください」
「では、また!」
手を振る塩岡先輩にいつまでも頭を下げ続け、感謝した。
「頭を下げるのはこっちだろ?」
「…………」
いつの間にか隣に御先祖様が立っていた。
「なんで肝心なときに居てくれないんですか? あなたはニワトリを連れてきただけですよね?」
「この地区は養鶏をやっていないから、探すのが大変だった……隣村まで行ったんだからな! 庭に放しておいたから、返しておいてくれ」
「なんですって! どこから盗んできたんですか?」
「盗んだとは失礼な! とにかく、助けてやったのはわたしだ」
「たしかに……ありがとうございました。でも、すごく危なかったんですよ!」
「我々は人間の世界に関与してはいけないのだ。今回は子孫への特別措置だ」
「そうなんですか……ところで、小夜子の霊は? どうなりましたか?」
「浦上の先祖に懇々と言って聴かせた。当分は悪さをしないだろう」
「そうですか、それはどうも……あれ?」
御先祖様はもう、目の前から消えていた。勝手な人だ。
秦野家に戻り、皆と安夫さんの無事を喜んだ。安夫さんは元気で熱も下がっていた。彼は寝込んでいる間中、ずっと小夜子さんの夢を見ていたそうだ。恋人時代や新婚当時の楽しかったころの夢を。最後に海の向こうに彼女の幻を見て、それを目指して泳いでいるうちに溺れたらしい。
「風間さんの御先祖様は『吉備津の釜』を再現してくださったんじゃのー」
御先祖様が秦野家の庭に置いていったニワトリを抱え、宮司が感慨深げに言葉を発した。
『吉備津の釜』とは、吉備津の釜の神官の娘が嫁いだ先で不幸な結婚生活の末、怨霊と化して夫を取り殺してしまう上田秋成の名作だ。最後に、怨霊がニセの鶏の声で夫を誘き出す。それを逆手に取り、御先祖様がぼくを助けてくれたのだ。1回目の鶏の声は宮司たちが言っていたようにニセ物だったが、2度目は御先祖様が隣村から連れてきた本物のニワトリの声だった。
「風間さん、どうもありがとうじゃった。吉備の御先祖様にもよろしゅーお伝えつかあさい。ニワトリは持ち主にきちんとけーするんじゃ。では、おれはけーにて」
宮司が港へ向かって歩いていく。息子さんが漁船で迎えに来ているのだ。
「隣村の、世話になったんじゃ」
「ほんまにどうもありがとうじゃった」
「なんと感謝してええか……ありがとうじゃった」
安夫さんとその叔父夫婦が手を振りながら、何度もお礼を言っている。
「ありがとうございました」
ぼくも深々と頭を下げ、見送った。宮司さんのお蔭で、ぼくは自分の先祖に会うことが出来た。人の命を救うことも出来た。
皆で家の中で休んでいると、羽鳥麗子の父親から電話が掛かってきた。麗子が見つかったらしい。東京の元カレの家に隠れていたそうだ。
安夫との結婚がどうしても嫌だった麗子は、皆に寝ると嘘をついて離れから逃げだした。なんとも人騒がせな話である。ただ、『鳴釜神事』で気を失ったのは演技ではないらしい。そのとき巫女の夢を見てうなされたと、恐ろしげに語っていたという。
安夫さんと麗子の婚約はその場で解消された。結局、安夫さんの会社は従業員ごと麗子の父親の手に渡った。安夫さんが、これを機に神職に付いて神社を継ぐ決心をしたからだ。
「事業は元々、向いていなかったんじゃ。うちにゃー霊能力があらん。父のように立派な神官にゃーなれんかもしれん。釜が鳴らなかったのに、小夜子と強引に結婚したんじゃ。父が亡くなったばーだっちゅうのに……じゃけど、なんぼー神事を行っても、釜は鳴らなかったじゃろう。あのとき結婚しなかったら、小夜子たーぜってーにつれのーてはなれませんじゃった。小夜子の死はかわいそうじゃったが……彼女と結婚したことを後悔したこたーあらん。一生独身を貫いて、小夜子のために祈り続けたいと思うんじゃ」
安夫さんの決意は固かった。それだけ、小夜子さんのことを愛しているのだ。怨霊となって安夫さんを取り殺そうとまでした女のことを。
その日のうちに、新幹線で家に帰った。
帰る前に、皆と一緒に秦野家の畑でキビの種を蒔いた。
指先からこぼれ落ちる、小さなキビの粒。
黄金色の実が、太陽の光をキラキラと反射させている。
その向こう側では、瀬戸内海がキラキラと光輝いていた。
来年はどうか、釜が鳴りますように。
思いを込めて、ぼくはキビの種を蒔く。
(キビの種を撒くころ釜が鳴る おわり)




