六
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
玄関の戸がガラリと開いた。
「これは風間はん! 来てくださったんやね。どうぞ、どうぞ」
葵のお母さんが居た。昨日と同じ、ズボンに白シャツのシンプルな格好で出迎えてくれた。
「こんばんは。夕方、寄らせていただいたのですが、いらっしゃらなくて……こんな時間になってしまいました。申し訳ありません」
「うちこそ、すみまへん。家の中には居たちうわけやが、風間はんのために夢中になって準備をしていて気がつかなかったみたいや。ごめんなさい」
「いいえ。お会い出来てよかったです。それと……あかりは東京へ向かっているそうです。彼女がいろいろとご迷惑をお掛けしたみたいで、本当に申し訳ありませんでした」
「連絡が着いたんやろか? よかったやね。迷惑だなんて気にせんでおくんなはれ」
「いろいろとご心配をお掛けしました……」
「ええんやってば。そないなことより、どうぞ、上がっておくんなはれ。葵は最終バスでもうすぐ帰って来まっしゃろから」
「え? 最終バスですか? だったら、そのバスに乗らないと! すぐに行きます!」
「そないな! 泊まって行っておくんなはれ! 遠慮せんで!」
「いえ、そんな女所帯にそれはできません。近所の手前もありますから」
「そないなことは気にせんと! 部屋はいっぱいあるさかいに」
「はあ……」
葵の母に強く勧められ断り切れなかったぼくは、とりあえず家にお邪魔することにした。だが、女2人の家に泊まるわけにはいかない。仕方ない、あとでタクシーを呼ぼう。あかりの不倫相手のことを葵の母親に聴くのもやめておいた。
上がってすぐ、左にある障子の部屋へ通された。葵の母親は奥へ行ってしまったので、ざぶとんに座りながらスマホを取り出し電話を掛けた。だが、どこにも通じなかった。電波の入りにくい場所なのかもしれない。誰かと連絡を取るのはあきらめ、家の中を見渡してみた。ここはたぶん、囲炉裏端を改造して応接間に仕立ててある部屋なのだろう。高い天井には太い梁がいくつも渡されていて、それらを立派な柱が支えている。元は相当な豪農だったに違いない。女手だけでやっていくのはさぞかし大変だろう。だから葵は、東京へ働きに出ていたのかもしれない。
葵、彼女はどんな女性になってぼくの前に現れるのだろう。会うのが半分、恐い。なぜならぼくは、7年前と少しも変わらないずぼら男のままだからだ。葵にがっかりされるぐらいなら、このまま黙って帰ってしまおうか。なかなか戻ってこない葵の母親を待つ間、ぼくはそんなことばかり考えていた。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
いくら待っても、葵の母親は戻って来なかった。いくらなんでもおかしい。すっかり日が暮れ、窓から月が見えていた。いくら昔の知り合いだからとはいえ、母子家庭に男のぼくがいつまでも上がり込んでいるのはまずい。さっきのおじいさんも、村で噂になっては困ると言っていたではないか。困ったぼくは、立ち上がると障子を開けた。家の中は真っ暗だった。壁のスイッチを入れてみた。明るくなった廊下の奥に、葵の部屋の戸が見える。
「あのう! すみません! おばさん! 下照さん!」
家の中はシーンとしていて、人の気配がない。どうしよう。さんざん悩んだあげく、『蜘蛛切』の入ったバッグを小脇に抱えて葵の部屋の前まで進んでいった。
コンコン! コンコン!
ドアを叩いたが、なんの反応もない。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
ひぐらしの声だけが、外から虚しく響いてくる。
コンコン! コンコン!
もう1度、今度は強くノックしてみたが反応はない。葵の母親はこの部屋に入っていったはずだ。もしかしたら、出て来て違う場所に移動したのだろうか? さっき、ぼくのために準備をしていると言っていた。台所だろうか? 廊下を戻ろうとしたとき、音も無く葵の部屋の戸が開いた。
「ああ、風間はん! すみまへんやった。お待たせしてしまって! さあ、どうぞ」
葵の母親が顔を出した。汗だくだ。どうしたのだろう?
「あの……葵さんは?」
「はい。奥に居まんねん。準備は出来てまんねん」
「準備って……葵さんはいつ帰られたのですか? 全然、気がつきませんでした」
「さっきや。遠慮せんで、どうぞ」
「そうでしたか……」
「さあ、どうぞ、どうぞ!」
ぼくはとりあえず、促されるまま葵の部屋に入っていった。中は真っ暗だ。奥の床のあたりがぼんやりと明るくなっている。和紙を使った間接照明だろうか?
「どうぞ、奥まで進んでおくんなはれ」
「はあ……」
奥に進むにつれ、目が段々と暗闇に慣れてきた。ぼくはビックリしてしまった。昨日、あれだけ整理整頓されていた葵の部屋が、ぐっちゃぐちゃに荒れているのだ。まるで、乱闘騒ぎでもあったかのように乱れまくっている。ぼくの大きな写真はビリビリに裂かれて壁からぶら下がり、写真やパンフレットも床に散乱していた。ところどころ何かで濡れていて、生臭い匂いがしてくる。
葵の身に何かあったのだろうか? こんなにメチャメチャになった部屋をぼくに見せ、葵の母親はいったい何がしたいというのか。
「あの……これは? それに……どうしてこんなに暗いのですか?」
ぼくは葵の母親に振り返った。暗闇で、彼女の目が怪しくきらめいた。そのとき、葵の母親の周りにあの黒い輪っかが見えた!
「もっと奥や。ほら、あそこや!」
葵の母親がうしろから長い手を伸ばし、奥の壁、引き裂かれたぼくの笑顔の下にある間接照明をどかした。そこには、大きな暗い穴が不気味に空いていた。
「あの……これは……」
もう1度うしろを振り返ろうとしたそのとき、背中を思いきり蹴られた!
ぼくは、暗い奈落へと転がり落ちていった。瞬間、息が詰まり、そのまま気を失った。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
夢の中で、ぼくは大学生に戻っていた。隣りにあかりがいる。その向こう側には葵が立っている。涼しげな瞳が一瞬、意味ありげな熱を持ってぼくを見つめた。ぼくも同じ情熱で、彼女を見つめ返す。あかりの頭上をぼくらの視線が渡り合う。気がつくといつの間にか、あかりはいなくなっていた。ぼくと葵は、至近距離で見つめ合っている。お互いの瞳の中に、己の姿を探し求めながら。
――目を開けると、葵がいた。ずっと捜し求めていた、あの葵が。
「葵……」
「圭……」
ぼくらはしばし見つめ合った。葵は、むかしと変わらぬ美しさを誇っていた。スレンダーな体は今も変わらず、切れ長の瞳は昔と同じく涼やかな光を放ち、絹糸のような髪は黒く輝いていた。葵は悲しげで疲れ切った様子だった。横たわるぼくを、じっと上から覗き込んでいる。
「圭……大丈夫?」
葵がぼくの額に手を当てた。冷たくてとても気持ちがいい。
「あの……あかりから電話がきて……それで……葵のお母さんが……」
しどろもどろになりながら話しかけた。ここはどこだろう? 天井が異常に低い。ぼんやりと裸電球が灯っている。窓はまったくない。真上の天井に、蜘蛛の巣のような細かい糸で出来た、まん丸な白い膜がかかっている。
「あれは……?」
「ああ。巣で蓋がしてあるんだ。男が来ると開けて引きずり込むんだよ」
「男……引きずり込む……葵、いったい何を言ってるんだい? 葵のお母さんは?」
「あれは母じゃない。父だよ。女に擬態しているだけだ」
「え? なに? ぼくは……夢を見ているんだろうか?」
「ああ……夢だと思ってくれていいよ。悪い夢だ……」
「夢……」
「うん……」
彼女はこんな暗い部屋の中なのに、月の女神のように澄んだ美しさで輝いていた。ぼくの中に、徐々に7年前の感情が戻ってきた。
「いま、何時頃だろう」
「穴に落ちてまだ数分しか経っていない。圭が気を失っていたのは、一瞬のことだよ」
段々と正気に返ったぼくは、葵に腕を支えられながらフラフラと立ち上がった。天井の高い、八畳間ほどの広さの部屋だった。
「旅行に言ってたって、葵のお母さんが……」
「うん。あかりと奈良市内のホテルに1泊した。あかりは説得して東京へ帰らせた。新幹線の駅まで送っていったよ。圭とはすれ違いになってしまったね。会いたかった?」
「ぜんぜん。今回のことだって、叔母が勝手に……あかりとは会うだけだって、言ったんだ。付き合うつもりや結婚の意志はサラサラないよ。葵……家にはいつ帰って来たの? ここは……どこ?」
「穴の中だよ」
よく見ると、葵はグレーの着流しを着ていた。髪型は以前と変わらずショートカットだ。ノーメイクで地味な着物を着ているせいだろうか? 彼女はとてもボーイッシュに見えた。ぼくはふと、疑問に思った。葵はこんなに背が高かっただろうか?
「夕方、圭が来たとき、すでにここに居たんだ。今日の午前中、あかりを送ってまっすぐ家に帰って来たんだ。あかりの不倫相手のことで、父と取っ組み合いのケンカになった。ここへは父に投げ込まれたんだ」
「取っ組み合い? 葵が……?」
葵の話し方はずいぶんと乱暴だ。まるで男のようだった。それにしても、葵はさっきから何をおかしなことばかり、言っているんだろう。これは、ぼくが見ている不思議な夢の続きなのだろうか。
「圭……変わってないね? 相変わらず美声で、爽やかな美丈夫だ。女が放っておかないだろう?」
「そんなことはないよ。いまだに彼女の1人もいないよ」
「そうなんだ……今なら、2人の間になんの障害もないね」
「葵……」
「最初から無理だったんだ……東京へ行ってはいけなかったのに……」
「葵、なぜ、東京に?」
「圭に会いたかったからだ。11年前、あかりは土蜘蛛伝説の研究にこの村を訪れ道に迷い、うちに泊まった。そのとき、圭の写真を見せられた。自慢の彼氏だと言ってね。ひと目で欲しいと思ったよ。とても惹かれた」
「葵、じゃあ……葵のお母さんが言っていた通り、最初からぼくのことを……」
「ああ……そのときはまだ子供で、我が家の交接方法を知らなかった。知っていたら、圭に会いに東京へは行かなかったのに。でも……やっぱり、行ってよかった。圭と友達になれたから。フフ……矛盾してるね」
葵が微笑んだ。切なげでやさしい、あの涼しい瞳で。
「ねえ……圭。7年前、なんであかりと別れたの? もしかして……」
「葵……ちがうよ。ぼくが研究に没頭し過ぎたせいだ」
たしかに、葵はあかりとの別れの大きな要因となった。だが、そのことで葵に負い目を追って欲しくはない。
「ねえ……圭は土蜘蛛伝説を知ってる?」
「土蜘蛛? 通りいっぺんのことしか知らないけど……」
「土蜘蛛のトップが、常に女ってことは知ってる?」
「女性? いや……でも、さっきおじいさんが土蜘蛛はメスが穴の中でオスを待ってるって……」
「ああ、それは本当の蜘蛛のことだろ? ちがうよ。この地方に住んでいた土着の豪族の話。代々、女首長なんだ。それも、奇形のね」
「それって……しっぽがあったって話かい?」
「そう、それ。その言い伝えは本当のことなんだよ」
「葵……何を言ってるんだい? それに君、随分と変わったね。相変わらず美しいが……その……雰囲気が……」
「ああ。作ってないからね。それより、早くここを出たほうがいい。父が戻ってくる前に」
「あ、ああ……もしかして、さっきぼくを蹴ったのって……葵のお母さん? なんでまた……」
「母じゃない、父だよ。女のフリをしてるだけだ。もっとも、子供を産めるから母でもあるけどね」
「葵……何を言ってるんだい? ぼくには葵の言ってることが、さっぱりわからないよ……。それより、ここから出るにはどうしたらいいんだ?」
「天井にある、巣の入り口を開けるんだ。2人なら開けられる」
葵がいきなり足下にかがみこみ、ぼくを肩車しようとした。
「ちょ、ちょっと待って! 肩車ならぼくがやる! 女性にそんなことさせられないよ!」
「ああ……相変わらず紳士だね。じゃあ、お願いするよ」
女性に肩車は失礼かと思い、ぼくは葵のうしろにかがみ込み、膝と腰を持ち上げて自分の右肩に乗せて持ち上げた。葵は見た目とちがい、骨がしっかりとしていてずしりと重かった。それに、右肩に何か当たる。葵が手を精一杯伸ばし、天井の白い膜を外側に押した。それは戸のようにパカッと外へ向かって開いた。まずは葵を押し出し、次にぼくが葵にひっぱってもらいながら伸び上がり、腕の力で外へと這い出した。外へ出てみてわかった。穴が空いていたのは、以前は机で隠されていた部分だった。
「ハアハア……葵、なぜ君は穴に閉じ込められていたの?」
「父が……無理矢理ぼくに交接を強いたから、嫌がって暴れた。服を無理矢理剥がされ、この着物を着せられたんだ。父は半分、狂っている。30年前だって、相手は父のことをなんとも思っていなかったはずだ。父が勝手にひとめぼれしただけだよ」
スーッ。
いきなり戸が開いた。葵の母親がいた。手に、ナイフを持っている!
「あら? 葵? どうして出て来ちゃったの? 子作りしなくちゃ、ダメでしょ?」
「父さん……もうやめて。土蜘蛛の一族はもう終わりだ。滅び行く一族なんだよ」
「だめだよ、葵! それこそ、大和朝廷の思う壺じゃないか! 我々土着の豪族こそが、この日本の真の民族なんだ!」
「でも……人間の犠牲の上に成り立つ生なら、滅んだほうがわが国のためだよ。もう、やめよう!」
「いやだ! 葵! 風間さんが好きなんだろ? 風間さんの精巣をもらい、尾から子宮に入れる! そうすれば、葵の子ができる! 我ら一族は、そうやって生き残ってきたんだ! それが宿命だ!」
「父さん……」
この2人は、なんの話をしているのだろうか? しっぽ? 精巣? もしかして、ぼくの精巣を切り取ろうとしている? まさか、連続殺人の犯人はこの下照家?
ゾッとした。
そのとき、葵の母親が電気のスイッチを入れた。天井の蛍光灯が、室内を明るく照らし出した。
部屋の隅に男の死体が転がっていた。全裸で股間部分がえぐれている。その男の血飛沫が、部屋全体に散っている。
ぼくの脚は震えた。突然、住職から授けられた『蜘蛛切』を思い出した! 床に転がっていたメンズトートから脇差を取り出すと、いそいで布をほどき鞘を払った。刀は明かりの下で妖しく光り輝いた。素人目にもわかる、研ぎ澄まされた名刀だ。
「な、なんで、その刀を! 葵! 取り上げろ! それは蜘蛛切だぞ!」
葵の母親、いや、父親が刀を見た途端、わめきはじめた。この刀が相当、怖ろしいらしい。でも、ぼくはこの刀で、いったいどうしようというのだ。このかわいそうな親子を切り殺すのか? そんなこと、ぼくには出来ない。
閉鎖的な空間で暮らし続けた葵の父親は、土蜘蛛の妄想にとらわれ、頭がおかしくなってしまったのだ。挙句の果てに、精巣を抉り取るという残酷な殺人を犯してしまったのだ。
躊躇している間に、葵の父親がナイフを振り上げ、とつぜん襲い掛かってきた!
ぼくはどうしていいのかわからず、『蜘蛛切』を手にしたまま茫然となった。
「父さん! やめて! 圭のことだけは……父さんだって、許さない!」
葵が、ぼくの持っていた『蜘蛛切』取り上げると、いきなり父親に切りかかっていった!
「葵! 葵……メンコイおまえのためを思ってこそ……!」
葵の父親がナイフで応戦している。
「でも、父さん……いや、ぼくを産んでくれた人よ。ぼくは愛する人の死は望まない!」
ザシュッ!
「ぎゃああああっ!」
ゴロゴロゴロゴロ。
葵の父親の首が飛んだ! それは、窓の下へと転がっていった。葵に血飛沫が掛かっている。ぼくはガタガタと震えながら、その場にしゃがみ込んでしまった。
「そんな……葵……そんな……」
「圭……からだを3つに切断しないと一族の呪いは解けない。自分自身は火に掛かる。それで済む」
グサッ! グサッ!
肉を裂く音が室内に響き渡る。それに伴い上がる血飛沫で、何が行われているのか想像できた。
「あ、葵……」
情けないことに、ぼくは座り込んだまま立ち上がることが出来なかった。そんな、葵がそんなことを。
葵は血飛沫を浴びたまま、振り返った。
「圭……行って。今から火をつけるから……」
「葵……」
「圭! 早く!」
葵がいつの間にか手にしていたライターで、部屋に散乱している写真に、はじから火をつけはじめた!
「圭! 逃げて! 早く!」
「葵……」
だが、ぼくは逃げ出すことが出来なかった。葵に近づき、抱きしめた。
「葵……愛してる」
「圭……圭の写真にひとめぼれした。本物に会って、もっと好きになった。会うたびに、その想いは深くなっていった。あかりが女だと誤解したから、2人の前では女性のフリをした。卵巣があるから、自分は女でもあると思っていたから……」
とつぜん葵が、着物を脱ぎ捨てた。下着は身につけていなかった。葵は、男の体をしていた。だが、ぼくは葵の体がおかしいことに気がついた。男性自身が付いていない。下半身はまるで女のようだ。彼の男性の部分は、前ではなくうしろについていたのだ! さっき葵を担いだときに肩に当たったのはこれだったのだ! まるで、尾のようだ。そして、そこからシュルシュルと白い糸の様な物が出ていた。
「葵……ぼくは……」
「この体……気持ちが悪いだろ? 最初から、圭と結ばれるとは思っていなかったから……」
「そんなこと……」
「蜘蛛の交尾って知ってる? 直接はしないんだ。精子だけをもらうんだよ。そうしないと性交できないんだ。一緒になっても、圭を苦しめるだけだ。お願い、逃げて! そして……わたしの分も長生きして!」
ドンッ!
ガッシャーン!
葵がぼくを思い切り突き飛ばした! 葵の裸体が、たちまちのうちに炎に包まれていく。ぼくは窓を割りながら庭に転落していった。
「葵! 葵ー!」
「風間はん! 行かないで! 葵に精巣をおくんなはれ! 子供を作っておくんなはれ!」
そのとき、転がっていた葵の父親の生首が叫んだ!
「ぎゃああああっ!」
庭の土に頭を打ちつけたぼくは、そこで意識を失った。 カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
ひぐらしが悲しげに、夏の終わりを告げていた。
「圭さん、大丈夫? あかりさん……転職して、なんとか元気にやってるって……」
「そう……」
叔母が気遣わしげに、あかりの事後報告に来てくれた。
あのあとぼくは、近所の人が呼んだ救急車で病院へ搬送された。軽い脳震盪だけで、翌日には退院できた。
下照家は全焼した。葵と父親とあかりの不倫相手の死体は、性別もわからないぐらい焼けていた。あかりと不倫相手の男は、葵の家に着いた晩に仲違いした。腹を立てたあかりは翌日の朝、寝ている男を下照家に置き去りにして、葵とホテルへ行ってしまった。そのあとぼくが下照家を訪ねたとき、彼はどこかに捕らわれていたのだろう。その男は、ぼくとよく似ていたそうだ。
結局、ぼくとあかりは1度も会わなかった。
葵は男で、未婚の父親と2人で農業を営んでいた。東京の職場でも男として働いていた。女と誤解していたのは、ぼくとあかりだけだった。いま思うと、葵はいつもズボンを履き、ノーメイクで髪もショートだった。
『蜘蛛切』はぼくのトーとバッグと共に消失した。後日あいさつに行った住職は、命が助かったんだからいいんだよと心から喜んでくれた。彼はこの一件を、実名を伏して郷土史に盛り込んだ。
これで、よかったのだろうか? ぼくが奈良に行かなければ、葵は死なずに済んだ。だが、連続殺人の新たな犠牲者が増えていたかもしれない。葵の父親はどうしても子孫が欲しかった。どうしても、男の精巣を手に入れたかったのだ。
だから葵は、あんなにも寂しげな瞳で、いつもぼくを誘っていたのか。半分あきらめ、半分投げやりで、だけどあふれる情熱は隠しようもなく。ぼくとまったく同じ想いを内に秘めて。
中途半端に終わってしまったぼくの初恋は、深い悲しみだけを心の奥底に残した。
ぼくはまた、大人に成り損ねてしまった。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
ひぐらしが最後の力を振り絞り、断末魔の叫びを上げはじめる。
それはまるで、蜘蛛が巣を張りはじめたことを知らせるサイレンのように、ぼくの頭の中にいつまでも鳴り響くのだった。
(ひぐらしが鳴くころ蜘蛛が巣を張りはじめる おわり)




