五
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
ひなびたバス停に降りてすぐ、村人に出会った。杖をついた老人で、話しかけてきた。
「おや? お兄はんはどちらから来られたんやか?」
「はい。東京から参りました」
「そうやろか。こないな山奥まで……いったい、どこの家を訪ねて来られたんやか?」
「下照さんです」
「下照? 下照はんになんの用やろか?」
「はい。娘さんと東京のときの知り合いで……ぼくが当時、付き合っていた女性のことでちょっと……」
「娘はん? あそこに娘はいまへんが……」
「いえいえ、ぼくは昨日そこのお宅にお邪魔しました。奥様ともお話しをしましたよ? 娘さんは留守でしたが、部屋もありましたよ。ぼくの知っている人です」
「奥はん? あそこには女の人は住んでおらへんはずやけど……やったら、一緒に行ってみまひょか?」
老人がおかしなことを言う。たぶん、何か勘違いしているんだろう。やれやれ。でも、親切な老人に逆らっては失礼なので、一緒に行ってもらうことにした。だが、葵の家に着き、玄関のチャイムを鳴らしても誰も出てこなかった。
「そんな……」
ぼくは途方に暮れてしまった。あたりを見回してみたが、庭や畑には誰の姿も見えない。葵の母親はあんなにぼくに来てくれと懇願していたのに。これはいったい、どうしたことだろう。
「ほんまにこの家やろか?」
「はい」
「そうやろか……どうしまっか?」
「ここで待ちます」
「やったら、うちで休んでいったらええ。この辺には喫茶店みたいな気のきいたもんは1軒もおまへんから」
「でも、それでは……」
「遠慮なんかしなくてええよ。うちには、ばあはんしかおらへんから。おれも暇やからちょうどええ」
「それでは、お言葉に甘えて……」
せっかくなので、親切な老人の家に寄らせていただくことにした。元来た道を戻り右に折れ、人が1人通れるほどの細い道を入っていった。その先にある大きな農家がおじいさんの自宅だった。広い庭にお邪魔して、縁側に座らせていただいた。家は高台に建っているため、はるか向こうの平野まで見渡せた。気持ちが良いところだ。葵はこんなすてきなところで育ったのか。それにしては、影のある女性だったな。やさしそうなお母さんだったが、家庭で何かあったのだろうか。ぼくは葵に父親がいないことすら、いままで知らなかった。そういえば、葵から家族の話を聴いたことがなかった。
「今、ばあはんが茶を持ってくるんで、もう少々お待ちおくんなはれ」
「どうもご親切にありがとうございます。ところで、下照さんは、こちらに長く住んでいらっしゃる方なんですか?」
ぼくは老人に、葵の家のことを聞いてみた。
「ええ。うちらよりも古くから住んでいる一族や。でも、近所づきあいをまるっきしせんんや。やから、詳しいことはよく知りまへん。今は親子2人しか住んでいまへん。男2人なのに、きょうび、畑が荒れ放題で……。どうしたんやろうと近所で噂しておるんや」
「男2人? たしかに周りの畑は荒れ果てていましたが……そういえば、葵のお母さんは彼女が畑をやっていると言っていたな。どこの畑だろう……」
葵が畑仕事を? 彼女のイメージから、まったく結びつかない。また、老人の話も辻褄が合わない。ぼくが首をひねって考えていると、奥からおばあさんがお茶と菓子を持って出てきた。
「いらっしゃいませ。わざわざ東京から、蜘蛛屋敷を訪ねていらしたんやろか?」
おばあさんが奇妙なことを言った。
「蜘蛛屋敷……ですか?」
「ああ、すいまへん。あの家は昔からそう呼ばれとるんや。K山から逃げて来た土蜘蛛の子孫だと噂されとるんや。そういえば、昨日の朝、女の人と連れ立って出かけるとこを見たんやよ。バス亭の方角に歩いていったわ。かわいらしいお嬢はんやったよ。蜘蛛屋敷に泊まったみたいやったよ」
「おまえ! やたらなことを言って噂になりよったらどうする。人の家のことは軽々しく口にするな!」
おじいさんの一言でこの話は打ち切りとなった。あかりが葵の家に泊まったことが、そんなに問題なのだろうか?
「まるっきし、おじいはんは口うるさくて叶いまへん。それでね、風間はん、ほんまのとこはわかりまへんが、あの家の地下には穴が有り、ほんまの住みかはそこだと言われていまんねんわ。それに……あの家は代々、奇形が産まれるそうや。なんでも……しっぽがあるとか……」
再びおばあさんが話しはじめた。葵の家はどうやら、土蜘蛛一族と関連があるらしい。住職の話とも一致する。下照家は、土着の豪族の末裔なのかもしれない。それにしても、しっぽとは。
「おまえ! そないなこと言ったら風間はんが気味悪がるぞ。何、ただの言い伝えや。気になさりまへんでおくんなはれ」
おじいさんが慌てて否定した。不思議な言い伝えがあるところだ。このような山奥だと、おばあさんのように本気で考えている人も多いのだろう。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
縁側に座ってお茶を飲みながらくつろいでいると、ひぐらしが鳴きはじめた。日が暮れる頃に鳴くから、ひぐらしというらしい。山際の村はだんだんとセピア色に包まれ、寂しげに風が吹きはじめた。そろそろおいとましたほうが良さそうだ。もう1度、葵の家に寄り、誰も居なかったら置手紙でもして帰ろう。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
「どうもいろいろとありがとうございました。そろそろおいとまさせていただきます」
「よかったら、夕飯を食べて泊まって行きなさい。これから帰ると暗くなるし、神隠しにでもあったらエライや」
「いえいえ、そこまでは……ご親切にどうもありがとうございました。1度、駅に戻ります。そろそろ知人の女性が、東京に戻っている頃かもしれませんので。場合によっては、このまま東京に帰るかもしれませんし」
「そうかい? やったら、そこまで送っていこう」
「いえ、本当に大丈夫です。お世話になりました」
「ほんまに大丈夫かい? 何ぞあったら、うちにおいでよ。くれぐれも気をつけてな」
「はい。わかりました。お邪魔しました」
ぼくは丁寧におじいさんとおばあさんに礼を述べると、彼らの家をあとにした。おじいさんが心配して、懐中電灯を照らしてぼくをいつまでも見送ってくれた。
山に日が落ちるのは早い。外灯のない寂しい田舎道を進んだ。突き当たりの道に出たところで、左の奥がポウッと明るくなっていることに気がついた。葵の家の玄関に明かりが灯っている! ぼくは明かりを目指し、夜道を駆け抜けた。家の前まで行くと、ガラリと戸が開いた。




