四
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
翌日、まだ暗いうちから起き出して住職と朝食を食べた。その後、境内を掃いたり本堂の雑巾掛けをして一宿一飯の恩を返そうとがんばった。
「機会があったらまたいらしておくんなはれ。今度はもっとおいしい物をご用意してお待ちしておるさかいに」
「そんな……充分、ごちそうになりました。親切にしていただき、本当にありがとうございました」
「今度はその、隣り村の彼女も一緒に連れて来なさい」
「え? いえいえ、彼女とはそういう間柄ではありません」
「そうなんやろか? 風間はんほどの男におらへんわけへんでしょ。女が放っておかないはずや」
「そんなことは……ぼくはこういった無骨な性格ですから、女性は一緒に居てもつまらないみたいですよ。それよりも……住職は、ぼくに男性の影が見えると、昨日おっしゃっていましたよね?」
「ああ……そうやったね。申し訳へんが、詳細はようわからん。やけど、人間の想いは恐い。たとえそれがええモノでも、深い情念は魔を呼ぶのや。充分にお気をつけておくんなはれ」
ぼくに憑いている男性に関して、思い当たる人物は浮かばなかった。だが、住職の言葉から、葵、あかり両方の女性の姿が思い出された。ゆうべは酒を飲んで忘れていたが、やっぱり2人に会うのは気が重い。懇願していた見合いをすっぽかして奈良まで来るとは、あかりはいったい何を考えているんだろう。嫌がらせにしては手が込んでいる。まさか、2人とも事件に巻き込まれたんじゃないだろうな? 不安になったぼくは、すぐに出発することにした。
「では住職、お世話になりました。近所のみなさまにもよろしくお伝えください。東京にお越しの際は、どうかぼくの家にもお寄りください。いろいろとお世話になりました。ありがとうございました」
「お気をつけて」
「失礼いたします」
住職に何度もお辞儀をして、ぼくは寺を後にした。
駅へ向かって歩いていると、うしろから呼ぶ声がする。振り返ってみると、住職だった。
「住職! どうされたんですか?」
「風間はん! 間に合ってよかった……この刀をお持ちおくんなはれ! なぜだか急に胸騒ぎがして……蔵から持ってきたんや。これは『蜘蛛切』といって、土蜘蛛を成敗したちう伝説の刀や。ほんまは門外不出の品やけど……あんはんの身がどうしても心配で。これをお持ちおくんなはれ。何ぞの役に立つかもしれまへん」
住職が差し出したのは、丁寧に錦の布で包まれた脇差だった。土蜘蛛を成敗した名刀『膝丸』は、京都の寺に納められているはずだが。
「『蜘蛛切』ですか……有名な源頼光の『膝丸』と何か関連があるのですか?」
「うちが本物と我が家では言い伝えられていまんねんわ。どうぞ、遠慮なくお持ちおくんなはれ。刀よりも風間はんの命のほうが重要だ」
「こんな貴重な品物を……では、謹んで納めさせていただきます。必ず、お返し致します」
「くれぐれも気をつけて。なんとなく、嫌な予感がするのや。風間はん、あんはんはやさしい人や。やけど、人と気持ちを同調してはいけまへんよ。ときには、突き放すことも大切や。では、無事を祈っておるんや」
「わかりました……慎重に行動します。では、行って参ります」
ぼくはにわかに不安になった。気を引き締めて行ったほうがよさそうだ。メンズトートに刀を入れると、そのまま住職に見送られて出発した。銃刀法違反に引っかかりそうだが、こうやって堂々と持ち歩いたほうが、かえって怪しまれないだろう。ぼくは慎重派だが、意外とこういった図太いところも持ち合わせているのだ。
駅前の市役所通りまで行き、電話会社でスマホの充電をして家に電話をかけた。
『もしもし、圭さんなの?』
「ああ。母さん。ぼくはいま……」
『もう、大丈夫よ! あかりさんから連絡があったの!』
「え? どういうこと?」
『さっき、あかりさんのご両親に彼女から電話がきて、いま奈良から東京に向かってるって! 新幹線に乗ってるそうよ。妹を通して連絡がきたのよ!』
「ええ! じゃあ……あかりはやっぱり奈良にいたの?」
『それが……男の人と一緒だったらしくて……どうも不倫相手と逃げていたらしいのよ。相手の男の人とは一昨日、葵さんの家に泊まったときにケンカ別れしたそうよ。昨夜はあかりさんと葵さんだけが、奈良のホテルに1泊したって話なの。とりあえず、無事でよかったわ。ごめんなさいね。圭さんに心配かけてしまって……』
「不倫相手? あかりのヤツは、まったく! 無駄足だったな……葵の家へ行くのはどうしようか」
『葵さんって、あなたも知り合いなんでしょ? せっかくだから、葵さんにあいさつしていらっしゃいな。それに、あなた、葵さんのお宅に今日の夕方行くって言ってあるんでしょう?』
「うん、葵のお母さんから必ず来てくれって言われてる。じゃあ……そうします。夜には東京に戻りますので」
『圭さん、気をつけてね。少しゆっくりしていらっしゃいな』
「わかりました……それじゃあ」
ぼくはホッとして電話を切った。すぐにあかりに電話をかけたが、また電源が切れていて繋がらなかった。
あかりの両親にも電話をいれた。母親が出て、ひどく恐縮していた。ぼくに何度もお詫びを言っていた。慰謝料や旅費うんぬんの話になったので、そちらはお断りした。ぼくも奈良へ旅行できたし、葵への下心もあるので、お金をもらうなんてありえない。
叔母にも電話を入れた。申し訳なかったと何度も謝られた。だったら、今度から見合いの話を持ってくるのはやめてくれと言いたかったが、今はやめておいた。叔母自身が責任を感じて落ち込んでいたからだ。これからは、軽はずみにぼくの縁談話を進めたりしなくなるだろう。
改めて安心した。あかりの無責任な行動にはひどく頭にきたが、7年前に逃げ出したぼくの贖罪だと考えることにした。これでおあいこだな。あかりのお母さんが言っていた、最近、彼氏と別れて落ち込んでいたというのは、この不倫相手のことだろう。ぼくとの見合い話を聞きつけた相手の男に、強引に旅行へ連れ出されたに違いない。途方にくれたあかりが、葵の家に連れて行ったのだろう。だが、おかしいな。葵の母親は、あかりの話しかしていなかった。もしかしたら、ぼくに遠慮して不倫相手のことは伏せておいたのかもしれない。
それよりも、今日の夕方、7年ぶりに葵に会える。そのことを想うとぼくは、ついつい甘酸っぱいような気持ちになってしまうのだった。
昼になったので、そのまま駅のそばで鴨汁そばを食べた。関西風味の薄味だが、ベースの味がしっかりしていて、新鮮な水と自然の素材が使われていてとてもおいしかった。
店を出たが葵の家に行くにはまだ早い。図書館へ行き、土蜘蛛の演目のビデオを見た。源義光が土蜘蛛の妖怪に寝床で教われ、名刀『膝丸』で成敗する物語だ。土蜘蛛は、歌舞伎や能、神楽などにその姿が残されている。こんなおどろおどろしい妖怪伝説がある土地で、葵は生まれ育ったのか。しかも、行方不明者が続出している集落だ。
葵はとてもはかなげで、それでいてとても印象深い女性だった。あかりが光なら、葵は影だ。人はときに、影に惹かれる。ぼくの中の暗い部分が葵に惹かれたのだろうか。
カナカナカナカナ、カナカナカナカナ。
あかりのスマホへ電話をかけた。電源は落とされたままだった。
すでに夕方になっていた。ひぐらしの鳴くなか、ぼくはバスに乗り葵のいる集落へと向かった。




