十四
裏口へ駆け込んだ風間の目には、すべてがスローモーションのように映っていた。どういう構図の元に自分がいるのか、わからなかった。なぜなら、自分の目の前に小刀を掲げたおかっぱボブの女の子が立ちはだかっていたからだ。その向こうで、あきらくんが今まさに裏口のドアを開けようとしていた。
「あきらくん! あぶないっ!」
風間の叫びも虚しく、ドアは開かれた。一気に拡がる深い闇と切り裂くような叫び声。飛び出してきた真っ白な物体。鏡のようなキラメキ。風間は瞬間、目を瞑ってしまった。
「うわああああっー!」
「ぎゃああああっー!」
『ニャアアアアーッ! ギャァァァァッー!』
2人の人間と一匹のケモノの断末魔が響き渡った。
風間が目を開けたとき、目の前にはおかっぱボブの女の子に刺されたタマの白い亡骸があった。あきらくんに飛び掛かろうとしたところを、小刀を持った女の子に刺し殺されたのだ。みるみるうちにひろがる赤い血と、それに吸い込まれていく白猫の体。緑色の瞳はカッと見開かれたままだった。
『このもんの目は碧く光り輝き真白き肌と共に夜の闇を切り裂く』とは、タマのことだったのか。
風間は、すぐにお札の用意をした。
あきらはものすごい衝撃を受けていた。あのタマが! 裏口を開けたとたん、ぼくに襲い掛かろうと飛び出してきた!
『あきらくん! あぶないっ!』
風間さんのよく通る声を聞きつけ、一瞬しゃがんでそれを避けた。うしろに誰かがいたことには気がつかなかった。彼女はなぜか、右手に小刀を持っていた。目標を見失ったタマは、その小刀に突き刺さった。即死だったと思う。魔にタマノリされたタマの、悲しい最期だった。血の海に倒れるタマにお札を貼る風間さんをボウッと眺めながら、優子にお礼を言おうと立ち上がった。
「優子! ありが……」
だが、そこにいたのは優子ではなかった。あの未久という優子に似ている同級生だった。
「優子じゃないって、なんど言ったらわかるのよ! キラってば、抱いてるときもずっと優子の名前を呼んでたわよね? 最初から、わたしは優子の代わりだったんでしょ? ひどい! ひどいよ! うわああああーっ!」
未久がギャアギャアと泣き叫びだした。彼女はしまいに、そこいら辺の物を手当たり次第に投げつけて暴れ出したので、仕方なく母が警察を呼んだ。
母と風間さんと一緒に警察に行った。未久の両親がやってきて、表沙汰にしないでくれと何度も頭を下げて謝られたので、事件にするのはやめることにした。ぼくも心から反省した。1度だけだが、彼女を優子の身代わりにした。それによって大人しかった彼女は神経に異常をきたし、ストーカーへと変貌していったのだ。ぼくにとってはなんでもない行為が、初めてだった未久にとっては世界がひっくり返るほどの衝撃だったのだ。
「だから言ったでしょ! 女を甘く見るなって! 自業自得よ!」
「…………」
「女はね、たった1人自分だけを愛してくれる人を望むのよ! でないとだんだん狂ってしまい、やがて魔になってしまうの……この子のように。反省しなさい! 謝るのは、あんたのほうなんだからね!」
「わかってるよ……」
母の小言は警察でも健在だった。
「まあまあ、お母さん。でも、彼女のお蔭で、あきらくんはタマの刃から逃れられたんですから……」
風間さんが庇ってくれた。それもそうだ。未久はぼくを殺そうと裏口の近くにある物置に潜んでいたらしい。それが、不幸中の幸いだった。ぼくを殺そうとした刃の矛先が、反対にぼくの命を付け狙う猫神の牙からぼくを救ってくれたのだ。なんとも皮肉な話だ。
ストーカーは未久だった。ぼくのメールアドレスと同じ綴りの他社の番号を使い、高校の生徒たちにイタズラメールを出していた。郷土史料館やスナック、通学路でぼくのうしろをつけ、森や川原からぼくの部屋を見上げていたのだ。ときどき感じた鋭い視線は、すべて彼女だった。行為はどんどんエスカレートしていき、ある日とうとう開いていた裏口から家の中まで侵入して、鍵まで盗んだ。
「あんたがタマを入れたときに、裏口の鍵を閉め忘れたからでしょ! ホント、ロクなことしないわね!」
「でも……裏の鍵をテーブルの上に置きっぱなしにしたのは母さんだろ! なんで、盗まれたことに気がつかなかったんだよ!」
「わたしは裏口は使わないから忘れてたの! 全面的にあんたが悪いんだから、口答えすんのやめなさい!」
オーブントースターの下に片思いのおまじないのお札を置いて、フランス人形を倒したのも彼女だった。サンダルも、わざとドアの外で脱いだらしい。自分が侵入したことをアピールしたかったみたいだ。ストーカーとはそういうモノらしい。自分の存在に気がついてもらいたかったのだ。中学生の頃からぼくに片思いをしていて、ぼくが付き合っている女の子の髪型をいつも真似していた。元は地味なめがねにお下げ髪で、中学校でぼくと同じクラスだったと教えられても、まったく覚えていなかった。
ぼくは自分が死ぬ事を言い訳に、たくさんの女性たちを傷つけてきた。自分の寿命が短いからという理由だけで、彼女たちの人生まで踏み荒らしてはいけなかったのだ。その報いが、こんな形で表れるだなんて。大神家の女たちの怨念が、今さらながらに理解できるような気がした。
未久は法事のごたごたに紛れて裏口から侵入し、腐ったりんごをタマの皿の上に置いた。そういえば前に届いたメールに、剝いたりんごのくだりがあった。いま気づいたが、このりんごを置いたのが優子だったとしたら、彼女は左利きだからりんごの剝き方が逆になるはずだ。それで、剝かれたりんごに違和感があったのか。どうして、もっと早くに気がつかなかったのだろう。優子は絶対に、ストーカー行為などしない人間だ。
外の階段でかかってきた電話は、祠の前から未久がかけたものだった。ぼくが風間さんと東京へ行ってしまったら、もう会えなくなると思い込んだらしい。ならば、いっそひと思いに殺してしまおうと、再びうちに侵入し物置に潜んでいたのだ。凶器の刃物は我が家の床の間の箱から盗み出したものだった。祖母が探していた御神体代わりの小刀だ。もう1つの御神体である石のありかを未久に尋ねたが、知らないの一点張りだった。だが、祠の前の足跡はすべて未久のものだったので、石もそのうち彼女の元から見つかることだろう。
それにしても、タマ。あんなになついてかわいらしかったのに。女の柔肌よりも気持ちの良い、あの滑らかな肌触りの毛並にはもう触れられないのか。グリグリと擦り寄るタマのかわいい後頭部は一生、忘れられそうにない。
ぼくと母は、風間さんと一緒に警察署の前にひろがる朝焼けを眺めていた。18歳の誕生日を越えたぼくが、朝日を見上げている。信じられない! 夢のようだ。見えない何かに感謝を捧げた。
ぼくたちは1番電車で、最寄り駅へと戻ってきた。
「まったく、もう! 朝になっちゃったじゃないの! お義母さん、寝ちゃったんじゃない?」
母がヒステリーを起こしている。いつも徹夜してるくせに!
「では、ぼくはこれで……あきらくん、よかったらぼくが滞在しているホテルに寄っていくかい?」
風間さんが誘ってくれた。
「あきら、そうしたら? わたしはちょうどいいから『トワイライト』で最期の仕上げをするわ。今日こそ、お店をちゃんと開けないと!」
「風間さん……すみません。ぼく、眠いから帰ります」
とにかく横になりたかった。タマもちゃんと葬ってやりたい。
「そうかい?」
「ええ。どうもありがとうございました。御迷惑をお掛けしちゃって。東京、一緒に行きたかったな……」
「いつでもおいでよ! そうだ! 今度のゴールデンウイークに泊まりに来ないかい? お友達や彼女も一緒に!」
「ええ! いいんですか? 絶対、行きます! うれいしいな!」
ぼくはたちまち浮かれ気分になった。重苦しかった18年間がいっぺんに吹き飛ぶようなよろこびに包まれた。
「あきら! 東京に行くのは勝手だけど、あんたはとうぶんの間、女は禁止だからね! あきらは女難の相があるから!」
「女との付き合いは、母さんが決めることじゃないだろ? あ! スマホ! 早く帰って拾わなきゃ!」
「母さんよりスマホが大事? お義母さんによろしく言っといてよね? 寝てたら起こさないで!」
「はいはい。じゃあ、ぼくはもう行くよ。母さん、あとでね。風間さん、今回の件は本当にどうもありがとうございました。風間さんがいなかったら、ぼくはこうして生きてはいられませんでした。あなたは命の恩人です」
「本当に。わたしからも感謝いたします。ありがとうございました」
ぼくと母は、風間さんに礼を述べて、深々と頭を下げた。
「そんな! ぼくは何もしていないです。魔を完全に封印できたのかも、まだわからないですし。引き続き四国の先輩と連絡を取り合い、最期まで責任を持たせていただきます。あとでもう1度、寄らせていただきます。そのときにまた。さようなら、お気をつけて」
「さようなら。失礼いたします」
「はい! 待ってます! さようなら!」
美声と共に去り行く風間さんのシルエットに、母といつまでも手を振り続けた。母とはスナックの前で別れ、家路をいそいだ。まぶしい光の中、鳥の鳴き声が騒がしかった。森のところどころに朝日が差し込み、下草にスポットライトを当てていた。なんて清々しく気持ちが良いのだろう。ぼくは浮かれて、川まで足を延ばした。川面には水がトウトウと流れ、ところどころで蝶々が戯れていた。例の小さな岩には孵化したばかりの小さなカマキリが乗っていて、一生懸命に手先を動かしていた。それは一見とても無意味な行動に思えるが、カマキリにとってはたいへん重要な仕事なのだろう。一生懸命に両手のカマを研ぎ澄まし、見えない敵に狙いを定めているのだ。タマが獲ったこともないねずみを想定しながら、大黒柱で爪をといでいたときのように。タマのことを思い出し、突然とてつもなく寂しくなってしまった。ぼくの懐でぼくをあたためてくれた、かけがえの無いぼくの相棒。ぼくの大切なタマ。ぼくはタマを埋葬しようと家に向かった
家の中はシーンとしていた。祖母は寝ているようだ。父の仏壇に線香を上げ、タマの皿に彼が1番好きだった猫缶を出した。いつもどおりの朝だった。タマがいないだけだ。猫皿を持つと裏口へ行き、小刀が刺さったままビニールに包まれたタマの死体を、スコップと一緒に抱えた。裏口から外へ出て階段を下り、祠の前にタマを埋めた。猫皿をその上に置くと、持ってきた線香に火をつけ手を合わせた。タマよ安らかに眠ってくれ。あの世に旅立ってしまったタマに、ぼくは1人ぼっちで永久のお別れをした。
それから部屋に戻って寝た。起きたのは夕方だった。太陽が黄金色に輝き、この世のモノとは思えないほど美しかった。付き合いはじめた頃に優子が、夕日が最近とてもきれいに見えるのよと言っていた。どうしてなのかと問いかけると、真っ赤になりながら、たぶん恋をしているからだろうと答えた。その赤いほっぺたが夕焼け空よりも何倍も美しく見えたので、ぼくも優子に恋をしているんだということに気がついた。そうか、これが恋なのか。恋という感情は死に似ている。いつか終わりがやってくると心のどこかでわかっているから、刹那、刹那の物事が緊張感を持ちはじめ、何もかもが美しく輝いて見えるのだ。今もちょうど、そんな感じだ。ああ、優子にたまらなく会いたい。未久もこんな気持ちだったのだろうか。ぼくを殺したくなるほど好きになってしまったのか。ならばやはり、ぼくは悪い人間だ。これからは、変わらなくてはいけない。せっかく生き長らえたのだから、良い人間へと変わっていかなくてはいけない。ああ、今日の夕日は本当に、なぜこんなにもきれいに見えるのだろうか。
『キラキラヒカルーオソラノホシヨー……』
そのとき、階段の下から拾ってきた壊れていたはずのスマホが鳴った。
「はい、もしもし?」
『あ、いたいたー! おれー! 吉村だけどー!』
「なんだ、どうした?」
『忘れてないよな? 待ち合わせ!』
「あー! ごめん、忘れてた!」
『ひっでえー! それよりも……1日遅れの誕生日プレゼントです! どうぞ!』
「なんだよー?」
『キラ?』
「え? 優子?」
『うん! よく……わかったね?』
「インフルは?」
『治ったからいるんじゃん! おれに感謝の言葉はー?』
「なんだよ、吉村かよ! 優子に代われよ!」
『はい、はい』
「優子?」
『うん、そう……わたし……キラが好き……キラは?』
「待って! 今から行く! 直接、会って返事する!」
『……おんなじ気持ちってこと?』
「会ってから話す! すぐ行くから! 待ってて!」
スマホを切り、すぐに出掛けることにした。早く優子の元へ行き、ぼくも好きだと返事がしたい。優子の子供が欲しいと、プロポーズをしよう。
山の向こうへ日が沈みはじめ、たそがれどきがやってきた。窓の向こうの景色に、思わず見とれた。
ああ、今日の夕日は美しい。この世のモノとは思えないぐらい、本当に美しい。ぼくが、恋をしているからだろうか?
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
「え……?」
そのとき、またあの音がした。
なんで?
どうして?
いつもより、近くから聞こえてくる。
うしろを振り返った。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
シュッ、シュッ、シュッ、シュッ。
ドアの向こうに、誰かいる。




