第18話 確定
翌年の春。
桜が咲いていた。
大学の構内にある桜並木が、今年も白とピンクの間の色で咲いた。
拓海は研究室に向かいながら、その桜を見た。
去年の春も、同じ場所に桜があった。
でも去年の俺と、今年の俺は——少し違う。
違う、というのは成長した、という意味ではない。
選んだ、という意味だ。
一月に、木原教授に「改訂版の研究計画書」を提出した。
今回の研究は「量子系と生体信号の双方向干渉」を正式なテーマとして設定した。
被験者は自分ではなく、倫理審査を受けた上で外部被験者を募集する。
「別の自分に接触できた」という主観的体験は、論文には書かない——でも、それが研究の出発点であることは、教授には話した。
教授は計画書を読んで「面白い。倫理審査の準備を手伝う」と言った。
「面白い、ですか」
「お前が自分の経験を研究に変えようとしている。それは——正しい研究者の姿だ」
二月に、美羽が職場の転勤の話を断ったことを教えてくれた。
「地方の病院で経験を積んでみないかって言われた。キャリア的には行った方がいいのかもしれないけど」
「断ったのか」と拓海は聞いた。
「うん」
「理由は」
「ここにいたかった」と美羽は言った。
それだけだった。
拓海はしばらくその言葉を持った。
「ここにいたかった」——その「ここ」に、俺が含まれているのかどうかを聞かなかった。
聞く必要がなかった。
含まれている、と分かっていた。
「ありがとう」と拓海は言った。
「なんで」
「ここにいてくれて」
美羽は少し間を置いてから「お互い様だよ」と言った。
春の夜、二人で川沿いを歩いた。
四月の川。
風が少し冷たかった。
桜が散り始めていた。
川面に花びらが浮いていた。
美羽が「そういえば」と言った。
「うん」
「去年の今頃、拓海に会ったときのこと覚えてる? 初めて会ったとき」
「覚えてる」と拓海は言った。「俺が引っ越した先で、隣の部屋だった」
「ドアを開けたら段ボールだらけで、拓海が途方に暮れてた」
「途方には暮れてなかった」
「暮れてたよ」と美羽は笑った。
あの笑い方だった——少し顔を歪める、美羽の笑い方。
拓海は、その笑い方を見て、少し目を細めた。
「どうした?」と美羽が聞いた。
「なんでも」と拓海は言った。
「久しぶりに、ちゃんと見た気がして」
「ちゃんと?」
「お前の顔」
美羽は少し黙って、それから「おかしなことを言う」と言った。
でも笑っていた。
拓海は黙って歩きながら、「おかしなことを言う」という返し方が——以前と変わっていないことを確認していた。
美羽は変わっていない。
俺が変わっていた間も、美羽はここにいた。
一拍遅れず、急がず、待って、そのまま「おかしなことを言う」と笑える人だった。
川面に花びらが浮いていた。流れていった。
「ゼロポイントフィールドってさ」と拓海は言った。
「うん」
「消えたものは消えないんだって。宇宙の最低限のエネルギーが充満した場に、沈んでいくだけで」
「うん」
「だから——二人の去年も、一昨年も、変な時期も、全部どこかにある」
美羽は少しの間、川を見ていた。
「それは、いいね」と言った。
「なんで」
「消えないなら——全部が今も一緒にあるみたいで」
拓海はその言葉を受け取った。
全部が今も一緒にある。
ゼロポイントフィールドに沈んだものも、選ばなかった可能性も、消えなかった感情も——全部、今も宇宙の基底状態で揺らいでいる。
消えていない。
そして今夜、桜の散る川の上に、今の俺と美羽がいる。
これも——いつかゼロポイントフィールドに沈む日が来るかもしれない。
でも沈んでも消えない。
宇宙の基底状態に、今夜の花びらと、美羽の笑い方と、川の音が、エネルギーとして残り続ける。
その夜、一人になってから、拓海は考えた。
多世界解釈が正しければ——今も、無数の世界で無数の自分が生きている。
成功した俺が、一人で夜景を見ている世界。
犯罪者の俺が、どこかで折り合いをつけている世界。
無選択の俺が、静かに積み重なっている世界。
死んだ俺が、ゼロポイントフィールドの中に沈んでいる世界。
どれも、ある。
どれも、消えていない。
でも——この世界では、今夜、桜の散る川で美羽の笑い方を見た。
それは、他の世界の俺には、起きていない。
この世界の俺だけに起きた。
選んだから——起きた。
翌朝、拓海はノートを開いた。
最後のページに、書いた。
*「コペンハーゲン解釈では、観測が現実を決める。多世界解釈では、全ての可能性が存在する。どちらが正しいかは、まだ分からない。でも——どちらにおいても、観測することの重さは変わらない。見るという行為が、対象を変える。そして観測者も、変わる。*
*俺は今年、俺自身を観測した。何度も、下手に、途中で目を逸らしながら。でも最終的には——見た。*
*選ばなかった全ての自分が、静かに沈んでいった。残ったのは——弱くて、臆病で、それでも選んだ俺だけだった。*
*それで十分だ。*
*宇宙の床で揺らぐ全ての可能性が、今日の俺を支えている。消えたものは、消えていない。ただ——沈んでいるだけだ。」*
ペンを置いた。
窓の外に朝があった。
桜がまだ咲いていた。
台所から、コーヒーの音がした。
美羽が来ていた。
「おはよう」という声がした。
「おはよう」と拓海は言った。
観測は、今日も始まっている。
*選ばなかったすべての自分が、静かに消えていった。残ったのは——弱くて、臆病で、それでも選んだ俺だけだった。*




