第17話 最終選択
十月の末。
木原教授に「実験を止めます」と告げた。
「止めるのか」と教授は言った。
「一度、止めます。記録を整理して、論文にできる部分とできない部分を分けます。その後、改めて倫理審査を受けた上で再開するかどうか考えます」
教授はしばらく拓海を見た。「それは——正しい判断だ」と言った。
「正しいかどうか分かりませんが、俺の判断です」
「同じことだ」と教授は言い、少し笑った。
夜、最後の実験を行った。
今回は接触ではなく、記録のための実験だった。
この半年に起きたことを、量子系として可能な限り記録に残す。
ログファイルに、脳波データに、干渉パターンの変化に——全てを記録して、保存する。
起きたことは、消えない。
でも記録しなければ、証拠にならない。
証拠にならなければ、研究にならない。
研究にならなければ——誰の役にも立たない。
拓海は三時間かけて、全てのデータを整理した。
整理が終わったとき、頭の中が静かだった。
男の声がなかった。
荒れた声もなかった。
犯罪者の声も、無選択の気配も、死者の影も——なかった。
静かだった。
これが「収縮した後」の状態か、と思った。
重ね合わせが終わって、一つに確定した後の静けさ。
以前は「静かすぎる」と感じた無選択の自分の状態に似ているかもしれない——と一瞬思ったが、違った。
あの静けさは空虚だった。
今の静けさは——充足していた。
充足、という言葉は少し大げさかもしれない。
でも「何かが埋まった」感覚は確かにあった。
多世界解釈が正しければ——俺が消えた世界でも、別の俺が生きている。
成功した俺は、一人で高層マンションに住んで、論文賞を取って、美羽の笑い方を思い出せないでいる。
犯罪者の俺は、どこかで何かと折り合いをつけて生きている。
無選択の俺は、毎日が少しずつ同じ形で積み上がっていく。
死んだ俺は——ゼロポイントフィールドに沈んで、消えずにある。
どれも、俺だ。
でも——この世界の俺は、今日、別の選択をした。
弱くて、臆病で、美羽の笑い方を一番大事にしている俺を——引き受けることにした。
翌朝、美羽に「ありがとう」と言った。
「え、急に何」と美羽は言った。
「死んだ俺から、伝言を預かってたのをずっと忘れてた」
「死んだ俺」
「夢の中で会った。お前の世界では言えなかった、美羽にありがとうって言ってくれって」
美羽は少しの間、黙っていた。
「その人も、私のことを大事にしてたんだね」
「そうだと思う。ただ、うまくいかなかった」
「うまくいかなかった自分の言葉も、ちゃんと届けてくれるんだね」と美羽は言った。
「拓海は」
拓海は何も言えなかった。
美羽が「ありがとう、伝えてくれて」と言った。
コーヒーを淹れに台所へ行った。
十一月の初め。
学会から次の発表招待が来た。
今度は京都だった。
拓海は「行きます」と答えた後、美羽に「一緒に行かないか」と聞いた。
「仕事があるから全部は無理だけど」と美羽は言った。
「発表の日は行けるかもしれない」
「見に来てくれるか」
「うん。せっかくだから見たい」
「発表が終わったら、嵐山行こう」
「嵐山、秋だね」と美羽は言い、少し考えてから「行く」と言った。
京都から帰ってきた夜、拓海はノートを開いた。
あの夜、「投稿先を変えろ」と書いてあったページ。
今は空白になっている——そのページの次に、拓海は書いた。
「波動関数の収縮は、暴力じゃない。それはただ——一つを選ぶことだ」
「選ばなかった全ての自分が、宇宙の基底状態に沈んでいる。消えていない。ただ、この世界の俺を——支えている」
ペンを置いた。
窓の外に夜があった。
美羽の部屋に光がついていた。
「まだ起きてる?」とLINEを打った。
すぐに返ってきた。
「うん、本読んでた」
「眠れなかったら来て」
「行く」
三十秒後、ドアをノックする音がした。




