古い水路が目を覚ます時
ナツメヤシ園からの帰り道は、行きとは違っていた。
行きは、恐怖が前にあった。
今は、背後にもある。
黒い封印石から遠ざかるほど、ヤザンは背中が無防備になっていくように感じた。
後ろから怪物の足音が聞こえるわけではない。
古いナツメヤシの間に、動く影が見えるわけでもない。
それでも、あの園の静けさは、立ち去る者を黙って見送るようなものではなかった。
こちらがただ一度振り返り、まだそこにあるのだと思い知らされるのを待っている。
そんな静けさだった。
ラカンは先頭を歩いていた。
急いではいない。
その足取りに乱れはなく、前方の道を見ながら、ときおり一行の顔にも目を配っていた。
隣を歩くサーリムは、ヌーリヤとアシールが修正した水路図を手にしていた。
そこには、ナツメヤシ園から村の外れへ伸びる新たな線が加えられていた。
第三の流路。
砂の下に埋もれた、古い水路。
地図を見ながら、サーリムが言った。
「古い鍛冶小屋の裏か……あの水路がまだ残っているとは思わなかった」
ヌーリヤが答える。
「ビスカラでは、今も使われている水路は記録に残します。でも、人々が恐れる水路は、いつの間にか昔話の中へ追いやられる」
アシールが言った。
「昔話は怠惰な記憶よ。恐怖だけを残して、その理由を忘れる」
誰も言葉を返さなかった。
アイン・アルワルの人々が恐れていたのは、禁じられたナツメヤシ園だけではない。
かつて埋めなければならなかった何かを、別の名前で呼んでいたのだ。
呪い。
禁忌。
近づいてはならない場所。
太陽が少し高くなった頃、一行は村の最初の家並みへ辿り着いた。
光は強くなっていたが、村を安心できる場所に変えてはくれなかった。
むしろ、夜が残したものをはっきりと照らし出している。
水路の近くで崩れた石膏の壁。
固い土の上に刻まれた鉤爪の跡。
そして、鎧のような皮膚を持つ怪物が現れた場所に残る、深い穴。
子供たちは外へ出ることを禁じられていた。
それでも、小さな顔が扉や細い窓の陰から覗いている。
シグランの姿を見つけると、子供たちの間に囁きが広がった。
「大きな怪物を倒した人だ」
「青い炎を見た!」
「父ちゃんが、ザランの騎士様は村の守り手よりずっと強いって言ってた」
視線は、他の誰よりもシグランへ集まっていた。
彼の炎は人々の目に見える。
その強さも、誰にでも理解しやすかった。
シグランにも囁きは聞こえていたはずだ。
笑みこそ見せなかったが、背筋がわずかに伸び、顎も少しだけ上がっている。
ヤザンには、それで十分だった。
「今日から、村の子供たちに路地で追い回されそうだな」
小声で言うと、シグランは振り返らずに答えた。
「お前のほうへ追い払ってやる」
「この肩を見たら、すぐにお前のところへ戻ると思うぞ」
「ザランの紋章を炎で焼きつけてやる。そうすれば、誰も近づかない」
二人の間を歩いていたマヤが言う。
「二人とも疲れていて、怪我もしているのよ。しかも、この村の下には危険な流路がある。それなのに、今が冗談を言う時なの?」
ヤザンが答えた。
「そうだ」
シグランも続ける。
「必要だ」
マヤはため息をついた。
だが、小さな笑みを隠しきれていなかった。
少し離れた場所から、ジャラールが三人を見ていた。
サーリムへ顔を寄せ、小声で言う。
「変わった連中だ」
「強い連中だ」
ヌーリヤが加えた。
「どちらも正しいわ」
後ろを歩いていたアシールが、彼らを見ずに言った。
「時には、その組み合わせだからこそ生き残れることもあるのよ」
*
古い鍛冶小屋は、村の東側にあった。
一部が放棄された、石膏造りの家々に囲まれている。
もう長いこと使われていない。
鍛冶師はすでに亡くなり、家族はビスカラの中心部へ移り住んでいた。
傾いた木の扉。
埃をかぶった古い革製のふいご。
壁に掛けられたまま錆びついた鍛冶道具は、鉄の骨のように見えた。
ヤザンは小屋の前で立ち止まった。
マルワンの家のように、温かな記憶が残る場所ではない。
それでも、よく知っていた。
村の子供たちは、別の理由でこの小屋を恐れていた。
呪われていたからではない。
近づくたびに、老いた鍛冶師が必ず怒鳴りつけたからだ。
「裏です」
一行は小屋の周りを回った。
壁と古い石の列の間に、狭い空間がある。
地面は一見すると普通だった。
薄い砂と乾いた藁に覆われている。
だが、マヤはすぐに足を止めた。
「この下に水がある」
ヌーリヤが素早く彼女を見る。
「感じるの?」
マヤが頷く。
「少しだけ。流れてはいない……閉じ込められているみたい」
ヌーリヤは近づくと、片膝をついて地面へ手を置いた。
目を閉じる。
しばらくして、ゆっくりと目を開いた。
「ええ。地下に古い水路があります」
アシールが言う。
「いいわ。ここから始める」
サーリムが尋ねた。
「地面を壊すのか?」
「いいえ」
ジャラールが彼女を見る。
「なら、どうやって水路へ近づく?」
アシールは道具袋から三本の黒い杭を取り出した。
「開く必要はないわ。自ら開かないよう説得すればいい」
シグランが言う。
「封印術はどれも、裁判所にいるような言い方をするのか?」
アシールは淡々と答えた。
「中には、罪状を理解する前に判決を下して、あなたを殺すものもあるわ」
シグランが黙る。
ヤザンが言った。
「納得できる答えだ」
ラカンの落ち着いた声が飛んだ。
「作業に集中しろ」
アシールは狭い空間の中央まで進み、最初の杭を地面へ打ち込んだ。
それから、マヤとヌーリヤへ目を向ける。
「二人には、水の痕跡を固定してもらう。押しても、引いても駄目。ただ、私に見えるようにして」
マヤが尋ねた。
「どうすれば?」
ヌーリヤが答える。
「暗闇の中にある糸へ、引っ張らずに触れるようなものよ」
マヤは彼女を見てから、頷いた。
「分かった」
二人は古い流路を挟むように立った。
マヤが手を上げる。
腰の水袋から細い水の筋が伸び、砂を濡らすことなく、その表面を滑るように進んだ。
反対側では、ヌーリヤが地面へ掌を置く。
彼女の指の周囲に、水の痕跡を読むビスカラ式の術式が浮かび上がった。
砂の色を帯びた、淡い青の線。
二人の方法は異なっていた。
マヤの水は生き物のように目に見えて動き、ヌーリヤは、水が消えたあとに残る痕跡さえ読み取っていた。
二人を見ながら、サーリムが言う。
「アルマザの水と、ビスカラの水が、こんなふうに力を合わせられるとは思わなかった」
暗い灰で線を引きながら、アシールが答えた。
「水は私たちの旗など気にしない。気にしているのは人間だけよ」
地面が震え始めた。
大きな揺れではない。
だが、ラカンが手を上げるには十分だった。
「配置につけ」
シグランが右へ移動し、掌に青い炎を灯す。
ジャラールとサーリムは、鍛冶小屋へ続く二つの通路を塞いだ。
ヤザンは傾いた壁のそば、アシールと村の内側へ続く細い道との間に立った。
ラカンが彼を見る。
「ヤザン」
「はい」
「アシールと道の間を守れ。彼女を守る時か、道を塞ぐ時以外は動くな」
ヤザンは頷いた。
「承知しました」
ラカンはそれ以上、何も言わなかった。
命令は明確だった。
ヤザンも、自分がそこに置かれたのは予備としてではなく、役目を託されたからだと理解していた。
背後からアシールの声がする。
「流路が抵抗を始めたわ」
マヤの足元で砂が震えた。
彼女が歯を食いしばる。
「水を引き込もうとしてる」
ヌーリヤが言う。
「渡しては駄目。あなたの水を奪えば、それを使って地上までの道を開く」
「全然、安心できない説明ね」
「安心する必要はない。固定することだけ考えて」
マヤは上げた手を動かさなかった。
水が細かく震え、やがて静まる。
一本だった水の筋は、三本の細い糸へ分かれた。
透明な弦のように、それぞれが異なる場所で地面へ触れている。
アシールが言った。
「いいわ。完璧よ」
最初の杭へ掌を置き、囁く。
「留まりなさい」
地面の下から音がした。
石が、別の石の上を引きずられる音。
シグランが音のした方角へ顔を向ける。
次の瞬間、壁際の砂が裂けた。
流路そのものが開いたわけではない。
だが、小さな亀裂が生まれ、そこから大型犬ほどの怪物が飛び出した。
細長い身体。
灰色を帯びた黒い皮膚。
口の中には、細い牙が隙間なく並んでいる。
怪物はシグランにも、サーリムにも目を向けなかった。
真っすぐにアシールへ跳びかかる。
シグランが動いた。
だが、狭い通路のせいで、炎を撃ち込む角度が取れない。
最も近くにいたのはヤザンだった。
ラカンがヤザンに守れと命じた一線を、怪物が越えた。
そこで、ヤザンは動いた。
怪物がアシールへ届く直前、ヤザンは身を低くし、怪物そのものではなく、その進路を塞ぐように横から飛び込んだ。
怪物が負傷した肩へ激突する。
骨の奥を稲妻のような痛みが走り、一瞬、呼吸が止まった。
それでも、声は上げなかった。
ラカンから教わったとおり、衝撃に逆らわず身体を回す。
怪物の牙が食い込む前に、その勢いを肩の上から横へ流した。
無事なほうの手を伸ばし、ざらついた尾を掴む。
体重をかけ、怪物の進路を壁側へ逸らした。
押さえ込めたのは、ほんの一瞬だった。
それ以上は、傷ついた肩が耐えられない。
息を詰まらせながら、ヤザンが叫ぶ。
「シグラン!」
青い炎が届いた。
短く、正確な一撃。
杭にも、アシールが引いた線にも触れず、怪物の頭だけを焼き抜いた。
怪物が倒れる。
ヤザンも片膝をついた。
肩を押さえた顔から、血の気が引いている。
マヤが叫んだ。
「ヤザン!」
「水の糸を切るな」
マヤの身体が止まる。
ヤザンの言うとおりだった。
今ここで持ち場を離れれば、地下の流路が開くかもしれない。
マヤは歯を食いしばり、その場に残った。
上げた手は下ろさない。
それでも、その目はヤザンから離れなかった。
サーリムは、すべてを見ていた。
片膝をつき、苦しそうに呼吸しながらも助けを求めないヤザン。
彼を案じながら、それでも水を固定し続けるマヤ。
二人の間に立ち、掌に炎を灯したまま、新たな亀裂を警戒するシグラン。
サーリムが低い声で言った。
「本物の隊だ」
ジャラールが答える。
「言っただろ。変わった連中だ」
サーリムは三人から目を離さなかった。
「俺が言ったのは、強い連中だということだ」
怪物に殺されかけたばかりだというのに、アシールは何事もなかったように作業を続けていた。
だが、顔を上げずに言う。
「ヤザン」
ヤザンが苦しそうに答えた。
「はい?」
「作業が終わったら、マヤにその肩を診せなさい」
「お優しいですね」
「使える道具を壊れたままにしないだけよ」
シグランが言う。
「また褒められたな」
ヤザンは負傷した腕を身体へ寄せながら、ゆっくりと立ち上がった。
「道具扱いで喜べと?」
アシールは灰の線から目を離さない。
「捨てるとは言っていないわ」
誇るべきなのか、不安になるべきなのか、ヤザンには分からなかった。
*
第三の流路を固定するまでには、三十分ほどかかった。
汗と振動に耐えながら、一瞬も気を抜くことのできない時間だった。
新たな怪物は現れなかった。
だが、地面は二度、新たな亀裂を作ろうとした。
そのたびに、ヌーリヤが亀裂の現れる兆しと方向を察知し、マヤがその上の水を固定した。
アシールは新たな杭を打ち込むか、灰で別の線を描いて塞いでいく。
すべてが終わると、マヤはその場へ座り込み、深く息をついた。
額の汗を拭いながら、ヌーリヤが言う。
「わずかな水を、まるで大河のように操るのね」
マヤが疲れた笑みを浮かべる。
「あなたは、私には見えない水の音まで聞いてる。どちらのほうが変なのか分からないわ」
「ビスカラでは、それは褒め言葉よ」
「アルマザでも……時々はね」
アシールは最後の杭へ近づき、指先で触れた。
杭は震えなかった。
「第三の流路は、この地点で一時的に固定できたわ」
サーリムが尋ねる。
「一時的?」
「封印石の中心を閉じるまでよ。一日以上放置すれば、この流路は再び抵抗を始める」
ラカンが尋ねた。
「残りは?」
アシールが水路図を開く。
「第一の流路は、怪物が現れた干上がった水路の下。第二の流路は、封印石の真下よ」
シグランが言う。
「なら、次は水路へ行く」
ラカンが答えた。
「負傷者を戻してからだ」
ヤザンが口を開く。
「俺はまだ――」
ラカンは振り返らずに言った。
「お前の名前は出していない」
ヤザンが黙る。
マヤが言った。
「でも、今のは絶対に言おうとしてた」
シグランも続ける。
「分かりやすすぎる」
ジャラールまで言った。
「俺でも何を言うか予想できたぞ」
ヤザンは一人ずつ顔を見た。
「素晴らしいな。いつの間にか、全員が俺を読めるようになったらしい」
ラカンが言う。
「同じ過ちを繰り返すからだ」
アシールも加える。
「だから予測しやすいのよ」
疲れていたマヤが笑みを浮かべる。
シグランでさえ、笑いを堪えているように見えた。
だが、その空気は長く続かなかった。
広場の方角から、小さな鐘の音が聞こえた。
一度。
続いて、もう一度。
そして、三度続けて鳴る。
サーリムの顔つきが変わった。
「客舎の方角からの警報だ」
ジャラールが言う。
「水路のほうじゃないのか?」
ヌーリヤが耳を澄ます。
「違う……村の中央からよ」
ラカンがアシールを見る。
アシールは水路図を握りしめた。
「この地点は固定した。でも、圧力が第三の流路から別の古い支流へ逃げたのかもしれない」
サーリムが尋ねた。
「どの支流だ?」
アシールは答えず、ヤザンを見た。
「第三の流路は家々の下を通っているのね?」
「はい」
「ここへ届く前に、別の場所へ分かれている?」
ヤザンはすぐに答えられなかった。
古い路地。
閉ざされた扉。
子供たちが近づくことを禁じられていた場所。
記憶の中で、それらが一本の線へ繋がっていく。
ヤザンの表情が変わった。
「広場だ」
ラカンが尋ねる。
「広場に何がある?」
「古い井戸です」
一瞬、誰も言葉を発しなかった。
直後、広場の方角から女の悲鳴が響いた。
怪物の声ではない。
村の中心に現れた危険を目にした、人間の悲鳴だった。
アシールが鋭く言った。
「井戸へ。今すぐ!」
全員が同時に動き出す。
最短の道を知っているのはヤザンだった。
それでもラカンを追い越さず、隊列も崩さない。
二軒の家の間にある細い通路を指す。
「ラカン先生、こちらです。こっちが近い」
ラカンが言った。
「俺の後ろにいろ」
「はい」
ラカンが通路へ駆け込み、ヤザンがその後ろへ続いた。
残りの者たちも走り出す。
彼らの背後には、黒い杭が地面へ打ち込まれたまま残っていた。
静かに。
揺れることなく。
だが、アイン・アルワルの家々と道のさらに下では、圧力が別の出口を探していた。
古い水路が、一つ、また一つと目を覚まし始めていた。




