二通目の書簡
その夜、彼らはわずかな距離しか進めなかった。
ラカンは戦闘の跡から離れ、木々に囲まれていない開けた場所まで三人を導いた。
安全な場所ではない。
だが、彼らの身体はもう、東槍駐屯地まで進み続けられる状態ではなかった。
ラカンは先に周囲を調べた。
岩の配置と光の届く範囲を確かめ、何度も空中へ手を伸ばして、距離の歪みが残されていないか探る。
道が再びただの道へ戻り、影の奥にもう一つの足音が潜んでいないと確信するまで、火を起こさなかった。
ようやく灯った焚き火は小さい。
四人の身体から冷えを遠ざけるだけの、わずかな光だった。
数時間前まで、火は休息の中心だった。
今は、生き残るための境界線になっている。
ラカンが言った。
「誰も光の外へ出るな。お前たちは見張りに立たなくていい。今夜は俺が起きている」
マヤは火のそばへ座り、両手で自分の手首を包んだ。
黒い拘束はもうない。
それでも皮膚は冷えたままで、指を握ろうとするたび、動きが鼓動の半分ほど遅れた。
その隣では、ヤザンが胸を押さえ、わずかに前屈みになっている。
木へ叩きつけられた衝撃は、肋骨から背中まで痛みを残していた。深く息を吸おうとしても、途中で身体が拒む。
シグランは三人から数歩離れた場所へ座っていた。
顔を伏せている。
片手は喉へ。
もう片方は、土の上に置かれたまま動かない。
首には、アズロンの指の跡が赤く残されていた。
握った手だけが消え、その形は今も皮膚に食い込んでいるかのようだった。
マヤが近づく。
「シグラン……」
顔は上がらない。
返事もなかった。
マヤはしばらくその前に立ち、やがてラカンを見る。
いつもの拒絶とは違う。
シグランは地面を見ているのに、何も見えていないようだった。
「座っていろ、マヤ。俺が診る」
マヤはゆっくりと元の場所へ戻った。
ラカンは携帯用の治療袋を開き、まずヤザンの前へ座る。
「手をどけろ」
ヤザンは言われたとおりにした。
ラカンの指が、傷を確かめるように胸元を慎重に押していく。
肋骨の一本へ触れた瞬間、ヤザンの顔が歪んだ。
声は出さなかった。
「明らかな骨折はない。だが、打撲は深い。ゆっくり歩け。絶対に一人で動くな」
ヤザンが反論しかける。
「僕は――」
ラカンが目を上げた。
ヤザンは残りの言葉を呑み込んだ。
幅の広い包帯を胸へ巻き、呼吸を妨げすぎない強さで固定する。
次にマヤの手首を確認した。
指を開閉するよう指示すると、やはり反応が遅れている。
「拘束は皮膚だけを捕らえていたんじゃない。指先のケメン経路にも影響が残っている」
マヤは自分の手を見る。
「元に戻りますか?」
「戻る。だが、駐屯地の医師に診せるまでケメンを使うな」
「分かりました」
残るのはシグランだった。
ラカンはその前へ行き、片膝をつく。
「喉を診る」
返事はない。
驚かせないよう、ゆっくりと手を伸ばした。
指が痕へ触れた瞬間、シグランの顎が強張る。
それでも、逃げなかった。
ラカンを見ることもない。
打撲はひどい。
だが、骨は折れていなかった。
痕の形を見るだけで分かる。
シグランを掴んだ男は、一度力を込めるだけで終わらせられた。
それを、あえてしなかったのだ。
「お前を掴んだ男は、その気になれば首を折れた」
シグランは動かない。
「生き残ったことは、恥じゃない」
視線は土へ向いたままだ。
納得した様子はない。
そもそも、聞こえているかさえ分からなかった。
ラカンは首へ軽く包帯を巻き、立ち上がろうとした。
マヤの目が、彼の肩から流れる血へ止まる。
「先生、その傷……」
「自分でやる」
マヤは、戻ってきてから初めて拒否を許さない声を出した。
「座ってください」
ラカンが彼女を見る。
両手はまだ震えている。
それでも治療袋から包帯を取り出し、待っていた。
しばらくして、ラカンは座った。
マヤは肩に張りついた破れた布を慎重に剥がす。
黒い腕に裂かれた傷は長く、アズロンの攻撃をヤザンから逸らした際に、さらに開いていた。
水筒に残っていた水で傷を洗い、肩へ包帯を巻く。
指が何度も遅れた。
それでも、助けは求めなかった。
ラカンは黙って見守った。
包帯を結び終えたとき、短く言う。
「よし」
マヤは両手を下ろした。
その一言だけで、呼吸がわずかに落ち着いた。
ラカンは光の端へ座った。
三人と道の両方が見える位置だった。
「判断の是非は、全員が立てるようになってからだ」
誰も答えなかった。
一つずつ過ちを並べる必要はない。
シグランは命令に背いた。
ヤザンは罠だと分かりながら、そのあとを追った。
マヤの手首には、自分が餌として使われた瞬間の感触が残っている。
そしてラカンは、敵が三人へ傷を残したあとで辿り着いた。
全員が、自分を責める刃をすでに胸の内へ抱えていた。
これ以上、誰かが押し込む必要はなかった。
夜はゆっくりと過ぎていった。
マヤは焚き火のそばへ横になり、外套を肩まで引き上げた。
光の端で影が動くたびに目を開き、ラカンの姿を探してから、再び瞼を閉じる。
ヤザンは、痛みの少ない側を下にして横になった。
深く息を吸うたびに漏れそうになる呻きを隠していたが、ラカンには聞こえていた。
シグランだけは眠らなかった。
低い岩へ背中を預け、首の包帯へ手を置いたまま座っている。
目の前の炎は静かだった。
静かすぎた。
目を閉じるたび、アズロンの声が戻ってくる。
『お前がザランの名を背負っているんじゃない』
続いて、あの哄笑。
『先生まで、お前を背負いに来たか』
膝に掛けた布へ、指が食い込んだ。
シグランはヤザンを見る。
眠っているのか、眠ろうとしているのか分からない。
顔は青ざめ、胸には包帯が巻かれている。
それでも、ヤザンはあの戦いから、自分が持ち帰れなかった何かを持って帰ってきたように見えた。
弱者は立った。
自分は、倒れた。
シグランは自分の手を見る。
一瞬だけ、青が灯った手。
アズロンの指を喉から外すことさえできなかった手。
焚き火の炭が小さく動いた。
向かい側では、ラカンが細い枝を一本、火へ加えている。
シグランを直接見ることなく言った。
「今夜の出来事が、お前の価値を決めるわけじゃない」
シグランは動かなかった。
ラカンは続ける。
「あの男はお前より年上で、経験も遠く先にある。お前が戦いの意味を知る前から、長い道を歩いてきた」
シグランの指が布を強く掴む。
「今夜見た差は、名でも血でもない」
枝を炭の中へ押し込んだ。
「年月だ」
シグランの目が、わずかに揺れた。
それでも顔は上げない。
「お前はまだ、道の始まりにいる」
マヤは起きていた。
外套の下でその言葉を聞き、布の端を握りしめる。
まるで、言葉そのものへ掴まるように。
ヤザンも目を半分だけ開いた。
火へ届くかどうかの小さな声で呟く。
「僕たち……全員が、始まったばかりだ」
そのまま目を閉じた。
先ほどよりも少しだけ柔らかい沈黙が落ちる。
だが、シグランは答えなかった。
炎を見つめたまま、手を喉へ置いている。
そして一睡もしなかった。
◆
最初の朝日が差したころ、ラカンは決断を下した。
アルマザへは戻らない。
マヤは座ったまま、疲れの残る両手で髪を結ぶ。
「戻らないんですか?」
「今の状態で来た道を引き返すより、東槍駐屯地へ向かうほうが近い。医師も騎士もいる。軍の印があれば、俺たちが帰るより早く報告を届けられる」
ヤザンが尋ねる。
「手紙は?」
ラカンは、封書の入った鞄を見る。
「まだ重要だ」
それから道へ目を向けた。
「だが、俺たちに起きたことのほうが重要になった」
火の反対側で、シグランが立ち上がる。
遠くから届く命令へ従うような、遅い動きだった。
帯を締め直し、そのまま待つ。
尋ねない。
反対もしない。
誰の顔も見なかった。
「道に何かを証明するためじゃない。生きて辿り着くために進む」
ラカンは三人へ言った。
だが、その視線はシグランに少しだけ長く留まった。
返事はなかった。
一行は歩き始める。
前日と同じ隊列ではない。
ラカンはヤザンとマヤを中央に置き、シグランも自分の近くから離さなかった。
誰にも一人で先行させず、視界の外へ遅れることも許さない。
互いの間にある距離は、もう訓練のためのものではない。
恐怖に備えるための距離だった。
ラカンは開けた道を選んだ。
狭い窪地も、濃い影も避けて進む。
最短の道を探しているのではない。
死が届く前に、その姿を見る機会がある道を選んでいた。
ヤザンの歩みは遅い。
あるときはマヤが支え、あるときはラカンの傷のない肩へ腕を回した。
呼吸が戻るまで、何度も足を止める。
それでもヤザンが休ませてほしいと言うことは、一度もなかった。
道沿いの木々は、どれも昨日までとは違って見えた。
鳥が枝から飛び立つたびに、マヤは顔を上げる。
長い影を見つけるたび、ラカンは完全に通り過ぎるまで目を離さない。
シグランは近くを歩いていた。
何も言わない。
肩からは、道そのものへ挑むような雰囲気が消えていた。
誰にも見えない言葉を、背負って歩いている。
昼ごろ、ヤザンが地面から突き出た石につまずいた。
シグランの手が、反射的に伸びる。
腕へ届く直前で止まった。
ゆっくりと引き戻す。
ヤザンはその動きを見た。
シグランと目を合わせようとして言う。
「大丈夫だ」
シグランは見なかった。
返事もしない。
だが、そのあと歩調を落とし、ヤザンの横から離れなかった。
日が沈む少し前、東槍駐屯地の塔が見えた。
駐屯地は、隊商路を見下ろす低い丘の上に築かれていた。
石で補強された木造の壁は実用的で、頑丈だった。その上には見張り塔が立ち、アルマザの旗が風を受けている。
都の城壁ほど巨大ではない。
だが、その上にある目は眠っていなかった。
一行が道へ姿を現した瞬間、兵士たちが配置につく。
両手にケメンが集まり、外門の奥で内門が閉じられた。
一人が声を張る。
「身元を明かし、標石の前で止まれ!」
ラカンは門前に置かれた石の前で足を止め、任務印を掲げた。
「アルマザ第三班、指導官ラカン。ラシード・ガスカン隊長宛ての封書を預かっている。至急、医師を頼む」
兵士の目が、任務印から三人の生徒へ移る。
報告を聞かなくても分かった。
道で何かがあった。
合図が送られる。
外門が開き、一人ずつ通されたあと、再び背後で閉じた。
駐屯地の中は忙しく動いていた。
兵士が箱を運び、家畜が厩舎へ引かれ、南側の壁際では炊事の火が上がっている。
だが、一行が入った瞬間、ざわめきがわずかに弱まった。
本営の天幕から、一人の男が出てくる。
年齢は中年ほど。
肩幅が広く、鋭い顔立ちには冷酷さがない。
暗い目は、机よりも道をよく知っていた。
肩にはガスカンの紋章。
飾りとして付けているようには見えない。
その男の歴史の一部に見えた。
兵士が報告する。
「隊長、アルマザ第三班です」
男が近づく。
最初にラカンを見る。
次に封書。
そして三人の生徒へ視線を移した。
シグランの首に巻かれた包帯。
ヤザンの胸。
マヤの手首。
順に目が止まる。
「水と包帯を。東の治療天幕を空けろ。医師が診るまで、誰も事情を聞くな」
兵士たちは即座に動いた。
男がラカンへ手を差し出す。
「ラシード・ガスカンだ」
ラカンは傷のない腕で握り返した。
「ラカン」
封書を渡す。
ラシードは印を確認し、もう一度三人の顔を見た。
「どうやら、運んできた中で最も重かったのは、この手紙ではなさそうだ」
「違う」
ラカンは答えた。
「手紙ではなかった」
◆
駐屯地の医師たちは、すぐに治療を始めた。
ヤザンは木製の寝台へ座り、胸と背中を調べられる。
医師が傷へ触れるたびに顔が歪んだが、声は上げなかった。
「深い打撲だが、見たところ骨折はない。休養が必要だ。走るな。訓練もするな。痛みなく呼吸できるようになるまで、誰かを助けようともするな」
ヤザンは疲れた目を向ける。
「どうして、みんな同じことを言うんですか?」
「一度で聞く顔をしていないからだ」
隣の寝台では、マヤが女性の医師へ両手を差し出していた。
深い傷はない。
だが指先は冷え、ケメンの反応も普段より遅い。
「拘束は手首だけでなく、経路へ繋がっていたようね。元には戻るけれど、今日はケメンを使わないこと」
マヤは黙って頷いた。
天幕の反対側で、シグランは立ったままだった。
ラカンが名を呼ぶ。
「シグラン」
ゆっくりと振り返る。
ラカンが寝台を示すと、反論せずに座った。
医師は喉を調べ、指の跡で手を止める。
「お前を掴んだ者は、片手で殺せた」
返事はない。
医師がシグランからラカンへ目を向ける。
「続けてくれ」
ラカンが言った。
診察が再開される。
シグランは自分の手を見つめていた。
わずかに震えている。
ゆっくりと拳を閉じ、震えを中へ隠す。
少なくとも、見えなくはなった。
最後に、ラカンが別の医師の前へ座った。
仮の包帯が外され、スカイの黒い腕に裂かれた長い傷が露わになる。
医師は傷を洗い、閉じたあと、肩から胸へ新しい包帯を巻いた。
「この腕を使えば、また開くぞ」
「分かった」
医師はラカンの顔を見る。
「分かった顔には見えない」
「だが、分かった」
医師はため息をつき、包帯を結び終えた。
◆
本営の天幕で、ラシードは正式な封書を開いた。
中には隊商路の状況に関する報告、先日の試験で起きた混乱を受けた警戒強化の命令、そしてアルマザ東部で不審な動きがあれば報告するよう指示が記されていた。
素早く読み終え、任務の付属書へ移る。
そこには、班員の名が並んでいた。
一つの名の上で、指が止まる。
ヤザン・ファドゥース――ビスカラ。
ラシードが顔を上げた。
「ファドゥース?」
「そうだ」
「一族の名か?」
「ああ。ビスカラの一族だ」
ラシードは親指で紙の端をなぞった。
「古い名だ。近ごろは、ほとんど聞かない」
ラカンを見る。
「この少年は何者だ?」
「シャミル・ガスカン殿と縁のある少年だ。シャミル殿がアルマザへ連れてきて、訓練を受けさせるよう勧めた」
ラシードは顎へ手を当てた。
しばらく黙り、やがて呟く。
「シャミル様か……」
目の奥で、何かの記憶が動いた。
だが、それを口にはしない。
「あの方は昔から謎が多かった。答えを返したあとでさえ、その場に問いだけを残していく」
「ファドゥースについて何か知っているのか?」
ラシードは付属書へ視線を戻す。
「知っていると呼べるほどのものはない」
その言い方が、ラカンには引っかかった。
だが、追及はしない。
ラシードは正式な封書を脇へ置いた。
「では、今度はお前たちが自分の足で運んできた手紙を聞こう」
ラカンは正面へ座る。
駐屯地へ着いてから初めて、疲労が表情に浮かんだ。
それでも、声には滲ませない。
「〈黒の帳〉の襲撃を受けた」
ラシードの身体は動かなかった。
だが、目が変わる。
「確かなのか?」
「ああ」
ラシードは入口の兵士へ合図した。
「呼ぶまで、誰も入れるな」
天幕の入口が閉じられる。
「続けろ」
「殺すことだけが目的の襲撃ではなかった。班を分断するために作られた罠だ。一人は距離を折り畳み、道から切り離された空間を作る。マヤを連れ去り、周囲の空間と結びつけて、俺が攻撃できないようにした」
「彼女を使い、残る二人からお前を引き離したのか」
「そうだ」
「二人の前にいたのは?」
ラカンは一瞬、言葉を止めた。
男の足元で、砂埃さえ地面へ落ちることを拒んでいた。
あの威圧が蘇る。
「〈黒の帳〉の首領本人だ」
ラシードの姿勢がわずかに正された。
「名は?」
「名乗らなかった。だが、もう一人が首領と呼んだ」
「目的は何だった?」
「シグランだ」
ラシードの目が細くなる。
「あの生徒を?」
「最後には、生きたまま連れ去ろうとした。倒すために戦っていたんじゃない。力を測り、反応を引き出そうとしていた」
「なぜシグランを?」
ラカンはすぐには答えなかった。
男の声が戻ってくる。
真なるケメンの一族。
そして――
ザランの名が、お前を背負っている。
「シグランの前で、ザランの名を口にした」
ラシードは動かなかった。
だが、天幕の中の沈黙が重くなる。
「ザラン?」
「ああ。真なるケメンの一族と呼び、シグランを探していた後継者だと考えているようだった」
ラシードの手が、任務の付属書を握る。
「シグランは何かを見せたのか?」
「一瞬だけ炎が変わった。不安定な青が混じり、すぐに消えた」
ラシードは黙った。
ラカンが言う。
「この報告は、俺たちの帰還を待たせられない」
「待たせない」
ラシードは新しい紙を引き寄せ、筆を手に取った。
「ダリウスへ直接送ってくれ。上層部へも暗号で記した写しを。距離を折り畳む能力、人質を折り畳まれた空間へ繋いだこと、そして首領本人がいたことを記してほしい」
ラシードの筆が止まる。
「ほかに何か言ったか?」
ラカンの目が細くなった。
「アルマザへ伝えろと言われた」
一拍置く。
「門を開ける手が、いつも外にあるとは限らない、と」
筆先が紙の上で止まった。
二人の視線が交わる。
ラシードが言う。
「内側に手があるという脅しか」
「あるいは、我々の道を知りすぎているという宣言だ」
ラシードは、言葉どおりに記録した。
「生徒たちは?」
「生きている」
ラカンは少し黙った。
「だが、無事ではない」
「こんな罠から無事に出られる者はいない」
ラシードは報告書を書き進める。
「暗号文にしたあと、軍用伝書鳥で送る。受領の確認が届かなければ、夜明けに騎士へ二通目を持たせる」
ラカンが立ち上がる。
「頼む」
出ていく前に、ラシードはもう一度名簿へ目を落とした。
視線が再び止まる。
ヤザン・ファドゥース――ビスカラ。
「出発する前に、あの少年を自分の目で見ておきたい」
「なぜだ?」
ラシードは付属書を閉じた。
「シャミル様が、理由もなく誰かをアルマザへ連れてくるとは思えない」
ラカンは天幕を出た。
だが、その問いまで置いていくことはできなかった。
◆
その夜、東槍駐屯地の灯りは遅くまで消えなかった。
真夜中を過ぎたころ、黒い翼を持つ軍用伝書鳥が東の塔から飛び立つ。
脚には、駐屯地の印で封じられた筒。
その中には、アルマザへ向かう暗号で記された報告書が収められていた。
ラシードは鳥が闇へ消えるまで見送った。
それから治療天幕へ向かう。
入口には、負傷した腕を身体の脇へ固定したラカンが立っていた。
「報告は出した」
「感謝する」
「当然の仕事に礼はいらない」
ラシードは中へ入った。
マヤはようやく眠っていた。
あるいは、眠りへ落ちる寸前だった。
片手を胸元へ置き、両手首には薄い包帯が巻かれている。
シグランは寝台へ横になっていた。
目は開いている。
ラシードが入っても見なかった。
壁だけを見つめ、眠っているよりも重い沈黙をまとっている。
ヤザンは簡素な寝台へ横たわっていた。
胸には包帯。
灯りの下で、顔は青白い。
完全には眠っていない。
半分だけ開いた目で天幕の天井を見つめていた。
身体だけが帰り、何かを道へ置いてきた者のようだった。
ラシードは寝台のそばで足を止める。
ファドゥース。
そして、シャミル様と縁のある少年。
ヤザンの目には、ケメンがない。
気配もない。
軍の報告書へ記せるものは、何一つなかった。
それでも、ラシードの視線はその目へ、必要以上に長く留まった。
わずかに目が細くなる。
名を与えられないほど古い何かを、そこに見たように。
一つの考えが胸をよぎった。
この眼差しは……。
最後まで形になる前に、途切れた。
入口からラカンが尋ねる。
「何かあるのか?」
ラシードはすぐに平静へ戻った。
「いや」
だが、答えは半拍遅れた。
ラカンは彼を見る。
追及はしなかった。
今はまだ。
ラシードは天幕を出て、松明の光の下へ立った。
軍用伝書鳥はすでに夜を切り裂き、アルマザへ向かっている。
一行が都を出たときには、存在すらしていなかった報告を携えて。
一通目の書簡は、東槍駐屯地へ届いた。
だが二通目の書簡には、夜をさらに重くする名が一つ記されていた。
ザラン。




