伊代ならいいよ 6
〇 〇 〇 〇 (後)
「うちも、テスト終わったよ、一生分」
伊代はそう言うと、クレオパトラみたいな黒髪の、毛先を、指ではらった。
「私も…、伊代…、私はねなんていうかさ」
私はあくまでも、『私も』、という部分の語調を、つよめた。
「あっという間だったね」
「そうかな、長かったでしょ」
「そうそう…。…もう終わるからね、いいんだけど、中学のとき、うちと、同居したいって書いたって、ほんと?」
「ああ、誰かに見られて、広まっちゃったやつ。…あれね。ごめんね…」
「あ、いや、それが本心なら、今ならできるよね、って話」
「うんうん」、と、私の声が、わかりやすくはずむ。
腕がすばやく、自然とバッグの中に伸びた。
中をさぐりながら、あれを見せなければと思った。そういえば、お兄さんがいたんだね、あの日、家にあがった時、写真はあったけど…もしいたんだったら、私じゃなくても、えっと、私はバッグの底に敷かれていた、”それ”を、掴みながら、「あの日、ネコが死んでしまって、もう味方がいない、みたいなこと言ってた。…伊代、お兄さんがいたんじゃん」、と、早口で言って、私は、”教科書”を引っぱりだした。
「それよりさ」
「うん?」
「また会うときもこういう、建物の裏にしようね」
そう、伊代が言うと、その肩に、しろい蝶がとまった。
「いいね」、私はどうしようもなく涙がでそうになった。
目の前がうるんで、セカイが…こんなどうしようもない世界が、いっそうゆがんでみえた。
「そういえば…今日はさ、…さいごの授業でさ、担任が泣いててさ」
「奈央?」
「私い、学校なんかあ、全員消えればいいって思ってたのに、そのときだけみんなが羨ましくて…」
「………………………………………」
伊代がだまって、その細いゆびで、私の涙にさわった。
それは…、小鳥の頭をひねった、あの冷たいゆびだった。
私はそれが怖かった。
ずっと一緒にいたいのに私がいたら彼女は一人になるしそれが「正しい」のに怖かっ、た……。
ずっとそれだけだった。
ふうっ。と、人の吐息のような、そよ風が吹いた。
ぐるぐると、あぶらの甘い臭いに、コーヒーの匂いが、交ざった。
「でもうちの兄も、あの頃は自殺自殺って、うるさかった」
「うん」
「やっぱり、そういう生き物だよ、自分が、生きるためじゃなくても、怒ったりいなくなったりする」
「うん」
『うん』、と、頷いてなお、私は、本当はきっとなにも理解できていないのだと思う。
ただ彼女を、安心させたくて、自分が、安心したくて……
でも…、それじゃあ……。
いったい、私はこれまで、いったい、伊代との間に、なにを築いてきたというのだろうか。
…私は思わず教科書をにぎりしめてしまう。
「だからさ奈央」、
と、伊代が、私の手元をゆびさして、ぐっと距離をつめてくる。
伊代の香りがする。鼻がつんとして、
「伊代はあ、いなくならないよね、」
私は、にぎっていた教科書を、なにかを崩していくみたいに……ぱらぱらと開いた。
「いなくならないよね、」
私は、それを誰も答えられないと知っていて、いいや、知っているから、不思議なことだけど、
「いなくならないよね、」
…と、それをなんども、伊代に聞くことができるのだ。
「あっ…! またこれ」
伊代が私の! 教科書の落書きに、右目をうごかす。
そして、左目を、きゅっとほそめた。
教科書のイラストの、人間の目や、鼻から、赤いインクが流れている。
それが、もう、何度目でも、何回みても、自分でも、意味不明で。…
「奈央はどれだけ、人間を憎んでいるの」
と、伊代が…目もとに皺ができるほど、なにかを耐える。
「それは!……全員死んでほしいくらいだよ! 伊代以外!」
自分でも驚くほどに、私は、大声をだしてしまう。
「じゃあうちが…うちが奈央のことをね、ころす、と言ったら?」
華奢な肩が、私の肩にふれる。
その瞬間、私の頭の中で、何かが光った。
まるでこの時を待っていたとでも、言うように、私の唇は、その言葉を、その音を、なぞった。
「伊代ならいいよ」
と。…
「いいよ」
と、自分の口からでた、『いいよ』、が…、
どうして……
それが、否定の感じに、聞こえてしまって。…
「いいよ」
と、…でも、私なんかが、言い直してみても。
「いいよ」、と、なかなか彼女を受け入れるような、温かい言葉には、何度やっても変わらなかった。
「これからどうしよっか」
マニキュアでぴっと光る、伊代のゆびさきが、私の手をにぎった。
「まずは……、高校は、卒業だから」
私は反射で、その手をにぎりかえした。
そのとき教科書が、落ちた。
私は伊代に見せつけるように、それを拾うどころか、踏みつけて…、暗い裏通りへと、ひきかえす。
「私は、大学に行く」
私は、伊代の手をつよめに握って、その温かさをたしかめて、「好き」と、こころで伝える。
「うちは就職するよ」
このとき。
握り返してくるその手には、ぎゅ。ぎゅ。ぎゅ。ぎゅ。と、四回、何かの信号のような力が、こもった。
なに。
今の。
ぱっと、私は光の速さで伊代の表情にふり向いた。
「大人になっても」「大人になっても」、
と、偶然、私達の言葉が、重なったのに。
それなのに。…
すたた。すたた。すたた。と、二人の足音はやはり、また。思い。だすね。と、すたた。すたた。すたた。と、表通りにでる、眩しいところで、すたた。すたた。すたた。と、ほんのすこし、ずれて鳴る。
また。ここで。会おうね。と、二人の歪んでいた顔が、今では、笑って思い出されるたびに。
そこは伊代と出会えた、体育館裏になり。
そこは、綺麗なゲームセンターの裏側になり。
コーヒーが香る喫茶店裏の明るみになる。
悔しいけれど、それが猫でも、鳥でもない、人間という生き物なのだと。
私はなんどもなんども考えてしまう。
あのとき四回、何かの信号のように、彼女の手が握り返してきた、
ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。 ぎゅ。
という、リズムを。
「言葉」にしようとする。
なんで。…
私は。
けして、「さ。 よ。 な。 ら。」…ではないと、信じようとする。
伊代はまだ、となりで手をつないでくれている。
私はその……。
黒いもやもやを、美化しようとする。
だって。
そうすれば、どこへでも行ける気がする。
だって、そこに「答え」がある気がする。
君がいるから。
君はいつも、黒いどろどろの中にいるから。…
私はずっと。
あの場所で動けずに、
びいいいいいいいいいいいいいいい――
…とさけんだ、あの小鳥は、
「ここにいさせて! 」
と、言っていたように、思うのだ。
でも、それも、違う。
あの日の小鳥に許されたいという、甘えのようなものでは、いけない。
そういう風に、相手の記憶にのこりたいという、願いでも、いけない。
私はただ、さいごまで、伊代の手を放そうとしなかった。
どこにも行けない。
…私は。あたまを。
はげしくふった。
私のなかで火花のような光が、はげしく散った。
願った。いつも君がいるということが、なぜか。
いつか終わることを、「私」に、予感させてくる。
違うことがなぜか違うと分かる。
君を特別だと、私だけが分かる。
そういうものだけが、私に、
「言葉」、とか、「人間」、だとかを、憎ませる。
それでは。
いけない。
許して。伊代の手から、力が抜けるのを、感じた。
路地裏からぬけだした、ゲンジツの景色は、たしかに……シロクロにみえた。
私はぼうっと、あの…ちょんと小鳥をくわえた黒猫を、観ていた。
どこにも行けないのに……。
違った。「私たち」、というコトバが、黒く染まった気がした。
なんというか…それは…逆光をうけたみたいだった。
それなら、”光”、は、なんとなく「思い出」な気がした。
そういう、どろどろとした接着剤が、私たちをくっつけていた。
私だけが。ずっとあの場所で。
動けなかった。小鳥は叫んでいた。
「ここにいさせて! 」と…私の! 手は、まだ何かを握っているそれが。……
熱に溶けていくのを感じた。このときの私は奥歯をふるえるほど噛みしめながらなにかを耐えた。
伊代は私を見ているし、見ていなかったよね。半分半分で。
どうして私が”あの落書き”を見せようと思ったのか…自分でもわからない。
”教科書の人間たち”が、血を流すように、いつか彼女が泣いたことがある。
そんな彼女を幻のように思う。会いたいと思うほどに、理由がなくなる。
講義中 私はあんまり 居眠りをしなくなった
それでも頭のなかで 「いよ」 『いよ』 となんども
それを 誰にもこたえられないと知っているから
私はなんども それを彼女に聞くことができるのだ
『いいよ』 「いいよ」 と なんども練習する
それなのに それはなんど出会っても変わらない
どうしても こころで否定のような感じに響いてしまう
そういう風に このせかいがつくられているだけだ
手をにぎる彼女が 「あ。 り。 が。 と。」 と言う そうきこえた
だからそこは 彼女との出会いが約束された体育館裏になる
だからそこは 彼女の美しさに魅せられたゲーセン裏になった
あまい匂いがずっと続いていく喫茶店裏の明るみになっていく
私は私で。…
私はまわりを見回す。……
大学生の昼休みを、私はまだ、ながいと感じる。
”まだ”、というからには、私はいつか、この時間を、短いと感じるようになるのだろうか。
あ…、いや、どうでもいいかそんなこと。
そういえば。…
高校と違って、大学の講師の一言一言からは、どこか「重み」ようなものが、感じられる。
それがなんというか…私たちが、もう、
「”大人の扱い”をされている」、ように、
私には感じられて、なんか良いな、とか思いながら、私はもぐもぐと、口を動かしていた。
ただし”そういう事”を想うと、私はきまって、”あの落書き”のことを思いだしてしまうから。……
なんというか、不思議だった。
あの…”自分がみても幼稚だとおもう落書き”…を、
見て、…彼女が笑ってくれたことが、今でも忘れられない。
ほとんど高校のときと変わらない中身の、弁当を、私が、食べ終えようとしていたところだった。
ふと左側から、
「となりいい?」
という声が、きこえた。
私が、ふり向くと、女の人がいた。誰? と思ったし、そろそろ昼休みは終わりそうだったし、それに空いている席ならいくらでもあるのに、わざわざ私の隣に座ろうとする理由が見あたらなかった。
それでも、
「いいよ」、
と、私がうなづく事ができたのは……
彼女のかけている眼鏡が、赤かったから――
ただ、それだけだった。
私は私で。…
私でよかったのだろうかと、もうすぐ来そうな、その予感に、はっきりと思いをはせる。
「楽しかった――」、と、私が空になった弁当箱をみつめていると、隣の女学生が声をだした。
「あ、あの、絶対、ちがうんですけど、すごく似ていたんです。違うんですけど、あの、高校生の時に、同じクラスだった、鳥居さんって人に、似てたんです、その人すごく優しいひとで、それでね…」
だいぶ早口でしゃべるなあ、と思った。(寝ているところを肩を思いきり揺さぶられたように感じた)
「じゃあ、今日の講義がおわったら、カフェでも行きます?」
そう、急に、自分で言っておいて、じゃあ、の意味がわからなかった。
だけど、「行こう、行きましょう、どこで待ち合わせます」
と、赤い眼鏡の彼女は、かなり乗り気で、なんというか…。本当に、なんとなく、だったけど。
悪くない……なんて思えた。弁当箱を、鞄にしまいながら、はやくこの人の名前をききたいと思った。
この辺で待ち合わせる場所といえば…そういえば、中庭のような、芝生のところがあると思った。
「じゃあ待ち合わせは、あの芝生の…”校舎裏”の……」、と言いかけたところで、私は、はっとなった。
「どうしました?」
赤い眼鏡のむこうで、見ひらかれた、彼女の、うごく左目が印象的だった。
「いや」、やっぱり……「それより今日は五限でおわりですか? 一年生?」
「うん、うちは五限でおわりの、一年生」、と、彼女が、ふっと目をほそめた。
「それじゃあ、二階の、ラウンジで待ち合わせで」、と、私は次の講義室に行くからと立ち上がった。
私はなんだか、自分がとても「罪」なことを…している気がする。
けれどそれが、どう、悪い事なのかと、問われると……。
今となっては。…
もう、わからないというか、……なんというか。
「い…じゃない、あの…その、鳥居さんの、どういうところが優しいと、思ったの」
急に変なこと聞くけど、と、私はさりげなく…けれど噛んでいた人参の、欠片を、ぐっと飲みこんだ。
「い…いじめられても、先生に、『誰も悪くない』って言ってたところとか、かな――」
その、彼女の言葉を聞いて、私は、突然、今自分がいる”ここ”が、どこだかわからなくなった。
自分はいま、白を基調とした、「大講義室104」と名付けられた、色のない、ひろい空間にいる。
それを意識した。私は、ノイズが続くスピーカーから、聴こえそうな、罵声を、想像しながら。…
「ぜんぶぜんぶごめんね…」
などと、言っている。
罪の意識で、自分からでてくる、言葉が、そんなことを言う、…私自身が。…
ひどく、憐れで、仕方がなかった。
私はいったい、”誰に”、”どこに”、”どの時間に”、向けて、そんなことを言ったのだろう。
けれど。…
そんな私に、何を感じたというのか。…
彼女は、
「私のほうこそ、ごめんなさい、なにもしてあげられなくて――」
…と、言った。
彼女はなぜか、泣くのを堪えているように、見えた。
彼女には、いったい、誰が、何が、見えているのだろうと思った。
だけど、私の中で、そのとき何かが、つながった気がしたのだ。
そうして、さっき彼女が、言ってくれた、
『いじめられても、”誰も悪くない”って言ってた――』
という、言葉が、音が、熱が、いつまでも、いつまでも、私のあたまをかけめぐった。
「なんで泣いているんですか」
と、彼女が言う。
私なんか、私なんか、と思う。
ありえない、ありえない、とも思う。
それでも、どうしても、何が何でも……
ただ、それだけで、
私には、…
自分でも変だと、わかるのに、”そこ”に陽がさすはずもないのに。…
このとき、校舎裏の…その…まわりが壁にさえぎられている空間に、陽だまりが、観えてしまって、
私には、…
そういう、はっきりと目に映る、芝生のところで――
きみどり色のなか、伊代がまちあわせの相手をみつけて走っていくそんな光景すら、観えた……。
”だから”私も! 行かなきゃ、と焦る。
その後姿を、まだ、追いかけようとする。
「いや泣いてないよ。それより、つぎの授業、はやくしないと遅れちゃう!」
私は彼女の手をとった。
そのときだった。開いていた大きな窓から、何かが入ってきた。風にのって、私たちの目の前に、すべりこんできたのは、小鳥だった。「おお」と彼女が、言った。白い、長机のうえに、乗って、ぴょんぴょんはねて、そのずんぐりした小鳥は、一瞬で、窓の外に、飛び去っていったけれど、そのとき、小鳥が、くちばしに、虫のようなものを、くわえているのが、私には、みえた。私はいきなりのことで、頭が……
…まっ白になって何かまかれてはいけないネジのようなものがぎゃりぎゃりとまかれていく感触がした。
「大丈夫、まだ間に合うよ」
彼女が、そう言って、私の手を握り返してくる。
彼女にそう言われると……。
「私」なんかでも、本当に、まだなにも、遅くはない…気がした。…
私はその場に立ち尽くした。
私から遠のいていく何かが、とうとう自分でも、わからなくなった。
それは「いよ」、と呼んでいた、女性だった。でも私はそれよりも、もっとちがう次元の、何かを知っていた。「うちは、百日紅里っていいます。あなたは?」、と、隣にいる紅里が、微笑んだ。「私は」、と言いながら、私は、だんだんと色が戻っていく景色に、違和感をおぼえていた。いやなにそれ、と思った。隣にいる彼女の笑顔を前に、唾がでる。私の心臓が、恐ろしくはねる。
もう一度だけ。
振り返ってみても、窓の外は、あたりまえに、よく晴れている。
飛んでいった小鳥は点になっていてそれがもう近づいているのか遠のいているのかさえもわからない。
読んでいただけて、とても嬉しかったです。
(もし感想を頂けましたら、小躍りします!)




