第73話 船旅
門沙から帝都へ向かうにはどうしても大河を横断しないといけない。
横断というよりはむしろ下るといったほうが適切かもしれない。ここから二日の船旅となり、あとは馬車で半日ほどで帝都に到着する。
船で二日間も移動すると考えるだけで蓮音は気が重かった。どうせだったら、酔っぱらって所在不明なまま船に乗せてもらいたいぐらいであった。
「もう一度酔っぱらうからわたしを縛り付けて船に乗せて!」
「そんなことできるわけありませんわ! いろいろな意味で……」
「だよねぇ……」
明鈴たちにお願いしてみたけれども案の定断られる。
「帝都に行く他の道はないのですか……?」
遠慮しながらもさりげなく尋ねてみるが、「ない」と昇昊にぴしゃりとはねつけられてしまう。
「まさか、そなた、船が怖いのか? ほお、天下無双の鬼姫にも苦手なものがあるとはな。実に愉快だ」
嫌みのようなことまで言われる。
「大きな船なのでそんなに揺れたりしませんから」
昇雲が慰めてくれるが、船酔いが怖いのではない。そもそも水が怖いのだ。だけど、そんなこと口がさけてもこいつらには言いたくない。
蓮音は意を決して、だけど、両脇を香隠と万梅に支えられながら桟橋を歩いた。
桟橋は決して狭くはなかったが、近くに水があると思うだけで恐ろしい。蓮音はほとんど目を開けていなかった。
渡し板はそれ以上の試練だった。揺れるし、狭いし、見ているだけで恐ろしい。まるで水の中に深く沈んでしまっているようで、息もできないような状態だった。
「姫姉様、どうぞわたしの背に乗ってください」
まともに立てそうにもない蓮音の様子をみた香隠がおぶることでようやく船に乗り込むことができた。
船室に入り、一度長椅子に掛けたらそこからもう動けなくなった。両脇を香隠たちに固めてもらっていたが、蓮音自身は蒼い顔をして、完全に固まっていた。
昇雲が「ご気分がすぐれませぬか? 昨夜の酒がまだ残っているのでしょうか……?」と心配してくれたが、それに返事をする余裕もない。ただ、うつろな目をして震えていることしかできなかった。
「はははっ、口の減らない鬼姫を黙らせたければ船に乗せればいいのか。これはなかなかに面白い発見だ」
「ですねー、鬼姫ともあろうお人が、よもや船が怖いなどと!」
今までのやり返しというわけではないのだろうが、そんな蓮音を見て、ひげのおじさんの昇昊とまぬけづら認定された昇霧が続けざまに嫌味を言ってくる。
「兄上、昇霧。さすがに状況をお考え下さい」
この中では蓮音と最も親しい、圧倒的まとも枠の昇雲が二人をたしなめてくれた。
そのうちに体がガタガタ震えだし、血の気が引き、唇まで真っ青になった。さすがに今まで嫌味を言っていた昇昊も心配になってくる。
「これは、どういうことだ? 酷い船酔いでもしているのか?」
「姫様は船が苦手でございます。お察しくだされば幸いです」
詳しい事情は話したくないので、そうとしか言いようがない。
昇昊は面白くなかった。
蓮音と言い合いになるのも愉快なわけではないのだが、こう張り合いがないのもつまらない。宿敵が勝手に自滅してしまったような虚しささえ感じる。
食事の時間になってもお茶の時間になっても蓮音は何も口にしなかった。
少しぐらい食べなくても死にはしないが、あまりにも顔色が悪いのを見ると倒れたりしないだろうかと心配になる。
このようなところで体を壊して病気にでもなったら子作りに差し障るから心配なのか、それとも蓮音自身のことが気になっているのか。
彼女を心配する気持ちは愛なのだろうか、そう考えだすと余計に腹立たしかった。
「せめて夜ぐらいは陸に上がって姫様を休ませてもらえないでしょうか」
ついに明鈴が懇願してくる。しかし、船はどこにでも停泊して上陸できるわけではない。
「不可能だ。ほかに何か手はないのか?」
そう聞いてしまったのが間違いだった。
「あの男がいれば姫姉様も……」
と、香隠があのいけすかない色男の力を使うことをまたしても提案してくる。
「兄上、今は緊急時です。このまま姫の体調が悪化して、取り返しがつかないことになっても大変かと……」
昇昊はほぼ根負けするような形で剣護を連れてくるように命じてしまった。
剣護は部屋に来るなり、青い顔をして震えている蓮音を抱き上げると自分の膝の上に座らせた。
昇昊は「おい」と言うが、剣護を制する前に蓮音が剣護にぎゅっと抱き着いたのでこれ以上何も言えなくなる。
剣護は蓮音の髪を撫でながら優しい口調で、「娘々、あなたは今どこにいる?」と聞いてきた。蓮音は抱き着いたまま口を開いた。
「……水の上」
何時間ぶりに彼女は声を出しただろうか。いつもとは異なる、張りのない震えたか細い声ではあったが。
「うーん、ここは本当に水の上だろうか?」
「……船の上」
「本当にそう?」
「……?」
「僕は、あなたは僕の膝の上にいると思ってるんだけど」
そう言われて蓮音はぎゅっと抱き着いていた腕を離してはっとしたような顔で剣護を見つめた。
「僕の膝の上は怖い?」
「……怖くない。安心、する」
「本当にそれだけ?」
「?」
「娘々、僕は愛しいあなたがこんな近くにいるから、胸が高鳴って仕方がないよ。あなたはどう?」
剣護に見つめられてそんなことを言われて、体が熱くならないわけがない。血の気がなかった蓮音の顔色は一気に色づく。
「わたしも、わたしもドキドキしてる」
剣護は血の気が戻った蓮音の頬を撫で、唇に触れる。
「口づけしてもいい?」
「いいわけないだろ!」
蓮音よりも先に、昇昊が答える。
その声で少し我に返った蓮音は幸せそうな顔で剣護にもう一度抱き着く。
「今はだめ。みんないるから」
「じゃあ、あとで」
そう剣護にささやかれて蓮音の体はますます熱くなった。
彼が「あとで」と言うからには、本当にあとで口づけをするつもりだ。
最初のように優しい口づけだろうか、それとも情熱的な口づけだろうか。するのは口づけだけ……?
あとでっていつだろう? 早くあとでになってほしい……。
そんなことを考えていたら、蓮音は自分が船に乗っていることをすっかり忘れていた。
愛する人の胸に寄り添って緊張がほぐれたからか、剣護が優しく髪や背中を撫でてくれているからか、気が付いたら蓮音は目をつぶって寝息を立てていた。
「お見事……」
蓮音が緊張から解放されて眠ってくれたことにほっとした香隠が胸を撫でおろす。
「愛の力ですわね」
明鈴が感動したように表情を緩ませた。
昇昊は実に面白くなかった。
(なにが愛だ。そのような曖昧な概念でこの世の中が抱えている問題が片付くわけがないだろう。大帝国の皇帝である俺には国家の安寧という崇高な使命があるのだ。それなのになんだ、こいつらは。力ある者の使命にも気が付かず、ただ個人の欲を美化しているだけではないか)
「何が愛だ……」
昇昊は無意識のうちに最後の一言を声に出していた。
「愛はこの世の理のすべてだ」
剣護は昇昊の独り言に答えるように話し出す。
「この国の民は不幸だな。為政者が愛が何かも知らないとは。ますますお前のような男に、慈しみ深いこの方は渡せない」
蓮音は決して聖女ではない。右頬を殴ってきた相手に左頬を差し出すどころか、蹴りもおまけにつけて返すような姫だ。
悪因悪果、善因善果、一方的に施すだけが愛ではないという彼女なりの哲学、信念あってのことだ。
それは国という視点で見ても同じだ。
国民の能力を過小評価し、最低限度の生活の保障を与え施す代わりに絶対的な忠誠を要求するのが帝国のやり方ならば、教育によって人を育てれば誰しもが持てる能力を生かし、その人個人もひいては国そのものも豊かになると考えているのが彩華国であり、蓮音だ。
自分もここにいる彼女の侍女たちも、彼女の愛によって救われ、育てられた。そして彼女自身も誰かの愛によって育てられてきたのだ。
人間がもつ愛情の連環が、彼女の愛する国を、国民を育てたのだ。
「貴様ッ! 死にたいようだな。俺がお前を殺せないと本気で思っているわけではあるまいな!」
「静かにしろよ。そこまで望むなら、お前の相手をしてやってもいいさ。ただ、それは今じゃない」
今は腕の中で眠る蓮音をゆっくり休ませてあげたい。剣護は蓮音を抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込めた。




