第6話 花を愛でる貴公子
一同は、まずは神雲国の国境を目指して北上した。街道沿いには涼しげな桔梗の花が揺れていて、差し込むような夏の日差しを幾分か和らげてくれているようであった。
時折すれ違う旅の商人や修行者たちと気さくに挨拶を交わしあう。皆が身軽な私服姿ということもあって、旅人たちはこの一行がかの有名な鬼姫の花嫁道中だとは全く気が付いていなかった。
本日の目的地は、彩華国でも屈指の武術修練所のある牙城山だ。特に、蒼迅万梅、ガクはここで修行していたことがあるため、思い入れのある場所でもあった。
一方、ずっと追い求めていた愛しい人をようやく見つけることができた魔王・黒 煙虎こと剣護も蓮音たちの後を追った。
あの頃と変わっていない、慈愛に満ちた、気高いお姿のままだ。姫は、昇昊との結婚を望んでいるのだろうか。俺のことは覚えているだろうか。そもそも、覚えていたとして俺は魔王だ。こんな俺があの人の近くにいていいのだろうか。どうすれば彼女から受けた恩に報いることができるのだろうか。
頭の中では、興奮と不安が渦巻いていた。とにかくあの方に会いたい。会って、側近くでお仕えしたい。それが敵わないのであれば遠くからでも構わない、お力になりたい。そのためだけに今自分は生きているのだから。
牙城山が武術修練場となっているのにはいろいろ理由があった。
切り立った山々が連なる地形の牙城山は瘴気がたまりやすく、彩華国の中では魔物の発生率が高かった。裾野付近には低級の魔物が多くいて訓練用に適していたし、奥地には等級の高い魔物も生息していたため修練場の師匠たちにとっても、腕試しをしたい冒険者たちにとっても実力を磨けるいい狩場だった。
さらに、山には強力な結界が張られていて、周辺の安全は確保されていたため、麓には宿や飲食店、市場が武術修練場を中心とした門前町のように形成されていて、それなりに賑わいをみせていた。
牙城山に到着した蒼迅たちは、さっそく修練場を訪れ、弟子たちに軽く指導をしたり演武を見せたりした。彩華国の英雄である炎刃隊による直接の指導とあって、弟子たちは大興奮だった。
一方、蓮音は部屋で時折牙城山から聞こえてくる魔物の遠吠えに耳を傾けていた。すると、「失礼いたします」と明鈴がお茶を持って入ってくる。
「姫様、夕餉まで時間がありますので、少しお休みください。わたくし、隣の部屋におりますので、何かございましたらお声かけくださいませ」
そう告げて明鈴は部屋を後にした。
夕食まではまだ一刻(2時間)近くある。獲物はそう遠くないところにいる。山の中を走り回り、ひと暴れして戻ってくる時間は十分あるのではないか。そう思ったら、蓮音は思いっきり刀を振り回したい衝動をどうすることもできなくなった。
念のため「少し散歩に出ます。夕餉の時間までには戻りますので心配しないように」と書置きを残し、愛刀である太刀の朱炎と脇差の翠嵐を手にして窓から飛び降りると山道へ向かって一目散に駆けだした。
一方、剣護は旅の商人に扮して蓮音たちが修練場に入っていく様を宿の二階から眺めていた。後をつけていくと彼女が窓から飛び降りて山へ走っていくのも目撃してしまった。彼もまた、追随するように山へ入っていった。
最初に遭遇した魔物は、まるで相手にはならなかった。が、鬱蒼とした森の中で一人刀を振り回しているだけで幸福を感じることはできた。
蓮音は時間を忘れて森の中を走った。すると、少し離れた場所からそのあたりには生息しているはずのない大型魔獣の雄叫びが響く。蓮音は咆哮のするほうへ急いだ。見ると、大牙熊に追いかけられている男がいるではないか。
「左に跳んで!」
蓮音は叫んだ。それを聞いて男は言葉の通り左に避けると、蓮音が繰り出した太刀・朱炎が大牙熊の首を一気に切り裂いた。魔獣は瞬時に絶命した。
一瞬のことだったが、受け身を取って振り返った男はその様を惚れ惚れする目で眺めていた。
「よかったぁ。間に合ったっ。大丈夫? ケガしてない? もし、ケガして動けないなら、仲間を呼んで治療をするから」
振り返った蓮音はあの時と同じように息つく暇もない勢いで話しかけてきた。剣護はその様子があまりにも感慨深すぎてすぐに声を出すことも動くこともできずにいた。
「にしても、本当に危なかったんだからね。武器も持たずに一人で山奥に入っちゃダメでしょ!」
「……うん。ごめん」
剣護は瞳を潤ませ笑顔を作ると、柔らかな口調と声音でようやく最初の言葉を口にした。
「で、ケガはしていない? 大丈夫?」
「……うん、大丈夫。あなたが助けてくれたから。心から感謝するよ」
「そう、それはよかった! 立てる?」
そういって蓮音は手を差し出した。差し出された白くて小さな手を数秒間じっと見つめた後、剣護は繊細な花弁に触れるように自分の手を伸ばして蓮音の手に重ねた。蓮音は重ねられた手を握り、剣護を立ち上がらせるように手を引きあげ、にっこりと笑った。
「怖かったでしょ? もう、一人で山に入っちゃダメだからね」
「うん、ごめん。わかったよ」
命の危機にさらされて先ほどまで声を失い、動けずにいたというのに、「ごめん」と繰り返す彼の声は穏やかで幸福感に満ちたものだった。
「しょうがないなあ。わたしが町まで連れて行ってあげるよ。また何がでてくるかわからないしね」
「うん、ありがとう」
「それにしても、どうして一人で山に入ったの? 魔石目当てだったら、町でその手の人を雇った方がいいよ。まぁ、とりあえずこれはあなたにあげるね」
魔石は魔力の濃い鉱山や洞窟で採掘できるほか、魔獣の心臓から採ることができる。その魔石の持ち主の力が強ければ強いほど大量の魔力が込められている。魔石は魔道具の製作や使用には必需品であるため高値で取引されるのだ。蓮音は大牙熊を手際よく解体すると出てきた魔石を剣護に手渡そうとした。
「あっ、実はそういうわけじゃないんだ。その……このあたりに咲いている花が美しいと思って、見とれていたら道に迷ってしまったんだ」
確かに、山の中には梔子の花が咲いていてそこかしこに甘い香りを漂わせていた。梔子の花言葉は、「私は幸せ者です」で、男性が女性を宴の席に誘う際に贈る花でもある。
彼にとって蓮音は美しい花そのものだったので、その台詞はあながち嘘ではない。もっとも迷ったのは”道”ではなく、恋の迷路になのだが。
剣護はあたりに咲いていた白い梔子の花に手を伸ばし手折ると蓮音の耳元に挿した。
「ね、美しいだろう? あなたの紅い髪によく映える」
かつて、自分の周りにこんな風流なことを言ったりしたりする男がいただろうか? 蓮音は驚いて思わず男をじっとみてしまった。
流れるような眉に凛々しい瞳、よく見るとまつ毛がすごく長い。すっと通った鼻筋をした美貌の持ち主は、光を灯したような眼差しで蓮音を見つめながら口角を少しあげて微笑んでいた。
眉目秀麗というのはこの人のためにある言葉なのではないか。長身で手足も長い彼は、その容貌も言動もすべてが別格に美しかった。そう思うと、蓮音はなんだか気恥ずかしくなって目をそらした。何かを誤魔化すようにつぶやく。
「もうすぐ食事だから帰らないと。早く行こう」
背を向けて歩き出す蓮音に、剣護は「うん」とだけ答えて、蓮音の燃え立つような紅い髪に見入りながら後に続いた。




