第62話 一時の別れ
剣護は、蓮音を寝台に横たわらせた。
「いかないで、剣護」
ずっと体に感じていた剣護の体温が急になくなった。蓮音は慌てて手を伸ばし、愛する男の袖を掴んだ。
「大丈夫、どこにも行かないよ。今夜はずっとあなたの側にいる」
剣護は蓮音を抱きしめた。再び、身体に愛する人の体温を感じて、蓮音は安堵した。
「ずっとこうしていたい。どこにも行きたくない」
蓮音も剣護を抱きしめ返した。
「あなたがそう望むならば、俺はその望みを叶えるまでだよ」
「でも、朝になったら行かないと……朝にならなければいいのに。あなたのその黒い髪のようなこの夜に、ずっと囚われていたい」
蓮音は、剣護の艶やかな黒髪を自らの指に絡めた。
「俺だって、あなたを離したくはない。愛している」
剣護は、自らの上衣を脱ぐ。剣護の逞しい胸板が目に入り、蓮音は思わず手を伸ばした。
「……あなたのことが好き」
「この身体も、俺の力も、全部あなたのものだ。よく覚えておいて」
「うん」
「必ず全部解決して、絶対にあなたを幸せにする」
「うん」
蓮音は、剣護の固い決意と深い愛情に身が焼かれるような思いだった。自分を抱きしめる暗闇に飲まれるかのように、蓮音は目を閉じて、身を任せていた。
(この夜がずっと続けばいいのに……)
翌日、蓮音はいつものように剣護の腕の中で目を覚ました。
「朝になっちゃったね……」
「ああ……」
部屋に差し込む陽の光に照らされて輝く蓮音の髪を、剣護は愛しそうに何度も撫でた。
「あなたの髪は、昇る朝日のように美しいな……」
「あっ……そんなことまでまだ覚えているの?」
「忘れるわけがないじゃないか。あの時、あなたに出会って、闇に覆われた俺の心にも確かに太陽が昇ったんだ」
「うん」
「だから、今度は、俺があなたを救う番だ。絶対に手放したりはしない」
「うん、待ってる」
「毎日、あなたに口づけをしに行く」
「えっ? どうやって」
「俺を誰だと思ってる? 誰もが恐れる魔王なんだ。あなたがどこにいようと、会いに行くことなんて造作もない」
離れがたい気持ちは変わらないものの、蓮音は安心して微笑んだ。
「うん、じゃあ、楽しみに待ってる。毎日」
二人はもう一度だけ、深く口づけを交わした。何かを誓い合うかのように。
◇ ◇ ◇
今日はまた、いつも以上に蓮音の首筋には剣護がつけた跡が残っていた。
あえて剣護はそれが隠れるか隠れないかぐらいの、あえて隠しているように見える服を用意していた。
明鈴と万梅も、「美しい衣装は女の戦闘服でもありますから」と、丹精込めて着飾らせてくれた。
正装をして、化粧をして、髪を綺麗に結い上げると、どこからどう見ても深窓の姫君にしかみえなかった。
しかも、ここ最近、蓮音の持つ無垢で純粋で溌溂とした美しさに、大人の女性の持つ匂い立つような深みが加わったと二人は感じていた。
「愛されると女は変わるというのは本当なのですね……」
「このお姿を憎き皇帝に見せないといけないなんて、悔しくてなりません!」
「でも、相手は後宮に美女を何千人と囲っているような人よ。着飾ったところで、武人にすぎないわたしになんて興味はないでしょ?」
「そうだったらいいんですけどね……」
「ま、大丈夫、大丈夫。あの人がきっと何とかしてくれるから」
あっけらかんと言い放つ。
「わたしはわたしの戦いをしに行くだけ。例えば、舞台が戦場から後宮に変わろうとね」
そう語る蓮音の顔は、先ほどまでの花のように艶やかな姫君ではなく、武人のそれだった。
蓮音は、開国に残る蒼迅、エリック、海遠と別れの挨拶をしていた。
「三人とも、今日まで、わたしを、炎刃隊を、彩華国を支えてくれてありがとう。しばらくの間、会えなくなるけれども、これからも皆で助け合って、わたしの愛する彩華国を守って行ってもらいたい」
少ししんみりとした様子で蓮音は一人ひとりと握手を交わそうと手を差し出した。が、三人の誰も彼女の手を取らなかった。
「よしてくれ、姫さん。そんなまるで永遠の別れみてえじゃねえかよ」
「そうそう、まるでお嫁に行く姫君みたいだ。って、一応は、嫁に行くんだったっけ? あははははっ」
「あの……お土産はめちゃくちゃ欲しいですが、いらないので……無事にお戻りください。でも、どうしても姫がお土産を持ち帰りたいというのであれば、私は大歓迎です!」
この先は剣護が蓮音の親衛隊の隊長役となり、他の護衛は炎刃隊と見せかけた開国軍で、侍女として後宮に付き添うのは、彩華国からきた明鈴、香隠、万梅の三人と魔王の配下の晴詩となる。
おそらく男は国境から先、蓮音に付き添うことはできないだろう。そうであれば、開国に残り、ここで先日までの同盟を増やす外交に力を注いだ方が有意義だ。
「三人とも……あなたたちは、本当に相変わらずね」
別れの挨拶をしていると、人間の姿をした剣護がやってきた。今日もまた彼はただの護衛とは思えないような華やかな出で立ちだった。
「娘々、そんなに悲観しなくても大丈夫だよ。少し離れるだけだろ?」
剣護にそう慰められると本当に何もかもが安心だと感じられた。
「そうだね。じゃあ、行ってくるから、蒼迅、エリック、海遠、あとはお願い」
すぐに戻ってくる、そう願いを込めて、ちょっとその辺に出かけてくるねという程度の軽い挨拶を最後にした。
「ああ、またな」
「ボクがいなくても泣かないでくださいね」
「あの、お土産……やっぱり、ほしいです!」
それを理解した蒼迅たちも、悲壮感を漂わせることなく、軽く一言返しただけだった。
蓮音たちは魔術師の転移魔法で香隠たちに合流した。
「香隠、ガク、ここまでお疲れ様。こっちは順調だから安心して。ガク、開国にはあなたの故郷に通じる人もいるかもしれない。獅子将軍にあなたのことをお願いしておいたから何かあったら彼を頼るといいわ」
ガクは淋しそうに耳をパタンと倒していた。
「ひめ、さよならなの?」
「ううん、絶対に戻ってくるから、約束する」
ガクは声は出さずに素直に頷いた。そして、何度もこちらを振り返りながらも、蓮音たちの代わりをしてくれていた女官や魔術師たちと一緒に開国に戻った。
その日は蓮音は大人しく馬車に乗った。腹をくくって、すべてを剣護に任せる。そんな決意も込めて。
国境少し手前の山道で案の定、皇太后の手先と思われる刺客たちの一団が最後の総攻撃をしかけてきた。
その時も、馬車の中で、蓮音は微動だにせずに嵐が過ぎ去るのを待った。
足音から察するに、相手は二十人を超える大集団のようだ。が、例え何人いようと、わたしの愛する男の敵ではない。
「感謝しろ。貴様らが恐怖を感じる間もないぐらい、一瞬で終わらせてやる」
剣護の声が馬車にまで響いてきた。
馬車の外は、言葉通り、一瞬で静まり返った。
蓮音は静かに瞼を上げた。窓の外には、何かの合図のように、一筋の粉塵が立ち上っていた。
ほどなくして一行は国境についた。
蓮音はこれまで世話になった剣護の手下たち、とくに侠たちに念入りにお礼を伝えた。
侠、堅、俊の三人は姫と一緒に旅ができて幸せだったと涙を流しながら別れを惜しんだ。
「さっきもね、蒼迅たちに行ったんだけど……じゃあ、行ってくるから。後はお願いね、侠、堅、俊」
「蓮音姫様、必ずや無事のお戻りを待っております」
「今まで大変お世話になりました」
「この先も、少しでも姫様のお役に立てるよう、精進してまいります」
国境の関に着くと、剣護は侠に姫が来たことを知らせるように促す。
「我々は皇帝陛下のお招きで彩華国から参った! 門を開いて中に入れていただけないか」
「そちらが彩華国からの使節であるという証拠をみせよ!」
関所の門番が楼門の上に姿を見せると、門の上からそう告げた。
侠は、大昇帝国からの書状に蓮音の返答を添えて差し出すとともに、そこにいるのが鬼姫である証拠として蓮音の佩玉を見せた。
門番は上官の元へ走った。上官は皇帝から彩華国の使者が来るかもしれないと聞いていたので、すぐにそれを転移魔方陣で帝都に送った。
蓮音らしき一行が国境に姿を現したという話はすぐに皇帝の元に届けられたのだった。




