【閑話】「見える」お父さんと「ちょっと見える」喜多佳ちゃん 前編
前半鹿嶋のお父さん視点。後半その娘、鹿嶋喜多佳ちゃん視点です。
「確かに黒ずんでるな」
「でしょ?」
娘の喜多佳の心配する父と子がいるアパートの脇に立って色の変わった盛り塩を確認した。崩れて黒ずむ盛り塩は、このアパートに憑かれている者がいることを示していた。
「部屋は分かってる?」
「うん、その一番端っこ」
喜多佳が指さしたのは1階の端の部屋だった。表札がない。
「あ、あの子」
ちょうどドアが開いて、幼稚園児らしき女の子が出てきた。
細い。
第一印象がそれだった。
汚れてはいないが少しよれた薄緑のシャツから伸びる腕は、幼稚園児と言うことを差し引いても細かった。
「うーん。確かにあれはちょっと心配になる細さだな」
「だよね」
とことこと歩いて行く少女の後をついて行く。自動販売機の返却口に手を入れながら歩く少女が不憫だ。
近くのコンビニに入った少女はメモを見ながら何かを選んでいる。どうも酒の肴のさきいかなんかを買っているようだ。父親の指示なのだろう。お菓子売り場を物欲しそうに眺めしばらく立ち止まるが、1個だけ小さな安いチョコレートを手に取って会計へ向かった。
会計を済ませると少女は先ほど買った小さなチョコレートを口に放り込んだ。さっき手を突っ込んだ自販機にまた手を入れながら帰る。
「チョコを買っちゃって平気なのかなあ」
喜多佳が心配そうな声で言った。それは私も心配しているところだ。
「平気じゃない予感がするなあ」
「どうする、お父さん。そういう場面に直面しちゃったら」
「児童相談所に通報するのが基本だけどなあ」
私の杓子定規な返答に喜多佳が少しむくれる。
「いや、喜多佳。私達は所詮部外者だから」
「分かってます」
だったらそのむくれ顔は何だよ。
帰り道はずいぶんと寄り道しながらだった。しゃがんで花をいじったり、近所の犬に話しかけたりと、少女の興味はいろいろのようだ。
近所の飼い犬にばいばいと手を振って、少女は走り始めた。寄り道が過ぎたことに気付いたようだ。
私達も小走りで付いて行く。
少女がアパートの部屋に飛び込むなり、中から怒鳴り声が聞こえた。
「遅い」とか「馬鹿」とか、要するにそう言う怒号だ。壁に何かを投げつけたのか、どんと壁が鳴った。
「母親いないんだっけ?」
「いる。でも母親は暗い顔で、なんかもう支配されちゃってる感じ」
「なるほど」
裏手から声が響いてきた。どうもベランダに出てきたようだ。私達は姿が見えないように近づいて様子を伺った。
「この馬鹿が。ごまかせると思ってんのか?」
「し、知らないもん」
「もんとか言うな、馬鹿っ。知りません、だろうがっ」
少女が髪の毛を掴まれてベランダに出されている。父親の背後に、バッチリ憑いていた。あれが、喜多佳が「見た」黒い影の正体か。
チンピラのような父親かと思いきや、思い切りまじめなサラリーマン風の男性だった。髪の毛もきっちりとしていて、家にいるのにネクタイまでしている。逆に壊れ気味か?
「知りません。ごめんなさい」
「何を買ったのか、言えっ」
ぐいぐいと髪の毛を掴んだまま父親が少女の頭を揺さぶる。さらに手に持った缶ビールの中身を少女に掛けた。
うーん。腹が立つ。気分が悪い。アルコール飲料をそんな小さな子に掛けるのはいけないのだ。
「お父さん」
小さな声で喜多佳が言って、私の腰をつんと突いた。突くんじゃない、そういうところを。
「買ってませんっ。知りませんっ。ごめんなさいっ」
「この馬鹿がっ。お遣いひとつまとも出来ないのかっ。出来損ないめっ」
とうとう父親がビンタした。少女がボロボロと涙を流している。
しかし父親の顔のすぐ横に並ぶように「見える」そいつは、ゲラゲラと笑うように楽しんでいた。
ダメだ。見ていられない。
さっと喜多佳の手を引きながら歩いて出て行く。散歩でもしている親子のような体裁で。
私たちの姿を認めて、父親がぎょっとして少女の頭から手を離した。
自分が人に見られては困ることをしている意識はあるのか。
「入れっ」
父親が少女の手を引いて、部屋に戻った。
私達はそのまま歩きながら通り過ぎて行く。
「お父さん、「見えた」でしょ?」
「ああ、「見えた」よ。男の霊だ。すごくあの状況を楽しんでいた」
「やっぱり」
しかしそう答えながら私には少し引っかかっていた。
あの霊が父親に憑りついて悪さをしているのだろうか?
盛り塩を黒ずませるほどの力があるようには見えない感じだが。ちらっと見ただけでは潜在的な能力までは分からないか。
◇
「霊のせいじゃないかもしれない?」
「ああ、そうだな」
「え?でも憑りついてたんだよね?」
家に戻ってお茶を用意している間に、お父さんは児童相談所に通報していた。
連絡を終えた後で、お父さんが霊のせいで虐待しているのではないかもしれないと言って来たのだ。
「憑いてたね。ゲラゲラ笑ってたよ」
「だったら」
「人を動かすようなタイプじゃないんだ。強い霊だけどね」
「え?そんなのいるの?」
「いるんだよ」
私も父親の仕事内容を知ってからは、いろいろとそっち系の知識は増やしたつもりだったが、まだまだ知らないことは多い。
「実際に経験があるの?」
「あるよ。ある学校の体育倉庫に霊が憑いていた。家に憑りつくと禍家と呼ばれるような状況になるんだけどね。その体育倉庫が正にそんな感じだった」
「呪われた体育倉庫?」
「そうそう、そういう感じさ。しかしね、奴は体育倉庫に憑りついてはいたが、何もしていなかった。そこでいじめがあって、首を吊って自殺未遂が起きたけど、それは奴のせいじゃない」
「人間がやったってこと?」
「そう。あくまでいじめをしたのはそこの学生たち。奴はそれを眺めていただけなのさ。まあ、このケースは稀だけど」
お父さんが経験に基づいて話すことに異を唱えるわけにもいかないけれど。
「でも今回のはアパートじゃなくて父親に憑いてたよね?違う可能性は無い?」
「もちろん、あるさ。ただちらっと見ただけだからね。でもお父さんの経験からは、そういう印象を受けたんだよ」
「じゃあ祓う必要が無いってこと?」
「いやあ、あるだろうな」
「どういうこと?矛盾していない?」
あの霊のせいで虐待しているんじゃないなら、祓っても虐待は止まらないってことじゃないの?
「あいつは虐待を餌にしてる。分かるかな、このニュアンス」
「餌に?虐待の場にいるとパワーアップできるってこと?」
「そう、それ。喜多佳、賢いな。父親が虐待することで、そこに負の感情が生まれる。怒り、悲しみ諸々」
「父親と女の子両方にってことだよね」
「うん。今はあいつはあそこを餌場にしているだけだけれど、そのうちもっと力がつけば、いよいよ人を動かして悪さをするかもしれない」
「なるほど。だから祓う必要があるってことなんだね」
お父さんが頷いた。お茶が空になっているので、出がらしだけどお湯を急須に入れる。
「まあ、児童相談所が親子分離に踏み切ってくれれば、急を要さないかもしれないがね」
そんなお父さんの言葉は現実にならなかった。