オヨバズ 完結編 【九字】
温泉にはジャージ軍団の男性陣3人が入っていた。
「あ、上梨君」
「どうも」
湯船に入ると3人は気さくに話しかけてきた。
「しかしすごいね、上梨君。どんな修行したの?」
「いえ、修業とかは特に。合気道は習ってますけど」
「え?天然?マジで?」
「修行無しで、それなの?」
「チートだな、上梨君は」
俺の返事に三人は大げさに驚いた。そんなに驚かれても困るんですが。それにチートは違反行為でしょうが。
「え、それでいて「見えない」んだよね?」
「ええ」
「うわあ、宝の持ち腐れ感半端ないな」
「その言い方はどうかと思いますよ。本人に自覚が無いんだから、宝って言われても分からないでしょ」
「あ、そうです。そう言う置いて行かれてる感じはよくあります。今もですけど」
「あ、すまん」
俺は疑問に思っていたことを聞いてみることにした。質問もされたからハードルは下がっている。
「あの、井出羽さん達は普段は何をしているんですか?」
「あはは、ずっと山伏していると思った?」
「違うんですね?」
「山伏だけじゃ食っていけない時代だからね。俺は山岳ガイドと山小屋」
「俺は役所勤め」
「俺はまだ大学生。上梨君も大学生っぽいけど?」
「はい、大学生です」
人となりを聞くと急に親近感が湧いて来る。
「山伏の仕事は副業ですか?」
「いや、まあ、食ってはいけないけどそっちが実は本業さ」
「役所は副業禁止なんだ。内緒だぜ」
「土日はいつも修行か調伏だよ。デートもろくにできないよ。いいよね、上梨君は。可愛い彼女もいるし」
うん、否定しない。
「あの九字っていうのは誰でも出来るんですか?」
おばあさんがやっていたということは山伏限定ではないはずだ。
「上梨君なら出来ると思うね。本当はこうやって印を結ぶんだけどね」
何やら難しい指の形を目まぐるしく作っていく。これは無理だ。
「印は難しいよな。でもこうやって縦横に切るだけでも効果はある」
それがおばあさんがやっていたやつだ。なるほど縦横に指を動かしながら言えば良いのか。これなら出来るかもしれない。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。これが基本。場合によってはこれの後に一字加える。まあ、基本だけでも上梨君なら効果あるんじゃないか?」
「もう一回教えてもらえます?」
「ああ、臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前、だよ」
覚えられたかな。
「臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前」
指を縦横に動かしつつ言葉を言ってみる。
「うわあ」
「マジかよ」
「すげえ」
3人はすごく驚いてくれた。もう俺は「開眼」の効果が切れていて、何が起きているか分からない。
「効果ありますかね?」
「ありますかね、じゃないよ、もう」
「修行って意味あるのかな、と疑問に思うレベル」
「とんでもない才能とか素質って、修業を凌駕するね、うん」
どうやらうまくいったようだ。付け焼刃だけど、何も出来ないよりもマシだろう。俺はお風呂から出てつゆりを待つ間も、温泉の外のベンチに座りながら復習していた。
「何してんの、上梨」
「ああ、つゆり。これ九字の練習」
「いつの間に修行してたの?」
「修行?いや、今教えてもらったばっか」
「反則だよ、上梨。出来まくってる」
つゆりが唇をとがらせ、そして笑った。
並んで歩くとつゆりから石鹸の匂いがした。肩にタオルを置いているので、うなじが見えないのは残念だけど、こうして温泉上がりに部屋まで歩くことだけでも、なんだかいい時間だと思えた。
◇
「上梨、座って」
「ん?」
ベッドに座り、目の前に上梨を座らせた。
「えーっと」
「今日のこと?もういいよ」
「うー」
そうはいかない。そうはいかないんだ。
「私、上梨にひどいこと言った」
「平気だってば」
「ほんとにごめんね。気が動転しちゃったんだ」
「うん。分かってる」
それだけじゃない。もっと言いたいことがあるのに、頭の中がぐるぐるしてうまくまとめられない。温泉に入りながら整理したはずなのに。
「あと、ありがとう。大切な人を守ってくれて」
「さっきはおばあさんにああ言ったけど、結構ギャンブルだったかもな」
「本当にありがとう。感謝しても感謝しきれない」
「いいって」
私は上梨の顔をまっすぐに見た。ぎゅっとシーツを握る。
「上梨も、私にとって大切な人。とてもとても大切な人」
「うん、ありがとう」
ああ、この人に出会えてよかった。高校の駐輪場で話しかけてよかった。
もっともっと言いたいことがたくさんあったはずなのに、全部どっか行っちゃった。
もう一つしか残っていない。
「大好き、上梨」
「おれも大好きだよ、つゆり」
思わず上梨に飛びついた。それを上梨はあっさりと受け止めて、抱きしめてくれた。
愛おしくて、首筋にキスをした。
上梨が私の耳たぶを甘く噛みながら囁いた。
「えっと、ゴム持ってきてないけど」
「持って来てなくてもする展開でしょうがー」
私がぐいっと上梨の身体に体重を掛けると、あっさりと上梨は倒れてくれた。