たえこママの過去
(舞台説明)
ここは、メタバース空間にある、とあるバー、店を切り盛りするのは、雇われママの、たえこママであった。
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お花見が大成功で終わり、静けさを取り戻した白山の居抜きバー『The Wallet』。
カウンターの上には、JCB氏が丁寧に淹れた緑茶と、今夜のお客様──白山商店街の歴史そのものである老舗和菓子屋「羽二重堂」の主人、あんドーさん(71歳)が持ってきた特製のみたらし団子が並んでいる。
あんドーさんは、頑固一徹な職人肌。作務衣を着て、少し申し訳なさそうに頭を掻きながら、たみこママの前に座った。
「……いやね、たみこママ」
あんドーさんが、熱い緑茶をズズッとすする。
「今回のお花見でさ、うちの和菓子もあんたたちの機械(端末)のおかげで、若い人たちにたくさん売れたんだよ。ありがとね。
……でもね、実はうちの若い職人が『これからは全部キャッシュレスにするべきだ、現金払いはやめよう』って言い出してね。
私はどうにも、あの昔ながらの『お釣りをお客さんの手に渡すときの温もり』が忘れられなくてねぇ……。どっちが正しいのか、悩んじまってさ」
カウンターの端で聞いていたPayPayくんやSuicaくんが、何か言いたそうに口を開けかける。
しかし、たみこママがそれを手で静かに制した。
「あんドーさん。どっちが正しいかなんて、そんなの決めなくていいんだよ」
たみこママは割烹着のポッケから京セラのガラホを取り出し、愛おしそうに見つめた。
「人間っていうのはね、急に立ち止まったり、逆に急に走り出したりする生き物さ。……実はね、あたしも昔、若い頃は**『マラソンランナー』**だったんだよ」
「ええっ!? ママがマラソンランナー!?」
PayPayくんがひっくり返り、Suicaくんもモスコミュールのグラスを止めた。バー一同に、どよめきが走る。
「そうさ。あの頃のあたしは若くてさ、とにかく一番早く、誰よりも早く『ゴール(決済完了)』することだけが正義だと思って、ガムシャラに走ってた。
でもね……忘れもしない、35年前の大舞台。あの日は、現実世界の東京国際女子マラソンと同じくらいの、ものすごい猛暑でさ。
30キロを過ぎたあたりでね、あたしのシステム……じゃなくて足が、完全に限界を迎えちゃったんだよ。頭が真っ白になって、沿道の声も聞こえなくなって……。結局、あたしはそこで**『途中棄権』**しちゃったのさ」
たみこママは、少し遠い目をしながら寂しそうに微笑んだ。
その姿は、かつて数々の名勝負を走り抜き、解説者としても人々に愛されるあの増田明美さんが、自身の挫折を優しく語る姿そのものだった。
「その時ね、トボトボと医務室に歩くあたしの手を、沿道にいた見ず知らずのおばあちゃんがギュッと握ってくれてね。汗を拭くためのタオルと、一本の温かい缶コーヒーをくれたんだよ。
あの時の、おばあちゃんの手の温もり、缶コーヒーのじんわりとした温かさ……。
あたしはね、その温もりに救われて、またこうして歩き出すことができたんだ」
店内の空気が、シンと静まり返る。
銀聯先生はチャイナドレスの袖で大粒の涙を拭い、息子のユニオンペイくんもママの割烹着の裾を握ってシクシクと泣いている。
Apple PayさんもFace IDの瞳を真っ赤に染めて、静かに涙を流していた。
「だからね、あんドーさん」
たみこママは、あんドーさんのシワだらけの手を優しく包み込んだ。
「あたしたちキャッシュレスの仕事はね、お買い物を早く、便利にすることさ。
でも、あんドーさんが守ってきた『お釣りを渡すときの温もり』は、あたしが昔救われた、あの沿道のおばあちゃんの手の温もりと同じなんだよ。
効率だけを追い求めて、その温もりを無くしちゃいけない。現金だって、キャッシュレスだって、どっちも『人間を幸せにするための道具』なんだから。
明日の羽二重堂はね、現金のお客さんにはとびきりの笑顔でお釣りを渡して、スマホを持った若い子には、あたしが『ピッ』と優しくお手伝いすればいいのさ」
「ママ……ううっ、ママの言う通りだ……!」
頑固一徹だったあんドーさんの目から、ポロポロと涙がこぼれ落ち、みたらし団子のタレの中に落ちた。
「ママ、最高アル……! 私、感動して白酒が止まらないアル……!」
「僕も……僕ももっと、優しいバーコードになるよぉ……!」
PayPayくんもICOCAくんも、全員が涙、涙の嵐。
JCB氏も「さすがママ、白山のしだれ桜より深いお心どすな……」と、そっと目元を拭った。
「はいはい、みんな泣くんじゃないよ!」
たみこママはガハハと笑い、京セラのガラホをパカッと小気味よく開いた。
「さあ! 涙を拭いたら、今夜はあんドーさんの持ってきてくれたみたらし団子をアテに、ママ特製の『黒糖焼酎の出汁割り』で一杯やるよ! 現金もキャッシュレスも、今夜はみんなでごちゃ混ぜ(マルチ決済)だ! 乾杯!!」
たみこママの温かい掛け声とともに、JCB氏のシェーカーの音が心地よく響き、白山の夜は、涙の後に咲く満開の桜のような、最高の笑顔で更けていくのだった。




