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依頼人は村に工作員を潜ませたと言っていた。
傷心の音楽家ということになっていた。
その嘘に箔をつけるために、偽の新聞記事をつくって、音楽家が音楽性の違いにより劇場との契約を破ったため、業界を干されたというニュースをひろめたほどだ。それでも足りないと思った雇い主は工作員の右前腕にワルツの楽譜の入れ墨を少し彫らせた。
ただ、工作員の世を忍ぶ仮の姿に音楽家を選んだのはそう悪いものではなかった。創作のひらめきを得るためにあちこちうろつく人種だから、自由に嗅ぎまわっても不審には思われない。
そう思ったが、何か違いがあったようだ。殺し屋は工作員と村の小さな広場で最初のコンタクトを取るはずだった。だが、来なかった。
殺し屋は辛抱強く待った。そのあいだ、人びとは暮らしを営んでいた。
笛を吹く少女の像の台座で子どもたちが小石をぶつけ合う遊びに興じていた。開きっぱなしの窓からはどろっとした蜂蜜煮のにおいが流れてきて、細長い体を黒いフロックコートのなかで持て余している公証人が鼻をひくひくさせていた。広場の湖側では蟹が水揚げされていて、籠のなかで蠢く硬い殻を、子羊が興味津々に見つめながら、口のまわりをなめていた。
このなかで何の意味のないことをしているのは殺し屋だけだった。時間を守れない工作員を待ち続けることほど無益なことは存在しなかった。刑務所にいるよりも無駄な時間だった(当局は絶対に認めないが、刑務所は犯罪者たちが新たなコネクションをつくる場所として最適なのだ)。
依頼人は、とにかく殺し屋の腕が必要になるのだが、確証がまだ取れていない、早まったことをせず工作員からの情報を頼りにしてくれと言っていた。
その工作員がいないのだ。そうなると、〈誰を〉〈どこで〉〈なぜ〉殺すのかが分からない。この村にとって最重要人物であるらしい少年館長を殺すのかもしれないし、要職にありながら、ちっともそう見えない村長を殺すのかもしれないし、あるいは人でごった返すマーケットの真ん中でマシンガンを乱射するのかもしれない。
『可能性は無限にある』という言葉は天体観測や、小学校の卒業式でぶっ放せば、いい言葉だが、ターゲットが分からない殺し屋にとっては、これっぽっちもよくない。間違った人間を殺すと、本物がより警戒して仕事がしにくくなるし、悪いことをしたとも思うし、何よりも気持ちが悪い。寸法の合わない服を無理に着せられたみたいだ。
チェックインした湖岸の宿屋に行き、鍵を受け取りながら、殺し屋は考えた。宿屋の主人にさりげなく外国人の観光客はたくさん来るのかときいてから、さりげなく最近来た外国人観光客についてきくことは、本当にさりげないだろうか。
こたえは簡単だった。どう見ても、わざとらしい。
では、外国人でも気軽に飲める店を教えてもらうのは?
「それでしたら」と、店主。「ここから坂を二分くらい上ったところにある〈ナマズ亭〉がいいですよ。あそこのナマズのフライは絶品ですよ。ビールによく合います」
「じゃあ、ちょっと行ってみようかな」
「本当にうまいんですよ。フライドポテトも一緒に出します。なにせ、コーリィじいさんは(コーリィじいさんってのは、〈ナマズ亭〉の持ち主なんですがね)ナマズを、わざわざ隣の村まで買いに行くんですよ」
「ここの湖にはナマズはいないんですか?」
「いますよ。それに、ここのナマズのほうが大きいんですが、味は隣のほうがいいらしいです。わたしにはわからないんですが、でも、フライに関してはコーリィじいさんは間違いありません」
いまのところ、標的になる確率が、そのコーリィじいさんにも割り振られている。ごくわずかだが。
「フライにはビネガーをかけるんですか? ぼくはどうもあれが苦手で――」
「タルタルソースもありますよ」
「ぼくはタルタルソースをつけた魚のフライに弱いんですよ」ぼくはさりげなく、つけくわえた。「外国人ってみんなそうじゃないですか?」
「そうですねえ」と、店主。「どちらかというと、若い人向けじゃないですか? わたしが子どものころはタルタルソースどころかモルト・ビネガーもなくて塩だけでしたからねえ。トラックの運転手が増えてからですよ、タルタルソースが売られるようになったのは」
「じゃあ、やっぱりタルタルソース文化は外国人のものなんですね」
「そう言われれば、そうだけど、トラックの運転手たちは魚を食べないんですよ。食べると事故を起こすって。へんてこな迷信です」
「このあたりじゃ迷信は流行りませんか?」
店主は笑った。
「十年前までは迷信だらけでした。でも、いまの館長になってから、わたしたちは文明化されたんです」
それから手元の電気ランプのスイッチを切ったり入れたりした。
「こんなに簡単に明かりが手に入るんですからね。文明万歳ですよ」
工作員については外れたが、まあ、怪しまれなかったレベルの質問はできた、と、殺し屋は思い、〈ナマズ亭〉に向かった。
古いが、常連以外を拒む雰囲気のない店だった。トラック運転手も売上としてあてにしているからだろう。殺し屋を見ても、誰も変な目で見たりしなかったし、あからさまな舌打ちをしたりもしなかった。それでも棚には母親の嫁入り道具らしい皿とカップのセットが飾られていたし、壁には百年前の手漕ぎボート大会の優勝プレートがかけてあった。
「つまり、な、チャーリィのコーヒーにはすりつぶしたアンチョビが入ってたんだ。それで、チャーリィ、あんちくしょうは一〇五号線で事故っちまったんだ」
「普通、気づくだろ、アンチョビがコーヒーに入ってたら」
「気づかねえ。それがチャーリィがチャーリィである所以よ」
ぼくが座ったテーブル席のそばでは二日酔い間違いなしのトラック運転手たちがチャーリィなる同業者の被った不幸の話をしていた。
「チャーリィの体は吹っ飛んで、ガラスを飛び出して、タイヤの前に落ちた。世界ひろしといえど、自分の運転するトラックに自分がひかれて死んだなんてのはチャーリィだけだ」
「誰が、コーヒーにアンチョビを入れやがったんだ?」
「やつの女房よ」
「売女」
「保険がすげえかかってたって話だぜ。チャーリィにはよ」
「女房はいくらもらったんだ?」
「もらえんかった。欲をかいたからな。あのビッチはチャーリィが死ぬ一週間前に保険をかけた。こりゃ変だって誰もが思う。それで保険の調査員がビッチを調べた。ビッチはどうせばれっこないってタカをくくってた。だって、車に細工したわけでも、毒をもったわけでもない。コーヒーにアンチョビいれただけだ。調査員は家に行った。女房は嘘泣きしながら、チャーリィのことを最愛の夫だなんだと言った。調査員はもう少しで信じるとこだったが、そこでビッチは失敗した。アンチョビ入りのコーヒーをうっかり出しちまったんだ。なんだこりゃ、クソまずいって、ブッブーッてコーヒーを吹いちまった。それで調査員は変だなって思い始めた。で、調べた結果、トラック運転手にとって、アンチョビ入りのコーヒーを飲むってことは死刑宣告にも等しいってことがわかった。で、ビッチはしょっぴかれて、裁判よ。おれも裁判を見たけどよ、検事の野郎がマジで、これが証拠ですってアンチョビの缶詰を出したときは腹を抱えて笑っちまったよ。おかげで法廷侮辱罪で一週間閉じ込められたけど、すぐに検事もぶちこまれた。アンチョビを証拠として提出したって法廷侮辱罪でな。で、最後に判事がぶち込まれてきた。アンチョビを証拠として認めてビッチに死刑判決を出したってな」
トラック運転手たちはゲラゲラ笑った。
カウンターからコーリィじいさんのどら声がきこえた。殺し屋はフィッシュ・フライとフライド・ポテト、そして、一パイントのビールをテーブルに持ち帰って、タルタルソースで食べた。
トラック運転手たちは××××の国歌をがなり始めた。××××では先月、軍事クーデターが起きていた。海外のラジオ局の言うことを信じるなら、反体制派と疑われた三十六人の男女中学生が警官たちに連れ去られて行方不明になっている。
殴打、水責め、電気ショック。死体は使われなくなった採石場の谷へと捨てられる。公式な書類では『既に釈放した。そこから帰宅していないのはそっちの勝手』だ。
三十六人に二をかければ七十二人、片親の家庭もあるから四か五を引くか? だが祖父母もお金を出す可能性も高い、そうなると、やはり七十人は堅い。子どもを失った復讐者はいつだってお金になった。駆け出しのころは子どもの仇にずいぶんと助けられた。そういうわけで、××××のニュースにはこれからも耳を傾ける価値がある。
もちろん、いま抱えている仕事をこなしてからの話だ。
それにいま、殺し屋は消えた工作員以上の問題に頭を悩ませている。
「このフライ、そんなにおいしいかな?」
おいしいが絶品というほどではない。
これよりもおいしいフィッシュ・フライを都会の屋台で食べたことがある。
あの屋台はボロボロの木組みで、フライを包むのに新聞紙を使っていたから、インクが溶けて、フライの衣に訃報欄が写っていた。
それでもあっちのフライのほうがうまかった。
魚のちがいかも知れない。あっちはタラを使っていたのかもしれない。
だが、殺し屋だって年がら年じゅう、依頼を受けては殺してまわるのに自動車を使っている。たいていはハイウェイを走る。そして、ハイウェイ沿いにはフライド・チキンやチリコンカン、スパゲッティ・アンド・ミートボール、そして、フィッシュ・フライを食べさせる店が多い。そして、内陸部の店で使われる白身魚はほぼ全てナマズだ。だから、ナマズのフライには一家言ある。このフライは稜線を越えて、隣の村から買いつけるほどの価値はない。
しかし、このナマズでフライをつくらなければいけないほど、この村のナマズはまずいのかもしれない。
図書館にはおいしいナマズの養殖法がまだ記載されていないのかもしれない。




