一
この町の商店街はすっかり景観を失われた。昔から続く店よりも、夜も灯りを消さぬコンビニエンスストアがよく目立つ。
皆、歳をとってから夕方には店を閉めてしまうし、商店街内のコミュニティも活発ではない。私が小さい頃からやっていた定食屋も、シャッターが下ろされたままになってもう八年が経った。
寂れた商店街。日曜日の昼間に来てはみたが、賑わいとは遠く離れている。こんなものか。結局、昔ここを利用していた人も、車でスーパーマーケットに行って買い物をしているんだろう。
地域の繋がりや団結すら、こうも簡単に外部的要因によって壊されるのだろうか。思えば、どこの店でも店員と客の会話は減ってしまった。
そんな商店街にも、昔から変わらない様子のこぢんまりとした古本屋が一軒ある。私がそこを知ってもう二十年は経つが、まるでそこだけを切り取って時を止めたような、そんな印象を受ける店だ。
そこの店主は七十歳を越えた辺りから体を悪くし、孫によく手伝いをさせている。孫と言っても今は大学生で、入店すると店奥のレジから気さくに話しかけてくる好青年だ。
今日は店主か、その孫か、目当ての本があるわけではないが、なんとなく古本屋まで歩いてみた。
横切る人は皆スマートフォンを見て、今歩いているここは興味も用事も無いただの道である、そんな顔をして歩いているように見えた。
私はこの商店街のことを思っているよりもずっと好きだったのかもしれない。そんなことを考えているとあっという間に目的地に着いた。
古本屋吉永。普段都市部で生活している若者が好みそうなレトロな店構えは、私にとって落ち着きと懐かしさを提供してくれる。
店の入り口の前には樹脂製の青いベンチと、それと対照的な色の、スタンド付きで赤い半缶型の灰皿が置いてあった。これはきっと店主が愛煙家であったことが由来だろう。
時代から隠れているような、そのままの形を残してくれているような、そんな様子が私は昔から好きだった。
入り口に近づくと本棚の木と古い紙、そして煙草の匂いがする。なので、今日は孫が店を任されているのだろう。
店主は体を悪くしてから煙草を控えていたが、昔店主が煙草を吸いながらレジで作業する姿を見て、その真似をしてか孫もよくそうしていた。今の時代に、よく燃えそうな古本屋で。
積みあがった本は、まるで狭い店内を迷路のように思わせていた。煙草に混じる古紙特有の匂いは、私に新聞を読む父を思い出させる。ずいぶん昔の記憶だ。
寂し気な商店街と地続きの雰囲気を持つこの店は、やけに静かで私を心細くさせた。私はここにいてよいのか。空調の音が耳を澄まさずに聞こえる。
「鈴木さんって煙草ダメでしたっけ?」
人気のない店の中、奥のレジあたりから私の名を呼ぶ声がした。レジからこちらは積み上げられた本たちで見えづらいはずなのに、と少し驚いた。急に話しかけられたが、予想通り彼の声だったので、驚きは少しで済んだ。
「そういうわけじゃないよ」
平気そうな声を出す。三十歳を過ぎてこの程度で驚いているびびりだとは思われたくない。なんともないような振りをして彼がいるであろうレジを覗く。
「久しぶりですよね。覚えてますか? 孫のアキフミです」
彼と最後に会ったのは確か二ヶ月ほど前だが、彼にとっては久々のようだ。私からすれば最近だが、時の流れの感じ方はきっと若者とは違う。
レジにある椅子に座って彼はこちらを見ている。黒く長い前髪が綺麗な目元をうまく隠していて、ミステリアスな雰囲気を醸し出している。高い鼻の下にある口の両端は良い具合に上がっていた。
世間一般の美男子の基準からはほんの少し外れるのかもしれないが、絶妙なバランスを持ったこの顔立ちはきっと女性人気も高いだろう。
彼の横にはステンレス製の蓋付き灰皿が置いてあったが、よく見ると吸殻が溢れており、蓋が半開きになっていた。
「もちろん覚えてるよ。お祖父様の調子はどうだい?」
「一時期よりは良くなりましたよ。普通にお店もやれるくらい。でも放っておくとまた無理しそうなので、僕が暇な時はまだこうして店番変わってます」
にこりと笑った彼の顔は、私が女性なら簡単に警戒心を解いてしまうような魅力があった。
「若いのに偉いね」
「若さは理由にならないですよ。お小遣いも貰ってますし。それに見ての通りの客入りなので、働いてる感じもしないですし」
彼は煙草を咥えると、慣れた手つきで火をつけた。彼の顔や細長い指、所作を見ると、その瞬間だけでも絵になった。
「こんな風にお話できて、煙草まで吸っちゃって、見る人が見たら不快でしょうが、この商店街の寛容さというか、温かみが僕は好きですね」
煙を吐きながら喋る彼は、今に満足そうな顔をしている。
私からすれば、彼はこの商店街の昔を知らないからそう思うのだし、ただこの店が大衆に見つかっていないだけだからと感じた。随分と前からこの商店街伝統の祭りは開催されなくなり、住民同士の繋がりも希薄になっていった。
それに今の時代彼のこの態度がSNSで切り取られれば、きっとただじゃ済まない。私のような、元からこの店を知っている人間の多くは、彼の態度が悪いとは感じない。こういうものだと知っているし、知っていてこの古本屋に足を運んでいるからだ。
しかし、商店街の外から来た人間に一度見つかってしまったら、きっと都会の社会的慣習が彼を許さないだろう。SNSからこの店を初めて知り、ここの歴史や慣習を無視して、店員が接客中に煙草を吸うのは有り得ないというモラルのみを振りかざしてくる人間は、きっと私が考えるよりも多いだろう。だから別にこの商店街が寛容で温かいというわけではなく、きっと皆興味が無いので放って置かれているだけだ、そう思っている。
こうやって地域のあれこれは忘れられていくのだろう。人同士の繋がりがあったあの頃を覚えている人は皆先に年老いてしまう。そんな中で育った若者は、自分の故郷を田舎だと恥じながら、憧れを抱き、便利を求めて都市に向かう。残るのはきっと目の前の彼のような、故郷に生かされてきた人間や、物好き、もしくは故郷でしかアイデンティティを見出せない人間だろう。
「アキフミ君がどんな職に就くんだい?」
気軽に聞いてしまった。彼の将来が気になったからだ。この町で生きた若者がどんな道を進むのか。
「正直まだ就活する時期でもないですからあまり考えてないです。でもふわっとですけど、この町に携われたらいいなとは思います」
「それは、どうして?」
「愛着とか、慣れた土地で暮らしたいとかそんな感じですね。都会は得意ではないですし」
彼は蓋付き灰皿の中身を足下のゴミ箱に入れ、空になったそれに煙草の火を押し付けた。煙がもう上がらないことを確認してから、萎びた吸い殻を灰皿に入れ蓋を閉めた。
「ところで今日はどんな本を探しに来てくれたんですか?」
そう言う彼の顔を見ると、今日はちらりと様子を見に来ただけで、別に本を買う予定なんて最初から無いとは言えなかった。
「なんというか、…最近のおすすめはあるかな?」
苦し紛れの質問。客の演技をしている気になる。
「そんなのないですよ。僕は昔から、読んでも漫画のタイプでしたから」
彼は笑いながら続ける。
「まあ、他のお客さんに聞かれたら、有名作家のベストセラーをとりあえずおすすめしますがね。その作家を知った気になれそうじゃないですか」
これが若者の読書離れだろうか。こんなに本に囲まれた環境で時間を持て余しているというのに、彼はスマートフォンから湧いてくる情報にしか興味がないのだろう。まあ、私も似たようなものだが。
「それか掘り出し物でも一緒に探してみますか?」
面白い提案だと思った。古本屋には一般の書店に無い掘り出し物が比較的安く置いてあるものだ。なんとなくそういうものに心惹かれるのが男心というものではないだろうか。
「やろう」
そこから二人で本棚をゆっくりと見漁った。アキフミ君は古本屋の店番をしているが、買取査定などは祖父の担当で、本の知識は私とほとんど変わらなかった。正直素人二人では何が掘り出し物で、何が違うのかも分からなかった。
「これなんかどうですか?」
そう言って、アキフミ君が見せてくれた本は、どうやらひと昔前の物理学の本のようだ。一見するとそれは有名すぎるくらいに当時流行った本だった。学術的価値は時代とともに薄れただろうが、古典的な名著として今も手に取る人がいる。
「それは本屋に沢山あると思うよ」
「そうですか」
しょげたような顔をする彼は、その瞬間は年相応な表情だった。
その後もああでもないこうでもないと、本棚を見る作業はとても楽しく、年甲斐もなくはしゃいでいたような気がする。
そうやって見て回っていると、ふと違和感を覚えた。レジから見てすぐ右横の本棚、最下段の左端。よく見ると左から五冊ほどが手前に出っ張っている。違和感は正しかった。奥にスペースでもあるのだろうか。
気づけばしゃがみ、本をどかして奥を覗き込んでいた。特に好奇心等は無かった。無心と言った方が良いだろう。機械的に一連の動作を行った。なんとなく、というやつだ。
覗き込んだ先は真っ暗だった。ポケットから出したスマートフォンで明かりを照らし、覗き直す。暗闇の正体は黒く薄い手帳だった。
手帳が横向きに、本棚の奥に貼り付けられたように仕舞われていた。私にはそれがどうも隠されているように思えて仕方がなかった。
手に取ると埃まみれで、あまり良い保存状態とは言えない。表紙は真っ黒で飾り気がない。表紙を捲り一頁目を覗いてみることにした。
「日っきをつけるのははじめてだし何を書いたらいいのかむずかしいので、一日で何をべんきょうしたかと何してあそんだかを書いていく。今日は雨で学こうでびしょびしょ。さん数はむずかしいけどできたらたのしい。けんじとたかとだい二公えんでサッカー。六月十二日」
内容からこの日記は、小学校低学年ほどの子どもの物だと推察できる。拙い字で大きく書かれているが、どこか可愛らしさがあって好感を抱いた。
「なんですか? それ」
左後ろからアキフミ君が話しかけてくる。
「本棚の奥から出てきたんだよ。これ」
そう言って振り返り日記を見せる。アキフミ君の顔が一気に期待に満ちた。じろりじろりと私の手にある日記を観察した後、怪訝そうな面持ちに変わった。
「売り物じゃないですね」
「子供の日記みたいだよ」
日記を差し出す。彼はがっかりした顔で受け取った。
「そうでしたか。今度祖父に確認してみますね。もしかしたらお客さんの私物かもしれません」
「普通そんなことあるもんなの?」
私の問いを聞いたアキフミ君は、きっぱりと、こんなことは初めてだ、と教えてくれた。
また本棚を見漁ろうかと思っていた頃、一人の若い女性が店を訪れた。邪魔になるからそろそろ帰ろうか、とアキフミ君に聞いたが嫌そうな顔をされた。正直買おうと思う本も無いから、機会を窺って帰ろうとしていたが、まさかそんな顔をするとは。
カツカツとヒールの音が近づいてきている。彼女に迷いは無く、長い髪を揺らしながらアキフミ君に向かって行く。彼女は真剣そのものというよりも少し怒った顔をしている。それを見て立っているアキフミ君は緊張した面持ちだ。
その女性はアキフミ君の目の前まで歩を進め、立ち止まり、そして向かい合った。真っ直ぐな彼女の目線は、彼の前髪に隠された両目を完全に捉えている。引き攣った笑顔を見せるアキフミ君が、沈黙と緊張に耐えられなかったかのように口を開く。
「結構久しぶりだよね」そう言い終わるかどうかの隙に、バシンと大きな音が、三人しかいない店に響き渡る。それはアキフミ君が女性に頬を叩かれた音だった。
私は呆気に取られてしまった。俗に言う修羅場ってやつに立ち会ってしまったのではないか。一体彼は何をしてしまったんだろうか。彼と女性はどんな関係なのだろうか。状況を整理する前にその女性は踵を返して店を出て行ってしまった。
「恥ずかしいところを見られちゃいましたね。二人きりだったら何されてたか…」と左頬を真っ赤にしたアキフミ君が気まずそうに笑っている。私が帰ると言って嫌な顔をした理由が分かった。
「大丈夫なの…?」
あの女性は会話もせずに帰ってしまったが、本当にそれで良かったのだろうか。今すぐ追いかけて話し合うべきではないのか。
「痛いですけど、まあ大丈夫です。引き留めちゃってすいませんね」
以前爽やかに答える彼に、そっちじゃないよとは言えなかった。




