第1話 モンスターよりクレーマーの対応が大変なんですが
新宿御苑に巨大な陥没穴――通称『新宿御苑ダンジョン』が出現して、今年で5年が経つ。
当初こそ未曾有の災害、あるいは世界の終末かと騒がれたものの、現代社会の適応力というのは恐ろしい。最初の数ヶ月こそ自衛隊による厳重な封鎖と綿密な内部調査が行われたが、内部で独自の生態系が完全に完結しており、モンスターが地上へ溢れ出す危険性が極めて低いことが判明する。さらに、討伐されたモンスターから採取される未知の鉱石『魔石』が、既存の化石燃料を遥かに凌駕するエネルギー効率を持つ次世代のクリーン資源として実用化されると、事態は一変した。
あっという間に、国を挙げてのゴールドラッシュが始まったのだ。
今やダンジョンは隔離された危険な魔境ではない。ダンジョン特別措置法によって日本国の厳重な管理下に置かれた、巨大で魅力的な資源採掘場だ。未知の領域に対する探求心やロマンに駆られた勇者たちの時代は早々に終わりを告げ、代わりに一攫千金を夢見る一般人が講習を受けて「探索者免許」を取得し、個人事業主としてダンジョンに潜るようになった。
冒険はもはや非日常ではなくなり、魔法はスマートフォンと並ぶ便利なツールとなり、恐ろしいモンスターは換金可能な資源へと変わった。
そして、ダンジョンが社会インフラとして完全に組み込まれたということは、当然そこには「行政」が介入するということである。
魔石の売却益にかかる所得税の徴収や確定申告の指導。モンスターの死骸の廃棄区分。ポーションの薬機法上の取り扱いや、成分未表示による無許可の露店販売の取り締まり。さらには深夜に活発化する魔物の不気味な鳴き声に対する、近隣住民からの終わりのない騒音苦情。
剣と魔法の世界で起きるあらゆる事象を、現代日本の法律と事務手続きで処理する。血沸き肉躍るファンタジーの世界も、一歩外に出れば複雑怪奇な社会システムに絡め取られる。
それら一切の面倒事を一手に引き受けるため、国や都から現場対応業務を押し付けられる形でここ新宿区役所に新設されたのが「ダンジョン管理課」だった。
★★★★★★★★★★★
「だから! 俺の言ってることがわからねえのかよ!」
週明けの月曜、午前10時。
冷房の効いた区役所1階のフロアに、いらだちを隠そうともしない怒声が響き渡った。
ダンジョン管理課の3番窓口。アクリル板の向こう側で、使い込まれた革鎧の上に派手な柄のシャツを羽織った若い男が、拳で受付の台をバンバンと叩いている。いかにも日雇い感覚で潜っている、素行の悪い下級冒険者といった風体だった。
「スライムの酸で俺の特注ブーツがドロドロに溶けちまったんだよ! このダンジョンは新宿区が管理してんだろ!? だったら安全管理の責任をとって、新しい装備代を税金から出せって言ってんだよ! 安い買い物じゃなかったんだぞ!」
「は、はい……ですが、ダンジョン内での物品の破損につきましては、原則として自己責任と規定されておりまして……」
対応にあたっている若手職員が、怯えた声でマニュアル通りの返答をする。
「あぁ!? 自己責任!? ふざけんな、あんな浅い階層にアシッドスライムが湧くなんて聞いてねえぞ! 区の清掃が追いついてねえからだろうが!」
男はさらに声を荒らげ、威嚇するように身を乗り出した。周囲で順番待ちをしている区民や他の冒険者たちが、迷惑そうに、あるいは面白半分にこちらを見ている。
「おい、責任者出せよ! 今すぐここで現金払うか、それとも俺の拳で痛い目見るか……」
「――そこまでにしておきましょうか」
低く、よく通る声が、男の怒声を遮った。
パーテーションの奥、うず高く積まれた書類の山に埋もれていたデスクから、一人の男が立ち上がった。
男が窓口へと歩み寄るにつれ、騒いでいた冒険者の顔から少しずつ血の気が引いていく。
それもそのはずだ。男の身長は優に185センチを超え、既製服のスーツが悲鳴を上げるほどに隆起した大胸筋と、丸太のように太い腕を持っていた。短く刈り込んだ髪に、精悍で彫りの深い顔立ち。まるで裏社会の用心棒か、あるいは最前線で命を削る高ランクの重戦士が、窮屈なスーツを無理やり着せられているかのような異様な存在感だった。
男――ダンジョン管理課主任の高木乾三は、怯むチンピラ冒険者の前に立つと、アクリル板の下からすっと一枚の紙を差し出した。
「お待たせいたしました。こちら、新宿区ダンジョン利用規約の第14条に関する同意書の写しです。ご自身の署名と捺印をご確認ください」
「は……? な、なんだよ急に」
「第14条第2項。『ダンジョン内において発生した生命、身体、および財産に関する一切の損害について、新宿区は故意または重大な過失がある場合を除き、賠償の責を負わない』。これにご同意いただいた上で、本日の入区証を発行しております」
高木の低い声は、感情の起伏を感じさせないほど淡々としていた。それが逆に、得体の知れない凄みを生んでいる。
「いや、だから! あのスライムの異常発生は区の管理不足っていう過失だろうが!」
男は後ずさりしながらも、なんとか虚勢を張った。
しかし高木は、手元の重量感のあるファイルを開きながら即答する。
「おっしゃる通り、国家賠償法第2条第1項に基づく営造物の設置・管理の瑕疵を問うおつもりですね。しかし、過去の判例から申し上げますと、ダンジョンという特殊かつ流動的な自然環境において、全てのモンスターの発生地点を予測し完全に排除することは物理的かつ予算的に不可能です。したがって、行政にそこまでの高度な安全確保義務は課せられていないというのが現在の法解釈の通説となっております」
「なっ……」
「それに加えて、本日のダンジョン環境調査報告によれば、第2階層におけるスライムの発生率は平年並みの推移を見せており、異常発生という事実は確認できません。また、アシッドスライムの粘液が皮革製品を溶解するという基礎的な事象は、区が発行している冒険者マニュアルの32ページに明記されております。これに対する防汚スプレー等の使用を怠ったとすれば、それは利用者側の過失割合が極めて高いと判断される案件です」
高木は一切噛むことなく、よどみなく言葉を連ねた。
「以上の点から、本件に対する損害賠償請求は棄却される可能性が高いと存じます。それでも不服申し立てをされる場合は、所定の書類を揃えて東京地方裁判所へご提訴ください。ただし、敗訴した場合は訴訟費用の全額負担となりますが」
高木はそこで言葉を区切ると、スッと目を細めて上から男を見下ろした。
「さらに申し上げますと。先ほどからあなたが窓口を激しく叩き、大声で当課の職員を威嚇している行為は、刑法第95条の公務執行妨害、および第234条の威力業務妨害に該当します。頭上の防犯カメラにも映像と音声が鮮明に記録されておりますが……このまま所轄の警察署へ通報し、あわせて冒険者ギルドへ迷惑行為として報告を入れたほうがよろしいでしょうか?」
そのプレッシャーと、逃げ道を完全に塞ぐ法律の壁に、男は完全に圧倒されていた。
「ちっ……今日はこれくらいにしといてやるよ! 覚えとけよ!」
男は顔を真っ赤にして捨て台詞を吐くと、逃げるように区役所の自動ドアから出ていった。
高木は短く息を吐き、少しだけズレたネクタイの結び目を締め直す。
「高木主任、助かりました……」
「いや、いいんだ。ああいうのは最初から法的根拠と事実を並べてペースを握らないと、延々と居座られるからね。じゃあ、次の番号の方をお呼びして」
高木は普段通りのトーンで若手職員を諭すように指示を出し、自分のデスクへと戻っていった。
★★★★★★★★★★★
その一部始終を、少し離れたバックヤードから食い入るように見つめている少女がいた。
今日からダンジョン管理課に配属された新人、安藤まひるである。
金髪のボブヘアに、150センチ台前半の小柄で華奢な体格。オフィスカジュアルというよりは、少し派手な街着に近い服装をしている彼女は、つい半年前までCランク冒険者としてダンジョンに潜っていたという異色の経歴を持つ。
(な、なんだ今の……!?)
まひるの目は、デスクに戻って黙々とパソコンのキーボードを叩き始めた高木に釘付けになっていた。
冒険者の世界は舐められたら終わりだ。あんな風に窓口でイキり散らす馬鹿は、現場のダンジョン内では力ずくでわからせるのが一番手っ取り早い。まひる自身、さっきあの男が受付台を叩いた瞬間に、背後から死角を突いて飛びかかり、首根っこと関節を極めてやろうかと本気でタイミングを計っていたのだ。
しかし、あの巨漢の主任は違った。
あんなにも恵まれた筋肉と体格を持ちながら、一切の暴力を使わず、声すら荒らげることなく、ただ『法律と規約』という見えない武器だけで相手を完膚なきまでに叩きのめしたのだ。
(す、すっげえ……! あの冷静さ、あのプレッシャーの掛け方。絶対にタダ者じゃない。もしかして、元Aランクのタンク? いや、引退したSランクのギルドマスターとか……?)
冒険者としての本能が、あの男は「強い」と告げていた。
まひるはゴクリと唾を飲み込むと、意を決して高木のデスクへと歩み寄った。
「あの! 新しく配属されました、安藤まひるです!」
「ん? ああ、今日からの。高木だ。よろしく」
高木は画面から目を離さず、手元の書類にハンコを押しながら応えた。
「先ほどの対応、本当に凄かったです! 私、感動しちゃいました!」
「そう? よくあるクレーム対応だよ」
「あんな完璧な追い詰め方、素人じゃ絶対無理です! 先輩、昔はどこのクランに所属してたんですか!? やっぱり最前線の深層でバンバン凶悪な魔物を狩ってたんですか!?」
目をキラキラさせて迫るまひるに対し、高木は不思議そうな顔でキーボードを叩く手を止めた。
「クラン? 前線?」
「はい! その筋肉、ただの公務員が持ってるやつじゃないですよね! 武器は何を使ってたんですか!?」
まひるの勢いに押されながら、高木は自分のたくましい胸板をちらりと見下ろした。
「ああ、これか。学生時代にアメフトを少々やっててね。今は趣味でジムに通ってるだけだよ。プロテインとササミのおかげかな」
「……え?」
「私はずっと税務課と環境保全課を回ってきた生粋の公務員だよ。ダンジョンなんて、視察で安全な第1階層に数回入ったくらいだ。もちろん魔法も使えないし、モンスターと戦ったこともない」
高木はさも当然のように言い切り、再びモニターに向かってマウスを動かし始めた。
「それより安藤さん。君は元冒険者だったね。午後から第3階層に無許可で建てられたプレハブ小屋の撤去命令を出しに行くんだが、現地の案内を頼めるかな。建築基準法違反の通知書は私が作るから」
「あ……はい。わかり、ました」
まひるは呆然と立ち尽くした。
目の前のこの男は、本当にただの「公務員」なのだ。
魔法も使えず、剣も振れない。けれど、六法全書とハンコを武器に、この混沌としたダンジョン社会の最前線で戦っている。
「高木主任! また3番窓口に、今度は『ポーション代を経費で落とせ』って怒鳴ってる冒険者が!」
「わかった。すぐに行くよ」
高木は小さく肩をすくめると、傍らに置いてあった鈍器のような『所得税法』の解説書をひょいと持ち上げ、再び戦場たる窓口へと歩き出した。




