王太子との取引
通されたレスターの私室で待っていたのは、近衛騎士だった。しかもレスターの近衛騎士ではなく、王太子付きの制服を着ている。
「アンダーセン侯爵、王太子殿下がお待ちです」
「そうですか」
ため息が出そうになったが、何とか飲み込んだ。一昨日、リーリアの暴挙にレスターがキレてしまったせいで大切な相談事ができず、仕方がなく王宮にやってきたのだ。早々に事情を説明する必要があったのだが、こうなってしまっては仕方がない。
嫌な予感がバシバシしていたが、王太子の命令を無視するわけにもいかず大人しくついていく。
近衛騎士に連れられてきたのは王太子の執務室だった。無言で入るように促された。覚悟を決めて執務室に入れば、すでにレスターは長椅子に座っていた。
「よく来たね」
柔らかい言葉と共にレスターの隣に座るように告げられた。王太子、つまりレスターの異母兄であるクラディスは王妃に似ている。レスターも母親に似ているので、二人並んでもさほど似た感じではない。唯一同じだなと思うのは瞳の色くらいだろうか。濃い紺色の瞳もこの国には珍しい色でもないので、共通点を見つけるなら、という程度のものだ。
クラディスは優雅にお茶を飲みながら、レスターはイライラしながら沈黙していた。こんな温度差のある空気の中、平常心を唱え続ける。もちろん表情に出すなんてことはしない。これでもアンダーセン侯爵家当主なのだ。
何度もこの空気にさらされたことはあるし、クラディスに至っては、わざとレスターの感情を引き出すためにわたしに絡むこともある。その後レスターの機嫌が地の底まで落ちるからやめてほしいと切実に願っていても、いい性格をしたクラディスはどこ吹く風だ。わたしが困っているのを見るのが好きに違いない。
「今日も綺麗だね。できればいつでも私の傍らに置いておきたいよ」
「お褒めのお言葉、ありがとうございます」
にこりと義務的に微笑むと、クラディスもうっとりするくらい甘い顔で微笑む。
はあ、王族ってどうしてこう見た目がいいのか。二次元万歳だと思っていたけど、これぐらい整っていると三次元でもいけると思ってしまう。
「異母兄上、もう用事は済みました。僕達は退出します」
イライラしているのがまるわかりの棘のある口調に、クラディスは不思議そうにレスターを見つめる。
「たまにはゆっくりと交流してもいいじゃないか。本当ならば、バネッサは私の妃としてもよかったのだから」
「アンダーセン侯爵です。婚約者は僕で、異母兄上は違います。馴れ馴れしく呼び捨てしないでください」
「そんなに彼女が大切? その良さを私も知りたいな」
マジで誰か留めてください。ため息を漏らさないように必死にお腹に力を入れる。少しだけ視点をずらして、気を紛らわせるように無表情でひたすら壁の柄である花の数を数えた。
「冗談はここまでにして、真面目な話をしようか」
レスターで遊ぶことに満足したのか、クラディスが手にしたカップをテーブルに戻す。カップの置かれる小さな音を合図に、先ほどまでの揶揄うような色が消えた。柔らかい雰囲気はそのままなのに、ひどく冷たさを感じる。
不思議な緊張感が全身を包んだ。わたしは少しだけ姿勢を正した。
本当はレスターに相談してからにしたかったが仕方がないと腹をくくる。クラディスはにこりと笑った。目が全然笑っていないが表情だけなら笑顔に見える。緊張にこくりとつばを飲み込んだ。
「アンダーセン侯爵がどこまで知っているのかと思ってね」
言葉は柔らかいけど、逃がさない雰囲気がある。先ほどまで親しくバネッサと呼んでいたのに今度は侯爵呼びだ。この公私の切り替えの早さが王族ならではなのだろう。レスターがわたしを庇うように声を出した。
「異母兄上」
「レスター様。いいの」
わたしは身を乗り出すレスターの手を握った。レスターが戸惑うような顔をする。
「本当は貴方に相談したかったけど、そうもいっていられないようだから」
レスターを訪れたのはまずは彼に一言断っておきたかった。結婚が白紙になってしまう可能性があるから、どうしても自分の口から言いたかった。だけど、こうして彼に相談する前にクラディスの前に連れてこられてしまった。タイミングが悪かったと思うしかない。
わたしはクラディスの目を真っすぐに見つめた。逸らすことなく言葉を発する。
「もしかしたら……可能性の話ですが、父が国のお金に手を付けているのではないかと思っております」
「バネッサ、その件はこれ以上言わなくていい」
低く制止するレスターを私は驚いたように見た。彼は苦渋の表情でこちらを見ている。
「僕も知っているんだ。先ほど異母兄上から聞いた」
「お父さまは本当に……?」
わたしの調査では財務部の内情までは知ることはできない。クラディスはやはり調査しており、その結果をレスターに伝えた。
「アンダーセン侯爵」
クラディスは静かに促した。
「こちらの調査では収入に合わない出費しかわかりません。横領が本当であった場合、最終的にどれほどのお金を手にしていたのかはわかっておりません。ですが、横領したお金はわたしの資産からお返しします」
「必要ない!」
驚いたようにレスターが叫んだが、わたしは彼の方を向かずにクラディスのみ見ていた。彼の表情を伺うが、これといった変化はない。
不快感も、不信感も、怒りも。
普通につまらない世間話をしているような感じだ。全く王族というのは……。少しでも表情に出せば、何を考えているか想像ができてこちらも安心できるのだが。
クラディスは一枚の書類をわたしの前に押し出した。テーブルに乗せられた書類を手にする。横領金額が書かれていた。
総計を見て卒倒しそうだった。これほどの金を一体何に使ったのか。こちらで調べた金額の10倍以上なのだ。数人分の給与と言われてもおかしくないほどの金額だ。
「どう思う?」
「正直に言えば、多いですね。何に使っているのでしょう?」
取り繕う気力もなく思ったままを答えた。積まれた金額は本当に多く、わたしの資産のほとんどをつぎ込むことになる。それでもアンダーセン侯爵家の資産には手を付けることはないのだ。そちらの方が重要だった。
「さあ? 使うのはあっという間だから」
「あの、王太子殿下」
躊躇いながらも、気持ちを整えて顔を上げる。じっとクラディスを見つめてから、頭を下げた。
「アンダーセン侯爵家の存続と父の助命をお願いしたいのです」
「君はどうするの?」
面白いことを言ったつもりはないが、少しだけクラディスの声にからかいの色が混じる。
「アンダーセン侯爵家の当主座を次の後継者に譲ります。わたしは平民になるつもりです」
平民なったとしてもアンダーセン侯爵家の伝手から働く口はある。犯罪者ではないのだから、大抵の貴族の子息令嬢と同じように平民として暮らしていけばいいだけだ。
レスターが息を飲んだ。わたしはゆっくりと顔をあげて、初めてレスターに顔を向けた。衝撃を受けている彼に申し訳ないと思う。本当は先に伝えておきたかった。
「バネッサ」
「ごめんなさい、レスター様」
たとえ書類上、お父さまがアンダーセン侯爵家から除籍されていたとしてもわたしにとっては父親だ。愛情など少しも感じたことも与えてもらったこともないが、生きていてほしいという気持ちはある。
もっとも、この中世的な世界だ。貴族と同じ暮らしをしていた人間が罪を背負った罪人として生きていくのは厳しいだろう。仕事の斡旋くらいはアンダーセン侯爵家でしてもらいたいが、罪が罪である。難しいかもしれない。
「ローリングを切り捨てないのか? 切り捨てたところで、君は同情されるだけだと思うけど」
「それでも父親なので生きていてほしいとは思っています」
「うーん、君はいい子だね。もっとずるくてもいいのに。でも、側にいてほしい人だね」
ため息とともにクラディスが呟いた。レスターから彼の方へ視線を向ければ、とても困ったような顔をしていた。先ほどまでの穏やかだけど、無表情であったのが嘘のようだ。
「バネッサは僕のです」
むっつりとレスターが言えば、クラディスが笑った。
「うん、わかっているよ。先に結論を言えば、君とアンダーセン侯爵家に罪を問うつもり初めからない。後見人の不始末だ。新しい後見人に変えればいいだけだ」
少しだけほっとした。一番守りたいものは守ることができそうだ。
「でも君の父親は別だ。彼が今の犯罪の温床を作ってしまったのだから」
「……そうですか」
お父さまのことはやはり無理そうだった。こちらについてはゲインも諦めるようにと言っていた。巻き込まれたわけではない、犯罪を犯しているのだ。お父さまの犯した罪を詳しく教えてもらえないが、温床と言っているぐらいだ。見過ごせないほどの何かがあったのだと思う。
「ただね、こちらの条件を飲んでくれれば罪には問うが命は取らないよ」
「条件?」
不安な言葉に思わず繰り返した。
「異母兄上、僕は婚約解消しませんよ」
「ああ、うん。わかっている。レスターはバネッサの後見人になってもらう」
威嚇したレスターにクラディスは言った。レスターが勢いをそがれて瞬きする。
「僕が後見人に?」
「そう。手っ取り早く結婚してもらう」
そう言ってテーブルに置いてあった箱から書類を取り出した。わたしたち二人の前に書類が置かれる。さっと文字を読めば、婚姻届けだ。しかも承認の署名がすべてそろっていた。わたし達の名前を書き込めば正式に認められる。
「ここに署名をしてほしい」
「今、ですか?」
「嫌ならいいけど」
書類を片付けようとするのを見て、レスターがさっと取り上げた。そして、ペンを取りさらりと署名する。わたしにもさっさと書くようにと渡してきた。まだ条件というものを聞いていないのだが、きっと断れない内容なのだと諦める。
「やってもらいたいことは今準備しているから、落ち着いたら説明する」
嫌な予感がしていたが気が付かないことにした。




