「前回と同じでお願いします」
午後の店内には、穏やかなジャズが流れていた。
外は曇り空。
雨こそ降っていないが、
湿気を含んだ空気が、
街全体をやわらかく包み込んでいる。
扉が開いた。
「いらっしゃいませ」
受付の声に、
一人の女性が軽く手を上げた。
慣れた様子だ。
「こんにちは。
今日は予約してないんだけど……」
「はい。少々お待ちください」
カルテを確認する。
常連のお客様。
担当履歴には、
何度か同じ名前が並んでいた。
——結城学。
受付が顔を上げる。
「本日でしたら、
勝田が担当可能でございます」
女性は少し考えてから、
にこりと笑った。
「じゃあ、お願いしようかしら」
そのやり取りを、
少し離れた場所で
勝田修也は聞いていた。
胸が、どくんと鳴る。
(俺か……)
喉が乾く。
女性が席に案内される。
鏡越しに目が合った。
優しそうな人だ。
だが——
「前回と同じで」
その一言で、
背筋が伸びた。
(前回……)
分かっている。
前回を担当したのは、
結城学だ。
店のナンバーワン。
誰もが認めるカリスマ。
(同じにしなきゃ)
勝田は小さく息を吸った。
「かしこまりました」
はさみを手に取る。
だが——
指先が、少しだけ硬い。
力が入りすぎている。
呼吸も浅い。
(同じにしなきゃ)
そう思うほど、
動きがぎこちなくなる。
そのとき。
鏡の中に、
別の姿が映った。
結城学だった。
腕を組み、
少し離れた場所で立っている。
何も言わない。
助けもしない。
ただ——
見ている。
その視線は、
不思議と重くなかった。
責めるでもなく、
急かすでもない。
(……大丈夫だ)
声は聞こえない。
だが、
そう言われた気がした。
勝田は一度だけ、
ゆっくり息を吐いた。
肩の力が抜ける。
指先の力も、
少しだけほどけた。
はさみを持ち直す。
次の一手。
今度は——
迷いがなかった。
音が変わった。
さっきまでの、
硬く乾いた音ではない。
いつもの、
落ち着いたリズム。
女性は鏡越しに、
静かに目を閉じた。
安心したように。
時間が流れる。
カットが終わり、
ブローに移る。
仕上げの風が、
髪をやわらかく揺らす。
勝田は手を止めた。
鏡を見る。
女性も、
鏡の中の自分を見ていた。
少しの沈黙。
心臓が、
また大きく鳴る。
女性が、ゆっくり口を開いた。
「前回と同じ……じゃないけど」
一瞬、
世界が止まった。
勝田の指先が、
ぴたりと動かなくなる。
そして。
女性は、
ふっと笑った。
「今日の方が、好きかも」
その言葉は、
とても静かだった。
だが、
まっすぐ届いた。
胸の奥に。
勝田は、
思わず深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
女性は立ち上がり、
軽く肩を回した。
「またお願いね、勝田さん」
その一言が、
何よりの評価だった。
女性が帰っていく。
扉が閉まる。
店内に、
静けさが戻る。
勝田は、
まだ少しだけ震えている指を見た。
その手を、
軽く叩く音がした。
振り向く。
結城学が立っていた。
腕を組んだまま。
口元に、
わずかな笑み。
「いいじゃん」
それだけ言って、
背を向ける。
勝田は何も言えず、
ただ深く息を吐いた。
その背中を見送りながら。
自分の指先が、
もう震えていないことに、
ようやく気づいた。




