「お任せでお願いします」
初夏の日差しが、強かった。
まだ梅雨には入っていないが、
空気はすでに重たい。
街のアスファルトは熱を含み、
歩くだけで体力を奪ってくる。
午後の店内には、落ち着いたジャズが流れていた。
扉が開いた。
「すみません」
入ってきた女性は、
少しだけ息を切らしていた。
額に、うっすら汗。
首元を軽く押さえる仕草。
スーツはきちんとしているが、
どこか余裕がない。
キャリアウーマン、という言葉が似合う。
だが今は——
機嫌がいいとは言えない。
一歩間違えば、
小さな不満がそのまま言葉になりそうな、
そんな空気をまとっていた。
「予約していないんですが、
今からお願いできますか」
受付が端末を確認する。
「はい、ご案内可能でございます」
女性は短く頷いた。
「助かります。
少し急いでいて」
その様子を、
少し離れた場所から
勝田修也は見ていた。
胸の奥が、
わずかにざわつく。
(……厳しそうだな)
受付が振り向く。
「勝田、お願いできますか」
「はい」
声は出た。
だが、
喉が少し乾いている。
女性が席に案内される。
鏡越しに目が合った。
鋭い目。
時間に追われている人の目だ。
ケープを広げる。
ふわり、と布が肩を包む。
「本日はありがとうございます」
女性は短く言った。
「お任せで」
その言葉は、
静かだった。
だが——
重かった。
勝田の指先が、
わずかに止まる。
(お任せ……)
一番難しい注文だ。
長さも。
形も。
印象も。
全部、こちらが決める。
責任も。
全部。
女性は腕時計を見た。
「三十分くらいで終わりますか」
「……はい」
答えた。
だが、
自信はなかった。
はさみを持つ。
手が、
ほんの少しだけ硬い。
呼吸が浅い。
(どう切る……)
考える。
考えるほど、
動けなくなる。
そのとき。
「代わるよ」
低い声だった。
振り向く。
結城学が立っていた。
いつもの表情。
落ち着いた目。
勝田は一瞬、
言葉を失う。
「……お願いします」
小さく頭を下げた。
結城は、
何も言わなかった。
ただ自然な動きで、
椅子の後ろに立つ。
はさみを持つ。
その瞬間。
空気が変わった。
迷いがない。
速い。
だが——
粗くない。
正確。
無駄がない。
女性の髪の流れを
一瞬見ただけで、
答えを出している。
はさみの音が、
小さく響く。
乾いた音。
一定のリズム。
速い。
だが、
急いでいない。
数分。
気づけば、
形ができていた。
ブロー。
仕上げ。
最後の風が、
髪をやわらかく揺らす。
結城は手を止めた。
鏡を見る。
女性も、
鏡の中の自分を見ていた。
沈黙。
そして。
女性の口元が、
ゆっくりと緩んだ。
「……さすがですね」
声の温度が、
さっきとは違う。
腕時計を見る。
「時間、余りました」
小さく笑った。
その表情には、
もう焦りはなかった。
そこに立っていたのは、
仕事に戻る前に、
ほんの少し整えられた
軽やかな一人の女性だった。
「ありがとうございました」
そう言って、
店を出ていく。
扉が閉まる。
静けさ。
勝田は、
しばらく動けなかった。
胸の奥が、
重い。
悔しさ。
情けなさ。
そして——
尊敬。
(俺には……)
言葉が出ない。
(まだ、そこまでは出来ない……)
結城は何も言わず、
はさみをケースに戻した。
そして、
そのまま
バックヤードへ入っていった。
扉が閉まる。
勝田は、
はっと我に返る。
(今の……)
聞きたい。
どう判断したのか。
何を見たのか。
足が動く。
バックヤードへ向かう。
扉を開ける。
——誰もいない。
静かだ。
姿が、ない。
勝田は、
しばらく立ち尽くした。
そのとき。
「お待たせしました」
柔らかい声が聞こえた。
振り向く。
隣の席。
そこには——
吉岡ユメナがいた。
新しい客に、
ケープを広げている。
自然な動き。
穏やかな笑顔。
勝田は目を瞬かせた。
(……あれ?)
思わず立ち止まる。
(ユメナさん……?)
今日、入っていたのか。
さっきまで、
結城がいた。
確かにいた。
バックヤードに入った。
そのはずだ。
勝田は、
しばらくその姿を見ていた。
ふと、
思う。
(そういえば……)
結城学と。
吉岡ユメナ。
二人が並んでいるところ。
一緒に話しているところ。
——見たことがない。
一度も。
店内には、
いつものジャズが流れている。
何も変わらない。
いつも通り。
だが。
胸の奥に、
小さな疑問が残る。
この店には、
まだ知らないことがある。




