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愛は欲望

自称保護者の鈴村すずむらまどかにどう報告するか、柄にもなくうじうじと悩んでいた。もう一度依頼人の門倉亜美かどくらあみに会うべきか、私の仕事はここまでと書類と送るか、それとも直接謝罪するか…。空に浮かぶ秋の雲が私を見下ろして嘲笑っている。

電話が鳴った。鈴村まどかから。

「はい」私はボールを彼女に預けようと、抑えた口調で電話に出た。

「ねえ、今事務所にいる?」

「うん」

「一人?」

「ええ」

「そこで一緒にランチしない? テイクアウトするから」

この調子ではまだ妹から連絡がないのだろう。顛末は私から直接話すしかない。

「ごめんなさい、今回は失敗したみたい…」私は言った。

「どうしたのよ?」彼女は半分笑いながら訊く。

「どうしたのって? 妹さんの件よ」

「妹? 私妹の話したことある?」

「門倉亜美さんって妹でしょう?」

「そう」彼女は少し黙り込み、そして相変わらず笑いを含んだ声で訊いた。「もしかして、冬春夏子ふゆはるなつこに何かを依頼した?」

「ええ、未成年だからあなたの同意書持ってきた」

「私文書偽造」

「そうなるわね」

「呆れた、…冬春夏子は騙されるんだ?」

「面目ない、私、妹さんを危険な目に合わせているかもしれない」

「それでさっき謝ろうとしたの?」

「そう」

「話聞けるの楽しみだわ」

「笑えない話よ」

「笑えない話なんてないわ、冬春夏子の笑えない話で周りがどれだけ笑ったか知ってる?」」

「もちろん」

「じゃあ、買い物済ませてすぐに行くわね」


失敗した。

ああ、すべてが情けない。机の上で頭を抱えた。

女子高生の説得に失敗するどころか、その前にすでに私は彼女に騙されていた。同意書の偽造。探偵として真っ先に疑わなければいけないことなのに…。なぜ、確認しなかったのだろう。

そう…、電話だ、数日前に鈴村まどかが私に電話をしてきた。その線で妹の門倉亜美が私の前に現れたものだと勝手に思い込んでいた。

じゃあ、私の生存確認だと言ったあの電話は何だったの?

もしかして、まどかは私をかつごうとしている? 妹の説得に失敗した私を笑いにきたわけ? 

私は脳の回路を遮断するため、ため息をついた。天井を見上げしばらくぼっとしようと決めた。

インターホンの音でもう一度回路が繋がった。15分経っている。カメラの向こうでテイクアウトの袋を持った鈴村まどかがウインクしている。ドアを開けるとブルーのカットソーに、太いパンツのスーツ。ステラ・マッカートニーの厚底の白のスニーカー。ボッテガ・ベネタの大きめのバッグを肩にかけている。

「いらっしゃいませ」

「わあ、探偵事務所なんて始めてきたわ、本当にあるんだ?」

「職場よ、私の」

「知ってる」彼女は平然と答える。

「ねえ、この前電話してきたのはなぜ?」

「これよ」彼女は手にした紙袋を私につきつけた。この近くのカフェのボカディージョ・デ・カラマレスが美味しいって評判なの、どうしても食べたくって、そうしたら冬春夏子のオフィスが近いことを思い出して生存確認の電話したの」

「ボカディージョ・デ・カラマレス?」

「イカのリングフライをパンにはさんだスペイン料理、この硬いパンがいいのよ、私こういう万人受けしない料理が好きなの。アツアツよ。コーヒーとスイーツも買ってきたわ、フラン」

「フラン?」

「プリンのこと、まあいいから作りたてのうち食べてよ」

まどかはつかつかと応接のソファに向かって進み、腰を下ろした。

「へえ、いいソファじゃない」妹とまったく同じ言葉を口にした。テーブルを挟んで私が向かいに座ると、彼女は紙袋の中から白い紙に包まれたバゲットサンドを差し出した。私は手を伸ばして受け取った。温かくていい匂いがする。私は彼女の顔を見た。彼女は右手の掌を裏に向けて「どうぞ」と笑みを浮かべた。

「いただきます」私は一口かじった。「美味しい」私は口に食べ物をいれたまま声をあげた。パンが硬くて噛むのが大変だが、生きているのを実感する。幸せ。

「あごの運動に良さそうでしょう?」

私はまだ口の中のものが噛みきれず、ただ首を上下に振った。まどかは私を見て楽しんでいる。私がやっと最初の一口をのみこむのを待って、まどかが訊いた。「それで?」

「奇妙な視線を感じた、その正体を一緒に探ってほしい、亜美ちゃんからそう依頼されたわ」

「奇妙な視線って、妹がそう言ったの?」

「そう」

「私の同意書まで偽造して?」

「うん」

「それで?」

「正体は義眼の男だった。男といっても女装をしていた。年齢は40くらい。海谷かいや先生という亜美ちゃんの友人の竹内園美たけうちそのみちゃんが通っている予備校の先生。海谷先生を連行してここで話を聞いた。亜美ちゃんと園美ちゃんも一緒に。全部録音したわ。9割がた先生の独白。その後何が起きたかは聞いて貰えればわかるわ」

私はテーブルの上にボイスレコーダーを置いて再生ボタンを押した。鈴村まどかははじめのうちは神妙な面持ちで聞いていたが、途中から時折笑みを浮かべた。

「よかった、だったら、今から書類作るから帰る前にサインをして。サインしてくれないと明日以降も料金が発生するわ」私のこの言葉が録音されたものの最後。私は停止ボタンを押した。

「最後のは冬春夏子の決め台詞?」

「やめてよ、恥ずかしい」顔がカーっと熱くなった気がする。

「それで、冬春夏子はこの海谷先生の話が嘘だと思ってる?」

「少なくとも全部が本当だとは思ってないわ、だから亜美ちゃんにそう言った、でも妄想だとしたらどう? 嘘と妄想は違う、もし海谷先生の話が嘘じゃなかったら、妄想か真実かはどちらでもいいけど、亜美ちゃんはその多海たみという女の代用品になっちゃうじゃない」

「代用品か…」まどかはぼそっと言った。

「ごめん、言葉を選ぶべきだった」私は軽く後悔した。

「謝ることないわよ、私はね、全部嘘じゃないかって思うわ」鈴村まどかは勝ち誇ったように言う。

「全部?」

「かもしれないってこと、先生の話は全部作り話、シナリオを書いたのは妹、そう考えるのが自然だわ」

「どうして?」

「妹には虚言癖があるのよ、まあでもそれは、あの子なりの承認欲求アピールよ、複雑な家庭に育ったから、海谷先生とつきあっていて、その関係を認めさせたかったのよ、その友達と私に」

「つきあってるって…、20歳以上年が違うのに? 東京都には条例があるわ」

「父親不在の家庭で育ったのよ、年上の男にひかれるのは仕方ないと思うわ、誰かを好きになるってそういうことでしょう? 妹も代用品を求めていたならお互い様よ」

「ちょっと待って」そう言って私はスマホを取り出し、YouTubeを見せた。

「亜美ちゃんがずっと見てた、ザ・カーズの Just What I Neededって80年代の曲、これを歌ってる人がミュージシャンで一番カッコいいって言ってたわ、もう亡くなってるらしいけど」

「へえ、聞いたことないけどいい曲」

「だよね?」

「この人と海谷先生似てる?」

「全然」

「ああ、そう…、でも、この曲を聞いてるうちにあの作りを思いついたのかもしれない、あの子」

「奇妙な視線なんて無理があるような気がしたわ…」

「そうかしら? 冬春夏子ならお金に困ってどんな仕事でも受けてくれるって見透かされたんじゃない?」

「私のこと、どう話したのよ?」

「まあ、いいじゃない、でも、奇妙な視線を感じたのは本当かも、私も高校生の頃はものすごく感受性が鋭かったの、人の視線とか感情とか、私に向けられていないものでもビンビン感じちゃう日があった」

「面倒くさくない?」

「すごく面倒くさい! でもそういうのいつの間にか消えちゃった、…私はあの感受性を記録しておけなかったけど、冬春夏子のおかげで妹の感受性が記録されたのならいい思い出にはなるかもしれない、お金を払う価値はあるかも…、それで、…あの子調査費用払ったの?」私がしんみりする間もなく、まどかは突然現実的な話題に切り替える。

「お姉さんに請求してと言われた」私は正直に言った。

「まあ、妹ならやりそうね、いいわよ、いくら?」

「いいの?」

「あたりまえじゃない、冬春夏子にただ働きさせて飢え死にさせたなんて言えないじゃない、考えようによっては妹の身辺調査を冬春夏子に依頼したと思えばいいのよ、いつの日か、妹は骨肉の遺産争いをすることになるかもしれないから」

「呆れた…、やっぱり姉妹ね、亜美ちゃんも同じこと言ってたわ」

「あらそう? あるいは妹とは手を組むかも…、他にも兄弟姉妹が出てくるかもしれないから。妹の情報はアップデートしておいた方がいいわ、さっきの曲のタイトル何だけ?」

「ザ・カーズの Just What I Needed」私が答えると、まどかはスマホに文字を打ち込んだ。そしてプっと笑った。

「どうしたの?」

「その曲、日本語のタイトルがついてる、Just What I Neededを日本語にすると『燃える欲望』だって、言い得て妙ね」

門倉亜美は欲望を満たした。私の欲望は何だろう? 美味しいランチを食べたらどうでもよくなった。安い女だ。

鈴村まどかの満足そうな顔を見ていると、門倉亜美が私に言った言葉が頭の中でよみがえる。―僕に必要なのは君だけなんだ、なんて冬春夏子は言われたことあるかしら?

あるわよ。私は昔のことを思い出す。その言葉に嘘はなかった。なかったのは持続時間。私だけを必要としたのは一瞬だけ。

デザートのフランはガツンと来る甘さが最高だった。私は熱いエスプレッソを二人分入れた。

鈴村まどかは私の請求通りにお金を払い、仕事に戻った。準備していたかのようにまとまった現金を持っていた。もしかしたら虚言癖があるのは彼女の方で、同意書は偽造ではないかもしれないとも思ったが、問いただしたところで口を割りそうにもない。

「心配いらない、すぐに醒めるわ、私もそうだった」彼女は別れ際にそう言った。



数日後、明らかに日の短くなった夕方の表参道を歩いていたら、ポニーテールに眼鏡をかけた制服姿の竹内園美にばったりと会った。恰好は門倉亜美の付き添いで現れた時と変わらないのに、あのときよりも背筋が伸びて視線が高い気がした。

「園美さん、こんにちは」私は声をかけた。

「冬春夏子さん、こんにちは」彼女は丁寧に頭を下げた。

「この前は面倒なことに巻き込んでしまってごめんなさい。もし時間があったら一緒にスイーツでもどう? お詫びとお礼がしたの」

彼女はきっとした表情で私を見て言った。「お礼なら、貴方の記憶から私を消して、それで十分」

「なにそれ?」

竹内園美はニコッと笑った。「これ、記憶天使のセリフです、インスタで時々見かけるんです、記憶天使に会ったっていう投稿」

「記憶天使ってマンガかなにか?」

「いえ、実在するらしいですよ、いやな記憶を消してくれる女の人」

「その女の人が記憶天使?」

「はい、『記憶天使に会った』ってインスタにあげた人が、自分の投稿を見返して『こんな投稿した覚えがない』ってもう一度投稿するんです。投稿する人の嫌な記憶は全然消えていない。そこで一般的にはこう言われています。『言われた通り記憶天使に会った記憶を消した人だけ、悪い記憶がちゃんと消えている』」

「へえ、都市伝説みたいなもの?」

「実在するらしいって言ったじゃないですか? もし私が記憶天使なら、私のことを忘れてもらえれば、冬春夏子さんの思い出したくない記憶も消えますよ、では失礼します、約束がありますので」竹内園美はもう一度頭を下げた。

「残念ね、それじゃ」私たちはお互いに背を向けて歩き出した。

もうひとり、食えない女がいたとは…。



―私立探偵 冬春夏子シリーズ「記憶天使」に続く


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