583 特訓の成果を発揮しましょう
マチルダお姉さんが弟くんに告げた「マッサージ特訓令」は、思った以上に本気だったようで……。
それは、勉強会の終わったその日の夜からさっそく始まった。
赤いショートヘアを振り乱しながら、お姉さんが俺に向かってズビシと指を差す。
「アイツの言う『次の日』なんて、永遠に来ないのよ!」
「……おお」
なんという名言……! 語呂も素晴らしい。
俺は思わず唸り、彼女の手を握った。 お互いに残りの手も添え、首脳会談のように堅く手と手を握り合う。
さすが、よくお分かりでいらっしゃる。
「ふ、ふふんっ♪ そうでしょう!」
そう言って胸を張るお姉さんは、ちょっぴり得意げであった。
当然ながら、マッサージというものは一人ではできない……こともないが、それでは練習にならないので協力者が必要である。 俺が実験台になる手もあるが、そうするとアドバイスしにくくなるし。
と、いうことで。
「ごめんねチャロちゃん」
「ひえひえー」
口の中で何かをコロコロしながら、部屋に呼んだチャロちゃんが絨毯の上に腰を下ろす。
元々は俺が彼女にマッサージしてあげる日なんだけど、その時間が取れなさそうだったので、悲しそうにねこ耳をしおれさせた彼女に「アメちゃん」を代わりにあげるからとお願いしたのだ。
無論、俺のお手製である。
「じゃ、リック君はチャロちゃんの後ろにね」
「お、おう……」
冷え冷えどころかポカポカのお風呂上がりでとてもいい匂いがしている上、ヨガ体操のときに着る、可愛らしいパジャマみたいなトレーニングウェアを身につけたチャロちゃん。 その姿に、リック君が顔を赤くしている。
チャロちゃんもマールちゃんもプロのメイドさん。 本来は、オフの日以外でお客様に普段着や部屋着姿を見せることはない。 今だって、オレンジがかったピンクの髪はドライヤーでしっかりと乾かされ整えられていた。
マティさんとは、しばしば夜にリソ君の部屋やリビングなんかでパジャマ姿でお喋りしているけど……そのときは同性の友達としてだからな。 お袋やマールちゃんが一緒にいることも多い。
「チャロちゃん、始めるよ?」
「にゃひ~」
ねこ耳を垂らし、頭がフラフラしているチャロちゃんを見て前に回ってみると、頬は赤く、目は横線になっていた。 白いしっぽもくたりと絨毯に横たわり、たまに思い出したように動かす程度である。
だけど緩んだ口元の中では、アメちゃんをひっきりなしにコロコロさせていた。
ちょっと飴の効果が多めに出ているようだが、まあ問題はなさそうである。
「……チャロさん、眠そうじゃね?」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
女の子座りしているチャロちゃんの頭の上から、リック君が俺に声を掛けてくる。
ミョーに彼の鼻がピクピクしているけど……ま、見なかったことにしてあげよう。 あんまりスーハーしないように。
普段のチャロちゃんだったら、恐らく聞こえてるからな?
ところでオド飴は、直接のマッサージに比べればお手軽な手段のようにも見えるのだが、実はものすごーく効率が悪い。
ニアちゃんを初めとした精霊陣がそろって「イマイチ」と評するこの飴。 同じ理由なのか、その効果もマッサージに比べるとかなり弱い。
何より、可視化するほど凝縮するのはとても疲れるし、消費するオドの量も倍どころかケタが違うのだ。
利点といえば、せいぜい数時間だけど保存が利くということと、ゆっくり舐めて溶かすなら人前でも大丈夫なところ。
あとは――。
『飲み込んだときの、全身を突き抜けるような感覚が堪らないんです!』
という、触手マッサージのときは俺が手加減している部分をリミッターなしで楽しめるところは、やたら評価されている。 困ったことに……我が家における常識と良心の象徴であるアナさんですら、その意見は恥じらいながらも首を縦に振る。
俺としては、あんまりオススメしたくないのだが。
飲み込んだ次の瞬間に「ひうっ!?」と奇声を上げて倒れ、恍惚の表情を浮かべてびっくんびっくんしている姿は――見ていてすんごく不安になるんだよ?
介抱しようとして身体にちょっとでも触れると、余計に悪化するし。
「チャロちゃん? もうちょっと、ゆっくり溶かそうか?」
「にゃひぃ~」
うーむ、ちょっと効きすぎか? 小声で話すのに手を口に添えて近づけると、その手を取られた。 で、なぜか少しニオイをかいでから嬉しそうに頬ずりをし始める。
リクエスト通り、チャロちゃん好みの味つけで甘さ・量共に当社比五〇%UPにしたのだが……。
「んへへへへへ~♪ ふにゃあ~」
「……」
口の中で転がしているアメちゃんが、歯に当たってコロコロと軽い音を立てている。
チャロちゃんは、ちょっぴり原点回帰? していた。
――そんなチャロちゃんを猫だましで我に返させ、とりあえず無事に初日のレッスンが終わらせた翌日。
ジョギングの後に、マッサージ特訓の被験者を探したところ。
「んー。 帰ってきてからだったらいいけど……変なことしたらイヤよ?」
「し、しねえよっ!?」
もじもじしながらイタズラっぽい笑みを浮かべるエルネちゃんに、りっくんが慌てて両手を振って否定している。 しかし、エルネちゃんは俺と幼児園へ行く日なのでパスだ。
それに、朝いちばんに武術四級の正式な合格通知が来たので、ついでに帰るときに役所へ寄って資格の更新をしてくるつもりだしな。
ところで、すれ違ったときにエルネちゃんが「ついでに届け出、出しちゃおうか?」って俺の耳元でささやいてきたんだけど……何の届け出ですか。
リビングのドアの前で振り返りウィンクをするエルネちゃんを見ていると、横から鋭い声が聞こえてきた。
「む、無理っ! 無理無理無理無理っ!」
「……」
エミーちゃんがものすごい勢いで真っ赤になった顔を横に振りながら、イエスでもノーでもない返事で断っていた。 リック君、まだ何も言ってなかったと思うんだけど……先手を打たれたらしい。
彼はかなり凹んでいたが、エミーちゃんはくすぐったがりだからな。 俺も彼女にお願いするつもりはなかった。
「そ、そうなんだ……」
「うん」
俺がそう言うと、エミーちゃんはすごくほっとした顔をした。
ということで、次の被験者探し。
「ニアもちょっと忙しいからー」
「いや、頼まねえし」
今度はリック君の方からノーが出る。
我が娘は精霊ネットワークで知り合ったネッ友経由で、ヒミングレアから来た精霊のヒトを紹介してもらって一緒に遊ぶ約束をしているのでダメなのだ。
俺も昨日の内に幼児園へ一緒に行こうと誘ったんだけど、申し訳なさそうに断られた。
「ええーっ!? りっくん、ひどいよー!」
「いや、小さすぎて練習になんねえだろ……」
可愛らしくほっぺを膨らませるニアちゃんに、彼がもっともな理由を告げる。
俺はときどき指先で全身をくりくり、またはこちょこちょしてあげるんだけどな。 けっこう喜ぶのだ。
「それじゃあ~、おばさんがひと肌――」
「仕方ないわ……リック、あたしが付き合ったげる」
次に、のんびりとお茶を飲んでいたお袋が立ち上がりかけたところで、エプロンを着けたマティお姉さんがそれをさえぎった。
お袋に買ってもらったんだって。
「あら~。 私は構わないわよ~?」
「ダメです! ……コイツ、鼻の下が伸びまくってますから」
「ふごっ!?」
お姉さんがズビシと指を差すと、弟くんは慌てて顔の下半分を両手で隠す。 ……視線はお袋のめろんに釘付けのまま。
キッチンで洗い物をしていたアナさんが苦笑いしていた。 振り返った際、エプロンドレスの上からでも分かるスイカを揺らしながら。
「マティさん、よろしく」
「ええ、任されたわ」
今日はあんまり教えてあげられそうにないけど、昨日の内に最低限のコツは教えてある。 あとはお姉さんに任せておけば大丈夫だろう。
モラル的な意味でもなー。
涼しい風の吹く道をエルネちゃんと手を繋いでやって来た幼児園は、いつもより静かであった。
ドロシー先生に淹れてもらった温かいお茶を飲みながら、受付カウンターの裏にある応接スペースで時間までまったりと過ごす。
もはや誰も、彼女がワインレッドのメイド服を着ていることに違和感を抱かない。 すっと伸びた背筋がキレイで、とてもよく似合っている。
まるでプロみたいですよ、ってほめると少し照れていたこの女性――本職は役者さんである。
「今日は少ないですね」
「あはは……それは仕方ないわよ」
そう応えたのは、立ったまま側に控えるドロシーさんでも、同じ二人掛けのソファーでぴったり隣に座っているエルネちゃんでもなく、対面の席に着いているヴェオラ園長さんであった。
寒いとまでは言わないが暖かいとは到底言えない今日、園長さんは紫のキレイな髪を下ろしていた。
ちなみに、旦那さんは受付カウンターでお仕事中である。
「使節祭が始まったばかりですもの。 みんな、そっちに行っちゃっているのよ」
「なるほどー」
私は昨日行ったけどね、とヴェオラさん。 その爽やかな笑顔の先には――きっと、デートしてきたのだろう。 まだまだ新婚だからなー。
始まってまだまだ三日目、街の各地でいろんなイベントが目白押しなのである。
それに、もともと幼児園はいつ来ても自由なので、日によってけっこう人数に差がある。 特に今朝は、いつもの半分も来ていない感じだ。
「でも、『教室』のみんなは大体いつも通りに来てくれているみたいよ」
「ありがたいですねえ」
お茶の温かい余韻に浸りながらため息混じりに言葉を返すと、園長さんとエルネちゃんが声を揃えて穏やかに笑った。 ドロシーさんも小声で「さすがっす」と、まるでツェリさんみたいなことを呟いている。
……俺、何か変なこと言った?
「それじゃ、みんなのために頑張りましょうかねー」
エルネちゃんに目配せすると、カバンの中から新しい紙の束を出してくれる。 りっくんの相手をしている合間に用意した、テキストの使節祭バージョンである。
いまだに女の子に自分の荷物を持たせるのには多少の抵抗があるが、「それが仕事だから」といった理由があるとノーとは言いがたい。 だからその分、違うところでお返しをすのだ。
役所へ行った帰り、どこか寄り道に誘ってみようか。
陽が傾き、空のほとんどが朱から藍色へと変わった頃。
「くっ……硬てぇ」
ちょっと寒くなった中をエルネちゃんに抱きつかれながら帰ってくると、リック君はリビングで親父の肩を揉んでいた。 寝間着姿である。
ちょうど、俺とエルネちゃんが出るときに入れ違いで帰ってきたんだけど、起きたようだ。
「ははは、悪いな。 流石に疲れてな……」
「いや、オレは男の方が慣れてるから」
「そうか……おおぉ」
イスに座っている親父の肩を、リック君が後ろから拳をえぐり込むようにして揉んでいる。 親父は気持ちよさそうに呻っている。
俺も肩もみはたまにやってあげるんだけど、俺では力が足りないんだよな……ひじかひざを使って、体重をかけないと効かないのだ。
エミーちゃんだったら、指の力でいけるんだけど。
「おじさん、カチカチだよなあ。 この辺とかどうだ?」
「おうっ!? おっほほおおぉ……ッ!」
「……」
気持ちがイイのは結構なのだが……。
緩んだ顔で低い声を裏返して呻っている親父の姿は、視覚及び聴覚の面でいまいちアレであった。
しかし俺はエルネちゃんと顔を見合わせ、小さく笑う。 お袋も隣の席で食前酒を注ぎながら微笑み、リソ君も親父のひざの上で楽しそうにしていた。
「ところでパパ」
「おぉぉ……ん?」
「帰りにね、エルネちゃんとおつまみになりそうなモノを見つけて買ってきたんだけど」
「ねーっ♪」
「な、なに?」
「あらまあ~」
「おちゅまいー?」
泊まり込みのお勤め、お疲れ様でした。




