570 おねーちゃん、初対面
小雨は止んだものの外は赤くならず、ただ暗くなっていく。
「あー! もう死ぬうー……」
リック君は鉛筆を半ば放り投げると、そのまま後ろに倒れて絨毯に寝転んだ。 窓の向こうには夕陽は見えないが、代わりに小さな勉強用テーブルの下へと沈んでいく彼を見届ける。 ……全然、代わりになってないな。
俺も静かにペンを置き、ため息をついた。
「はぁ……まあ、今日はこのくらいにしておこうか」
「やった……ぜ」
地平線の下から、そんな声が聞こえた。
かすれた声は、最後まで勇敢に戦い抜いた戦士のようだが――結果としては負け戦である。
弟くんを足裏マッサージで覚醒させたところまでは良かったが、その後にやってきたお姉さんの肩もみをしながらの雑談で盛り上がりつつ、二人で勉強を見た。
当然ながらそれでは勉強はあまり進まず、しぶしぶお姉さんが帰ってから本格的に進めようとしたけど。
思った以上に、彼は、その――。
アレだった。
なまじ一度留年して既にひと通りを習っているだけに、解っているところと解っていないところがムチャクチャだったのだ。
それを確認してはうろ覚えや間違いを正し、そして次に……という繰り返しは、まるでプログラミングのデバッグ作業のようであった。 かといってゼロから説明すると「んなの知ってるよ!」って言われるし……。
まあ、年下に教わるのがムカつくのは分かるけどさあー。
結局はリック君の持ってきた、実は俺の書いた算数の参考書の続きを読ませてちょっとだけ先に進み、それでお開きとなったのである。
……ぶっちゃけ、俺もかなり疲れたよ。
「はい、飲みなよ」
「おぉ」
途中でマチルダ――マティお姉さんが持ってきてくれたお茶をコップに注ぎ、テーブルを回って大文字と化した彼に渡す。 こぼすなよー。
ちなみにお姉さんは俺の肩もみで元気が出たようで、部屋を出てからメイドちゃんズの晩ご飯の支度を手伝っているらしい。
じっとしていると逆に落ち着かないって笑ってたが……働き者だなぁ。
「あーあ。 学校の勉強も、この本くらい面白かったらもうちょっとやるんだけどなー」
「……努力するよ」
「は?」
そう言ってくれるのは嬉しいが、あいにくと第二弾の社会も現在執筆中なのだ。 彼の進級試験には間に合わない。
それに、学校の先生だって大変なんだぞ? 初学校では一週間の中で行う授業内容はどのクラスもほとんど一緒で、それは他のクラスの子が予習や復習に来たり、または病気などで休んでしまったときに他のクラスへ行って補習を受けることができるようにするためだ。
逆に言えば、先生は限られた時間内で決められたところまで授業を進めないといけないワケで……。
「それがすっごく大変なんだよー!」と、シャルちゃん先生がクラスの子達を相手にぶっちゃけていた。
「まあ、ココなら仕事の手伝いがないんだから、代わりに勉強を頑張ろうよ。
リック君だって、大人になってから返すお金は少ない方がいいでしょ?」
「そうだけどさぁ」
この国の制度では、自分の学費は成人後に自分で国に返さなくちゃいけない。 つまり、いきなり借金スタートなのである。
俺は現在進行形で払ってるから問題ないけど。
「でもそんなの、働けばなんとかなるだろ?」
「まあ、たぶんね」
彼みたいに家が自営業だったりすると、手伝いからの延長で将来もそのまま家業を継ぐ場合が多いらしいからなぁ。 となれば進路はエスカレーター式に決まっているワケで、両親がそれで生計を立てているのを見て気楽に考えていても仕方がない。
いざ実際に継いでから初めて、両親の苦労を身をもって知ることになるんだろうけどさ。
って、俺も偉そうなことを言ってるが……前世で体験した記憶がないから、想像でしかないんだけど。
「あっはっは! ……いつかお前が結婚したら、オレがお前の赤ちゃんのベッドを作ってやるよ」
結婚――か。 それも記憶がないから、いまいちピンと来ないな。 ちなみに子供だったら、既に可愛い一人娘がいるし。
目の中はさすがにムリだけど、腹の中にだったら入れても痛くないぞ。
「いやあ、遠慮しておくよ。 エドガー伯父さんが、僕とセーレちゃん用に作ってくれたのがあるし」
「なにーっ!? オレの作るベッドがいらねえって言うのかっ!」
リック君が起き上がり、ツバを飛ばして叫ぶ。
まるで飲み屋で酒を勧めてくる上司のような言い草に、思わず笑ってしまった。
「あははははっ! だってさ、ベビーベッドが二つあっても困るじゃん」
「い、いや……いるかもしれないだろ」
「ないない」
言葉を詰まらせたリック君に、笑いながら手を横に振る俺。 どんだけ子だくさんになる予定なんだよ。
それ以前に、俺と結婚してくれる相手なんて――。
「あっ、そうだ! お前のベッド、弟にやれよ!」
俺の脳裏に、あの子の笑顔が浮かんだけれど。
「……どうしようかなぁ? だって、思い出のベッドだし~」
「思い出って……。 そりゃ親はそうだろうけど、自分が赤ちゃんの頃なんて覚えないだろ?」
「はっはっはー。 実は覚えてるんだなーコレが」
「いや、あり得ねーよ!?」
――うん、それはあり得ない。 しちゃいけない。
俺も、そう思うよ。
幼児園時代の合宿以来の、歳の近い男の子と過ごす夜は新鮮で楽しかった。
リソ君も交えて三人とはいかなかったものの、二人で風呂に入ってハダカのつき合いもしたし。
「ほーう。 ふうーん」
「り、リック君……あんまり見ないでよ」
「……女かお前は」
風呂上がりに男二人、部屋でまったりするのも楽しかったし。
「なあなあ、このタンスって何が入ってるんだ?」
「セーレちゃんの下着」
「……」
「……見たらぶん殴るよ?」
「こ、怖ぇえな!? んなモン見ねえよ……ん?
なんか、ベッドの下に箱があるぞ? へへへっ。 コレって、もしかして……」
「あっ、違うって! 爆発したら危ないっ」
「爆発って、もうちょっとマシなウソを……何だコレ?」
「魔法陣を描いたお札。 ホントに暴発の危険があるよ?」
「うおああああああっ!?」
最後には、ニアちゃんが俺のお腹の中に飛び込んだのを見たエリック君がビックリする事件もあったりして。
騒がしい一日は、こうして過ぎていったのだった。
――次の日。
外には雲の切れ間に紺色の空が見え、とても清々しい朝だったものの。
「ふぁぁ……眠たい」
夜中に何度も起こされて、俺はちょっと睡眠不足であった。
「お前が抱きついてくるからだろ……ふあぁあぁぁぁあぁ~」
既に着替え終わった俺に目を向け、まだ布団に入ったままのリック君がカバのように大口を開けた。 寝入った俺が彼に何度も抱きついたらしくて、その度に起こされたのだ。
それについては謝ったけど……「キモイ」は酷いよなぁ。 ちょっぴり傷ついたぞ。
なので心の傷を癒すのに、昨夜は我が娘を外に出して抱き合って眠った。 ……身体のサイズが違いすぎるから、ニアちゃんが一方的に俺の顔に貼りつく形となったが。
でも、可愛い我が娘はご機嫌であった。 今も俺の耳を片手で掴み、肩に乗ってくねくねとオシリとスカートを揺らして謎の踊りを踊っている。
「にゅっふふー♪」
「精霊様って確か、寝ないんじゃなかったっけか?」
「ウチの子――じゃない、この子は寝るんだよ」
「ふーん」
うっかり「ウチの子」と言ってしまったが……また大きなあくびをしていたリック君には聞こえなかったのか、サラッと流してくれた。
「しかしお前、ホントに真面目だな」
「そう?」
明かりを点けた部屋の時計は、既に二時の半時を回っていた。 夜明けの鐘はとうに過ぎている。
俺は今から、ジョギングのお時間なのであった。
「じゃあ、リック君はまだ寝てていいからね」
「待てよ」
手を振って靴を履こうとしたら、なぜか彼に呼び止められた。
俺はつま先をとんとんしながら振り返る。
「……オレもつき合ってやっから、待ってろ」
「えっ、でも」
俺が安眠妨害したんだし、これはあくまでも俺の日課だ。 お客さんであるリック君には関係のないことである。
なのに。
「年下のお前がやるのに……オレだけ寝てるワケにゃ、いかねーだろ」
そう言って、赤い短髪をボリボリとかきながら身体を起こすリック君。 横に倒れた鹿耳を震わせて「うおぉ……寒っ」なんて愚痴をこぼしながらも、ベッドから出て部屋の隅へと歩いていく。
彼の持ち物を入れられるほどにはタンスの余裕がないので、着替えは届けられたトランクの中にそのまま入っているのだ。
「……ありがと」
「礼なんていらねーよ」
つっけんどんな返しをしながら、背中を向けて上の服を脱ぎ出すリック君。 ……なかなか、カッコイイじゃないか。
一緒に風呂にも入ったから知っているが、身体にムダな肉は付いていない。 だらしないところもあるが、ちゃんとやるべきことはやっているという証拠だ。
「じゃ、先に下に行ってるから」
『おう』
俺は彼に聞こえないように小さく笑い、背中を向けて部屋を出た。
なぜなら――。
「やっぱり、ママよりもガッチリしてたねー」
「……」
精霊とはいっても女の子なんだから、我が娘にあまり見せていいモノではないのだ。
ちょっとうらやましいとか、思ってないんだからねっ!
「おっはよー」
触手で廊下中の明かりを点けながら階段を下り、リビング兼ダイニングへと入る。 すると、女性陣は既に勢揃いしていた。
俺とニアちゃんに対して、優しい笑顔と爽やかな挨拶を返してくれる。
「おはようジャス君」
「マティさんも早いねー」
「いつもこんな感じだから」
とてもご機嫌そうなマチルダお姉さんが、テーブルに飛び移った我が娘の頭をなでながら微笑んだ。 今も隣に座っているリソ君はすっかりこのお姉ちゃんに懐き、昨夜は一緒にお風呂に入って同じベッドで眠ったのだった。
さて、俺は顔を洗って歯磨きをしないと。 チャロちゃんにシンクを空けてもらい、お立ち台に登る。
ご飯は、ほとんどできているようだな。 フタをした鍋からいい匂いがするけど、食べるのは帰ってからである。
「うふふ~、よかったわね~」
「いひーっ♪」
お袋に頭をなでられ、リソ君が喜ぶ。 でも、もしも懐かないようだったらお袋が親父の寝室で一緒に寝る予定だったから、お袋にすればちょっぴり寂しい結果になったな。
昨夜は親父も夜勤だったし、久しぶりにひとりの夜となったのである。
「すみません、セフィさん」
「いいのよ~」
俺と同じことを思ったらしいマティさんが軽く頭を下げたが、お袋はふんわりと笑みを浮かべた。
……だが、そこでなぜかお袋は立ち上がり、いつもの席に座ろうとしていた俺の方へと近づいてくる。 お茶を淹れに来たマールちゃんも首を傾げてた。
「その代わりに、ジャスちゃんをぎゅ~ってするから~♪」
「もごぅ!?」
俺の目前でわずかに腰を曲げたお袋に、いきなり抱きしめられた!
え、エアバッグが! エアバッグが作動している……って、いつもか。
「んふぉ、おむぅ……」
『ああんっ♪』
すっかり慣れている俺は、すぐさま息のできるポジションを確保するべく顔の位置を調整する。 ここでのポイントは、多少お袋が悩ましい声を出したとしても遠慮しないことである。
でないと、本当に窒息するからな……。
くねくねするお袋に俺の方からも抱きつき、ガッチリと顔のポジションを固定して安息の地を得る。
「ふぅ」
『はぁぁ~ん……』
『せ、セフィさん、色っぽいです……』
挟まれて聞こえにくい耳に、マティさんの声がかすかに入ってきた。 それで、俺がお姉さんのほぼ目の前で抱きつかれたんだよな……ちょっと恥ずかしいぞ。
だがお袋はまったく気にしていないようで、結局は着替え終わったリック君が来る直前まで放してもらえなかった。
「お前、なんか顔赤くないか? 姉ちゃんも」
「……ちょっとね」「き、気にしないで」
俺が赤いのはあくまでも、お袋の体温のせいであります。 目線を外して横を向くと、お茶を淹れてくれたマールちゃんがすぐ側に立っていた。
ってゆーか近すぎる!
「おっと……どうかしたの?」
とっさに頭を引く俺。
紺と白のエプロンドレスの上からでは分かりにくいが、意外と実り豊かなアレに鼻の先が埋まりかけて、ちょっとビックリした。
「い、いえ。 お代わりはいかがかと思いまして……」
「いや、まだ飲んでないから」
「……そうですか」
なぜか残念そうな顔をされてしまったので、俺はカップに注いでもらったばかりのカップに口をつけ、一気に飲み干した。 中身はヤケドするほどは熱くなく、しかし身体の芯まで暖かくなる適度な温度。
じんわりと身体の中に広がっていく温もりに、肩の力が抜ける。
「ほっ……おかわり」
「は、はいっ♪」
するとマールちゃんは嬉しそうな顔になって、再びポットを傾けてくれる。 よく分からないが、笑顔になってくれてよかった。
そうしている間に、リック君が驚異的な速さで洗顔と歯磨きを終わらせてテーブルに着いた。 当然、ちゃんとやっていないことは明らかだ。
弟くんを見て、お姉さんが「いっつもいっつもあんたは……」とため息をついている。 しかし彼が顔を出したときには驚いた表情をしていたので、それ以上の追求はなかった。
早起きと相殺しておとがめナシ、といったところかな?
「ところでジャス君、これから近所を走るって聞いたんだけど」
「うん、最近始めたんだよ」
「そうなんだ。 えらいねー」
テーブルの向こうでほっとしている弟くんから視線を外し、お姉さんが俺に向かってにこやかに話しかけてくる。
ところで、俺がジョギングをするようになってから、こうして外に出る前に軽く一服するのが習慣になった。 ついでにトイレもな。
いつもなら、その間にお袋がマイブラザーと一緒に来るのを待つんだけど、今日はリソ君と一緒じゃなかったので早かったのである。
「もしよかったら、あたしも一緒にいい?」
「えっ? うん、もちろん」
嬉しい申し出に、俺は驚きながらも即答する。
「ほら、昨日は雨のせいで外に出れなかったじゃない? だから、ね」
「ああ、なるほどー」
本当だったら、昨日の内にご近所を軽く案内しようかって話をしてたもんな……お袋達と。
マティさんもそのように聞いていたんだろうけど、残念ながら雨が降ったし。
……そこで、テーブルの上でリソ君とちょっと遊んでいたニアちゃんに視線が集まる。 事情を知らない姉弟が「なに?」と首を傾げているが、もちろん今日のお天気を聞くためである。
すぐに気づいた我が娘が手遊びをやめ、少しリソ君から離れて俺達をぐるりと見回す。
「ああーっ、にあーっ!」
弟様よ。 今、ニアちゃんを捕まえて食べようとしたでしょ?
両手を伸ばすリソ君をお袋がなだめたところで、捕食の難を逃れた我が娘が受信した予報を教えてくれる。
「えっとねー。 『じぇんしぇんが押し上げられて、今日からしばらくは晴れ間が広がりましゅー』って言ってたー」
『……じぇんしぇん?』
ともするとエルフのようにも見えなくもない、長い耳を上下させる姉と弟。 性格は全然違うけど、ふとしたところでやっぱり似てるよなー。
ところで、今日の予報はいつものお姉さんではないようだ。
実は予報してくれる精霊さんは複数いて、週に一、二回くらいは別のヒトになる。 今日はお姉さんよりも予報士歴の長い、かなり有名なおじいさん精霊のようだ。
口調が独特で、聞いていてすごく和むんだよなぁ。
「だったら大丈夫ね~」
ずいぶん明るくなったきた窓の外を見ながら、お袋が柔らかく手を合わせた。 メイドちゃんズも「今日はお洗濯ができますねー」と喜んでいる。
だが鹿さん姉弟はまだ頭の上にハテナを浮かべているので、俺から説明することにした。
「今日の天気予報だよ。 要するに、今日は晴れるって」
「あ……ああーっ!」
少し間が開いて、お姉さんの方が驚き気味の納得顔で何度もうなずいた。
いわゆる「精霊ネットワーク」については学校でも教えられていて、常に飛び交っている情報の一部は人間社会にも流されている。 天気予報はその際たるもので、駅に行けば列車の運行状況、少し大きな保安隊の詰め所に行けば主要な通りの交通情報なんかも聞けたりする。
他にも、衛星都市で起こった事件や事故などのニュースも流れてくるので情報の鮮度も高い。 ……情報量があまりに多いから、新聞の方が便利なんだけどな。
俺も、初めて知ったときにはア然としたよ。
「み、御使い様って、スゴイんだね……」
「きゅふーん♪」「いや……」
マティさんが畏敬の視線をニアちゃんと俺に向けてくるけれど、偉いのは間違いなく我が娘の方である。 ニアちゃんという「チューナー」がなければ、無数に飛び交う中から必要な情報だけを拾うことなんて到底不可能だ。
しかもこの娘は、更に上位のネットワークにアクセスできる権限も――おおっと、コイツは極秘事項だった。
「軍の機密からマリエルの寝言まで何でも聞ける」そうだが、無論そんなモノを我が娘に聞かせるつもりはない。
俺だって興味は……ないよ?
軽く咳払いをし、俺は新しい話題を振ろうとした。
「ところで、そろそろ――」
「あっ」「ん?」
その途中、チャロちゃんとリック君がほぼ同時にそれぞれのねこ耳と鹿耳をぴくりと動かし、声を上げた。 お姉さんも声は出さなかったが、耳は動いている。
どうやら来たらしいな。
やがてドアの向こうから、軽やかな靴音が俺の耳にも聞こえてきた。
お袋以外にも、最近は俺のジョギングにつき合ってくれる子が増えたからな。 その娘を待っていたのだ。
「は~い」
いつもなら勢いよく入ってくるんだけど、お客様のいる今日はゆっくり歩いてきてノックをした。
お袋が返事をすると、ドアの向こうから現れたのは。
「失礼します。 お客様方、ようこそオリオール家に」
赤い色彩が鮮烈な、大人らしさと少女らしさを併せ持つ女の子――エルネちゃんである。
彼女は真面目な面持ちで、礼儀正しいお辞儀を見せた後。
「……なーんて、ねっ♪」
一転、舌の先を見せて可愛らしく笑ったのだった。




