538 似ているようで、違うようで
半日以上を費やして空を覆った灰色の雲が、夜の帳の降りた街にやがて滴を落とし始めた。
どこかで誰かが、ひとり静かに泣いているかのような雨。
「……じゃ、なければいいんだけどな」
走らせていた鉛筆を止め、俺は外を見ながらため息を――。
「何が、かしら~?」
明かりの灯る、さっそく暖炉に魔力を込めて暖かくなっている部屋の中で、背後から俺に声をかけてくれる人がいる。 それはささやかながら、とても幸せなことなんだと思う。
適当につけるテレビも流す音楽もないこの世界では、とりわけ秋の夜長は物思いに耽りやすい。
ため息をつくために吸い込んだ息を深呼吸に変えることにし、俺は振り返って先にベッドで小さなリソ君を寝かしつけているお袋に言葉を返す……。
「ううん、何でも――」
長い長い髪を解いたお袋が、優しく無邪気な微笑みを浮かべて小首を傾げていた。
「ん~?」
トップレスで。
「……」
もちろんすぐに振り返るのをやめる。 衣擦れの音も聞こえなかったが、いつの間に……。
吐き出した空気は、深いため息となった。
「うふふふふ~。 気にすることないのに~」
「気にします」
お袋がいてくれるおかげで、寂しさが温かく溶けていくのはありがたいのだが。
グラビアアイドルが見たら泣きながらどこかに走り去っていきそうな、美術的かつセクシャルなお姿はどうにかならないものでせうか?
いくら胸から下が布団に隠れていても、このヴィーナス様はどこの美術館も一般公開しかねるぞ。
……無論、公開なんてさせないけどさ。
「ジャスちゃんも、赤ちゃんのときは毎日ママのおっぱいを飲んでいたのよ~?」
「知ってます」
覚えてます、と口を開きかけて慌てて訂正をする俺。 後ろを向いていてよかった……。
にしても、マイブラザーは偉大である。 上を向こうが横になろうがまったく形状を崩さず、たとえニュートンに真っ向からケンカを売っても易々と撃破可能なにゅートン様に、真っ正面から顔をうずめてもなおフツーに安眠しているのだから。
お袋の困ったクセにはほとほと困らされているのだが、しかし寝るときくらいは外さないと窮屈だったりかゆくなったりしていろいろと辛いらしくて、そう言われてしまうと俺も断固ノーとは言えないのである。
この世界では出産も育児も経験している俺だけど、さすがにその悩みだけは共有できないからな。
ちなみにそんな俺がお腹を痛めて産んだ子は、既に俺の中に戻ってきてすやすやとお休み中である。
「うふふ……寂しいのかしら?」
「……チャロちゃんがいないから、ね」
「そうね~」
バレバレなのは先刻承知であっても、決して口には出さん。 そのくらいの意地はある。
そしてム――じゃない、懐の深いこの女性は、白き聖域を見ないよう気をつけながら振り返った俺に優しく微笑みかけてくれるのだ。
「チャロちゃん、大丈夫かな」
セーレちゃんを送るために一緒に付いて行ったチャロちゃんは、予定ならば今夜の内に着いて馬車タクシーで帰ってくるハズである。 雨はそれが遅れるほどに降っているわけではないけれど、やっぱり気にはなるというもの。
ほわ~んとした癒し系ボイスの妹様に加え、キンキンとよく響くあの娘の明るく高い声が聞こえないとこの家もかなり静かだ。 寂しくないかと言われれば、寂しいさ。
ふとしたときにあの娘の名前を呼びそうになって、「ああ、そういえばいないんだっけ」と思い出して苦笑いするくらいには。
「うふふ~。 帰ってくるのは夜中になるはずだから、お出迎えはだめよ~?」
「うん、分かってるよー」
チラリと壁に掛かっている時計を見て、今日はこのくらいにしておこうと勉強道具を片づけ始める。 九時の鐘はとうに鳴り終わり、次に鳴るのは明日の夜明け前だ。
二四時間に直すと、たぶん夜の十時は過ぎているだろう。 さすがに眠くなってきた。
「いらっしゃ~い♪」
白くしなやかな腕を布団から出し、何とも艶めかしい手つきで俺を呼ぶお袋。
俺はゆっくりと息を吐きながらうなずき、川の字の一画となるべく寝床へと向かった。
「おはようございますー!」
まだ小雨の降っている薄暗い翌朝、明かりのついたリビングに行くと待望のキンキン声が出迎えてくれた。
帰りが真夜中になるから、今朝は昼まで寝ていてもよかったハズなのに、チャロちゃんはいつものメイド服に袖を通し、雨雲を吹き飛ばすような笑顔で台所に立っていた。
「おはよう。 それと、おかえり」
「はい、ただいまです♪」
よく見ると少し疲れているような感じではあるけれど、白い耳はピクピクと上下し長いしっぽはゆったりと八の字を描いていた。
親父はリビングテーブルでゆったりと週刊新聞を読みながらくつろぎ、今日がお休みのマールちゃんも私服でお茶を飲みながら「仕方ないんだから、もう」という笑みを見せている。
「ジャス、二人はまだ部屋か?」
「うん」
顔を上げた親父に俺がうなずく。 俺は学校もないし、今日は親父も出勤が遅いようでのんびりとした空気が流れているものの、実は起きた時間自体はいつも通りだったりする。
お袋のキョーレツな「おはよう」で窒息しそうになり、一階に下りてくるのがちょっと遅くなったが。 きゃっきゃと無邪気に喜んでいたリソ君だったけど、実はああ見えて相当にタフなんじゃなかろうか……。
リソ君のお着替えが終わりお袋は少し部屋を片づけてから来るそうなので、俺だけ先に下りてきた。 ニアちゃんもお袋と一緒だ。
台所を少し借りて洗顔とうがいを済ませるとチャロちゃんがタオルをくれ、席に着くとマールちゃんが立ってお茶を淹れてくれた。 柔らかい笑顔からは「休みだからいいのに、なんて言わないでくださいね?」という思いが伝わってきたので、代わりに俺も笑顔でお礼を言ってお茶を飲む。
間もなくしてお袋達もやってきて、休日らしくのんびりとした朝食が始まった。 ま、親父は仕事なんだけどさ。
今日の話題はもちろん、チャロちゃんのお土産話である。
「セーレさま、とっても頑張っていらっしゃいましたよ」
「……そっか」
万が一のときには連れ帰ってもいいと言ってあったから、チャロちゃんが一人で帰ってきたことそのものが何よりの証拠でもある。
「……」
話が途切れ、食事中の食器が立てる音だけが部屋に響く。 ちぎってスープにつけたパンを食べて飲み込むと、みんなの視線が俺に集まっていた。
急に静かになってリソ君は首をひねり、我が娘は大きな目を何度も瞬きさせている。
それでも黙ってみんなの顔を見つめ返していると、親父が短く息を吐いた。
「フッ。 だったら良いさ」
お袋もリソ君に気を配りながら微笑み、メイドちゃんズも同じような笑みを見せた。
「そうね~」
「はい」「ですねー」
再び、行儀が悪くない程度にお喋りが始まる。
チャロちゃんはたった一日の里帰りを満喫したようで、孤児院だけでなく、ローザさんの家やクラお姉さんの食堂、他にもいろんなところを歩いて回ったようだった。
俺を含めたちびっ子三人組を除けばこの場の全員がセスルーム出身なわけで、俺のよく分からないローカルな話題で食卓が盛り上がる。
でも、聞いているだけでも楽しいので気にはならない。
《ありゃ? 聞かなくていいのー?》
静かに耳を傾けながらスープを飲んでいると、ニアちゃんからテレパシーで話しかけられた。 いったい何を、なんて聞き返さずとも言いたいことは解る。
声に出さないあたり、わざわざ気を使ってくれているらしい。 ちなみに「セーレたん一一〇番」はこの子を通じて行われるから、その気になれば彼女の状態をリアルタイムに調べることも不可能ではない。
だけど。
《うん、いいんだよ。 信じてるからね》
普段から天才だ天才だともてはやしている俺が言うのもなんだが、あの子の最大の武器は、努力を努力だと思わないまま楽しみながら積み上げていけるところだと思っている。
俺がそのように導いたとはいえ、言葉を話すのも立って歩くのも、彼女は成長して自然に覚えたのではなく毎日の努力によって身につけた。 ゲームに例えるなら、経験値稼ぎをまったく苦にしないのだ。
努力を楽しめてしまう才能――これこそが、彼女の最大の武器であると思っている。
《ほへーっ》
しっかりと声を使うようになった我が娘が、感嘆混じりのため息と共にテレパシーを送ってくる。
そういう意味では、我が娘も同じ才能を持っているような気がするんだけど。
優秀なのは身内としては嬉しいんだけど、ついていく方としてはたまらんなぁ……。
「っせーのーでっ」
朝食が終わった頃にアナさんが出勤し、一緒にやってきたエミーちゃんといっしょにテーブルを持ち上げる。
もちろんリビングテーブルなどではなく、俺の部屋にある予備のテーブルである。 大人だったらチャロちゃんでも一人で持てる程度の重さしかないものだが、小さな子供が持つにはちょっとばかり大きいので俺が手伝っているのだ。
部屋の隅っこに立てかけてあるテーブルをひょいっと軽く持ち上げ、いつもの俺が使っている小さなテーブルにくっつける。 それから、適当に教材や筆記道具を出しておけば準備完了。
「ふぅ。 後は待つだけだね」
「そうね」
赤と黒の、どこかで見覚えのある服を着ているエミーちゃん。 この子にしては短いスカートを見ていると、恥ずかしそうにスカートの裾を握った。
当然ながら変な意図はないので、軽く謝ってから話しかける。
「ああ、ごめんごめん。 ……その服、エルネちゃんのだよね」
「うん? そうよ」
似合ってるよ、とほめてあげると、エミーちゃんはほんのりと顔を赤くして身をよじった。
「お下がり」というと前世ではあんまりいいニュアンスではないような気がするけど、こっちではリサイクルなどは珍しくないどころか当たり前の話である。
スカートの丈が短い代わりに、恥ずかしがり屋のエミーちゃんは黒のタイツを穿いて露出を減らしていた。 当然ながら、絶対領域なんてものはない。
センスのいいお姉ちゃんが着ていた服は、容姿の似ているこの子にもとてもよく似合っているが……。
「同じ服でも、やっぱり雰囲気は違って見えるなあ」
そういえば……初めて会ったときのエルネちゃんって、今の俺達よりもひとつ年下だったんだよな。
身の回りにある何もかもが大きくて、見上げていてばっかりだったあの頃。 今でも見上げなきゃいけないものはいっぱいあるけど、それでも成長したよなーと感慨深い気持ちになる。
おませだったお姉ちゃんに比べると、エミーちゃんは逆に年齢以上に落ち着いて見える。
もちろんそれがいい・悪いというワケでは決してなく……要するに、二人とも可愛いねと言いたいだけなのだ。
「う、ぅぅぅ……」
「……あ」
俺がじーっと見ていたもんだから、エミーちゃんは恥ずかしいのに隠すことも逃げることもできず、ひたすら顔を真っ赤にして震えながら上目遣いに俺の様子を窺っていたようだ。 黒に近い瞳がうるうるしていた。
まだまだ六歳とはいえ、男とは違って多くの女の子は既にレディとしての自覚を持っているのだ。 いくら親しくても、失礼だよな。
「ごめんね。 可愛かったものだからつい」
「はあうっ!?」
イヤらしくならないように爽やかな笑みを意識しながら謝ると、エミーちゃんは途端に目を丸くし、真っ赤になった顔を両手で覆ってその場に座り込んでしまった。
あれ……フォローのつもりが、逆にトドメになっちゃった?
運んだばかりのテーブルに突っ伏して、か細い声を漏らしながら小刻みに頭を左右に振っている。
「あ」
とっさに近寄って肩を叩こうとしたが、それこそトドメになりそうだと思い直して伸ばしかけた手を止める。
エミーちゃんは震えながら何やらブツブツと呟いているようだが、これも聞いちゃいけない類のものだろう。
うーん、レディへの接し方は難しい……。
ようやくエミーちゃんが顔を上げ、持ってきてあげたお茶を一気飲みして落ち着いた頃、チャロちゃんが来客を知らせに部屋へ来た。
これが幼馴染みーズならそのまま上がってもらってもいいのだが、今回は初めての「秋期講習」で珍しいお客さんなので出迎えに行く。 姿見で何度も自分の姿を確認したエミーちゃんも俺に続いた。
「いらっしゃーい……お?」
玄関に着くと、なんと今回のお客さん全員がそろっていた。 バラバラに来たハズなのに、偶然だな。
だけど開始時間のおおよそは伝えていたので、このメンバーだったら時間ピッタリに来てくれるのも考えてみればうなずける。
「おはよう。 ……ちょうどそこで会ったから、一緒に来たのよ」
「なるほど」
カッパを脱ぎ、三つ編みにした濃いめの金髪を露わにしたのはニャル子ちゃんである。
チャロちゃんにカッパを預かると言われ、恐縮した様子でぺこりと頭を下げ「ありがとうございます」と言って手渡した。 ちゃんと干しておかないとダメだからね。
「そういえば、一昨日来てくれたんだってね。 いなくてゴメン」
「あたしの方が勝手に来たんだもん、仕方ないわよ。 用事だったんでしょ?」
「まあね」
チャロちゃんが玄関に用意してあった布でカッパを拭いてから干そうとしているのを横目に、ちょっぴり固くなっているニャル子ちゃんと言葉を交わす。
着ている服も、なんとなくよそ行きっぽい感じがする。 派手さのない、温かそうな服だ。
「えっと……上がって?」
ふっと思い浮かんだほめ言葉を口にしようとして……やめることにする。 この子の場合、ほめると逆に怒られそうな気がするし。
「念のため、キッチンで手洗いとうがいをお願いするね。 ウチ、小さい子がいるから」
「分かってるわ」
カッパを干し終わったチャロちゃんが、ニャル子ちゃんを廊下の奥へと案内する。 リソ君は部屋でお袋と遊んでいるけど、言ったように念のためだ。
本当はニアちゃんに相手してもらおうと思ったんだけど、どうやらネッ友からお誘いがあったようで遊びに行った。 精霊に小雨なんて関係ないもんな。
「……今日はよろしく頼む」
けっこう高そうな灰色の傘を持っていたのは、白い髪をセンター分けにしているメガネ君こと、ラート氏である。
勉強に来たからなのか、制服系というかフォーマルっぽい上下を着ている。 相変わらずお堅い子である。
「うん、こちらこそ」
「……」
「……」
特に話題がない……。
ニャルちゃんとは違って、この子とはほとんど接点がないからなぁ。
「げ、元気?」
「健康だ」
「……」
……とりあえず、上がってもらおう。
俺の知っている限り、この子って「前置きなどいらん、結論だけを端的に言え」ってタイプだし。
先に行ったチャロちゃんの代わりにエミーちゃんが案内しようとするが「結構」と手のひらで制し、傘だけどうすればいいのかを聞くとエミーちゃんに預けてまっすぐ廊下を歩いていった。
さて、ここからが問題である。
「ふふっ。 今日はよろしくお願いするわね……先生?」
たたんだ黒い傘と黒い肩掛けカバンを持ち、薄い黒のコートを着た長い黒髪のお姉さん。 対照的に白い顔の肌色と、艶やかな朱みを帯びた唇の色が映える。
いつもながら、背中がゾクッとするようなミステリアスな雰囲気を持つお姉様である。
「い、いらっしゃい、マーヤさん」
「思ったよりも元気そうね。 安心したわ」
「おかげさまで……」
用意してある布でラート君の傘を丁寧に拭いているエミーちゃんを横目に、マーヤさんと会話する。
いやまあ、このお姉さんだけならまだいいんだ。
問題は――。
「ふふふー」
「……ど、どうも」
その後ろにたたずむ、これまた黒ずくめのお姉さんなのだよ。
マーヤさんがうら若き未亡人っぽいとするならば、この人はさしずめ亡霊である。
「ふふふー。 今年の秋は、早いわね……」
「そ、そうですね」
ただの天気の話なのに、どうしてこれほどまでに背中がゾクゾクするのか。
「風邪、くれぐれも気をつけるのよ」
「……はい」
だけど、実はこう見えてけっこう優しい人なんだよな。
「半ズボン、穿けなくなるから」
「……」
お姉さんの視線が俺の下半身へと向き、俺はものすごーくゾクゾクとした。
永遠のショタっ子とも言えるアーンさんの奥さんであり、マーヤさんのお母さんでもある……エリカさんである。
「ど、どちらにしても、穿きませんので」
勇気を出して、そう答えると。
「……とても残念だわ」
ショタお姉さんは、しょんぼりと肩を落とした。
「……」
ちょっとだけ、胸がきゅんとした。




