519 風邪引きも悪くない?
日射しの柔らかい朝。
ふと窓を見ると、そばにある桜の葉がわずかに色づき始めていることに気がついた。
「ごほっ、ごほっ。 ああ、あの葉っぱがずべて散ったどぎ――」
「散ったとき、なに?」
ベッドに横たわり適当なこと呟いていると、拭き掃除をしていたエミーちゃんが可愛らしく小首をかしげて俺の顔を見た。 キレイにセットされた長い髪が朝日に輝き、ちょっぴりつり目気味な瞳を今は優しそうに緩めてパチパチと瞬きさせている。
これでマスクをしていなければもっと良かったのだが、病人の俺がここにいるのだから仕方がない。 そのせいで掃き掃除もできないのだから。
当然ながら、俺もマスクをしている。 替えの分も含めて、あのお医者さんがいっぱいくれたらしい。
さすがに有料だとは思うが。
「……いや、別に」
「そう? 何かあったら、いつでも言ってね?」
「う、うん」
そう言ってエミーちゃんは目を細めて微笑み、タンスの拭き掃除を再開する。 暇だからとアホなことを口走った俺と比べ、なんと大人なお姉さんなんだ……。
これも全部、風邪のせいだ。 うん。
少しだけ開けた窓からは涼しい空気が流れ込み、寒いけど肺の中が洗われるような気がする。
思いっきり吸い込むと咳が出るので、比較的浅めの呼吸しかできないのが残念だ。
「でも、よかったわね」
「……ん?」
拭き終わったらしいエミーちゃんが、持ってきたバケツで雑巾を絞りながら話しかけてくれる。
でもこれからの季節、水が冷たくなってくると大変だろうなあ。
「今日、もともと勉強会だったじゃない? でも、るーのお姉さんの誕生日でお休みになったから」
「ああ、たし――ごっほごっほ!」
「あっ、ごめんなさい! 無理に喋らないで」
確かに、と言おうとして急にむせた俺を見て、エミーちゃんが絞った雑巾をバケツの縁にかけ、なぜか謝りながら駆け寄ってきた。 そしてハンカチを出し濡れた手を拭いてから、浮かせていた俺の肩をそっと押して寝かせ毛布を被せてくれる。 肩から胸のあたりが布団の温もりに覆われると、すぐに咳は治まった。
頭の回転もイマイチのため、今の俺は本を読むか瞑想でもするか、交代できてくれるみんなと話をするくらいしかできることがない。 移すといけないからリソ君にも会えないし。 だけど喋りすぎるとノドの負担になるので、それもほどほどにしないといけないのだ。
あーあ、ニアちゃんがいてくれればテレパシーが――って、今の俺でも使えるじゃん!
ふと思いつき、俺は布団の裏側から手の先を出して、まだ布団を掴んでいるエミーちゃんの手ごと上から握った。
「あっ」
《やっぱり、冷たいね》
「えっ――」
エミーちゃんは握られた手をピクッと振るわせて目を丸くしたが、俺のテレパシーを聞いて更に驚いたように瞬きを繰り返した。
《ああ、ビックリさせちゃってゴメンな? 喋ると咳が出ちゃうから、こうすればテレパシーで話せるなって思ってさ》
「そ、そうなんだ」
俺が触っていない方の手をエプロンの上から自分の胸の上に置き、エミーちゃんがほっとため息をつく。
俺は小さな咳をしながら微笑みを浮かべた。
骨伝導ならぬ、オド伝導式テレパシー。 反響して声がぼやけるのが欠点だが、喋る必要がないのでこの方が楽だ。 触手を使えば離れていても会話できるしな。
《ところで、手がけっこう冷たくなってるよ? 掃除も大変だろうに》
エミーちゃんは常に半活性化しているような体質のせいか、体温が少し高めだ。 なのにココに来てからずっとあちこち拭き掃除しているから……。
幸い、今の俺の体温は増量キャンペーン中である。 更に手を布団から出し、エミーちゃんの手を包み込んで温めてあげる。
「あっ、だ、ダメだって! わたしの手、汚れてるから」
《そんなことないよ。 ありがとうね》
「う、うぅ……」
引こうとした手を捕まえて両手で握ると、エミーちゃんはもう片方の手を自分の胸にぎゅっと押しつけ、小刻みに震えながらうつむいて前髪で顔を隠してしまった。
可愛らしい反応だなあ。
「ぅ……」
両手で冷えたエミーちゃんの手を温める。 顔を見ているとチラッと目が合い、またうつむかれた。
昔はチューすらされたこともあるんだけど、ずいぶん恥ずかしがり屋さんになったものだ。
……ま、それが普通なんだろうけどさ。
「はい。 ゴメンね」
包んでいた手を離すと、エミーちゃんはすぐに引っ込めてその手をもう片手で覆い、手の甲を擦り始めた。
でも表情は未だ窺えないものの、髪を揺らして首を何度も横に振っているからイヤではなかったようだ。
「……まだ掃除があるから、行くね」
「うん」
そう言うとエミーちゃんは顔を見せないままバケツのところへ戻り、それを持って部屋を出ていった。
後ろ姿を眺めていると、ドアの向こうに消えていく直前。
赤くなった頬と一緒に――。
『ありがと』
と、唇が動いたのが見えた。
――外から、小鳥のさえずりが聞こえる。
斜め上の空中に視線をさ迷わせ、マナの粒子が窓の向こうの雲のようにたゆたっているのをぼーっと見ていると。
「えへへ。 お兄ちゃ~ん♪」
開けたドアから顔を覗かせたハニーが、照れ笑いを浮かべながら入ってきた。 昨日ひとりで学校へ行けたのを思いっきりほめてあげたら、今朝もずっとこんな感じである。
これをきっかけに、俺から離れて人前に出ることにも慣れてくれるといいんだけどな。
そうしてこの子の世界が広くなれば、化ける勢いでいろいろと一気に成長してくれるような気がする。
「お兄ちゃん、入っていい~?」
「ちゃんとマスクをしてからね……げほ」
「はあ~い!」
元気にお返事すると、セーレたんはスカートのポケットからマスクを出してヒモの輪っかを髪に隠れた両耳に引っ掛けた。 チラリと覗いた小さな耳が可愛いこと。
蒼い瞳をパチパチとさせ、白いマスクとワンピースの上から白いエプロンを着けている姿を見ていると、ふと前世の記憶の隅っこに隠れていた小学校の給食の風景を思い出した。
そういや、なんか昔はスプーンとフォークが合体したみたいなヤツを使ってたって、ホントなのかな?
……そんなコトはどーでもいいとして、とにかくこの子に風邪が移っていなくて良かった。
「ごはん、持ってきたの~」
「うん、ありがとう」
空腹を紛らわせるためにも無我の境地を切り拓いていた俺であったが、ようやく朝食が来てくれた。
熱もちょっとだけだし、食欲はわりとあるのだ。
「ごめんなさいジャスさま、お待たせしましたー」
セーレたん自身は何も持っていなかったが、すぐ後ろからお盆を持ったチャロちゃんが部屋に入ってきた。 大きめのお盆で、上にはホット用のティーポットとカップ、それからかすかに湯気が立ち上るスープらしい器と柔らかそうな白いパンが見える。
別に普通のメニューでも食べられるんだけど、わざわざ別に作ってくれたみたいだな。 あっさりめなんだろう、スープの美味しそうな匂いが漂ってくる。
「実はですねー。 このスープはセーレさまと一緒に作ったんですよ」
「おおっ!」
なんと! ……いや、料理のお手伝い自体はよくしているんだけど、それでも毎回嬉しいことに変わりはない。
「お代わりもあるの~」
「そっかー。 お腹が空いていたから、たくさん食べちゃうぞ」
「えへへ~」
チャロちゃんが勉強用の低いテーブルにお盆を置き、その間にマイシスターが窓を閉める。
布団の上には俺用のガウンが広げて置いてあり、身体を起こすとチャロちゃんが着せてくれた。 更に手を引かれ、俺は立ち上がってセーレたんの待つ食卓へ。
昨日よりも体調は少し良くなっているし、ベッドの上でスープを飲むのは危険だからな。
微妙にフラつく身体で絨毯の上にあぐらをかき、背もたれ代わりにスライムを出す。 オシリの下にもクッションを敷き、寒くないように脚を包み込むついでにひじ掛けも作った。
快適なスライム座椅子のできあがりである。
「いつも思いますけど……それ、便利ですよねぇ」
「まーね」
さすがに今の俺には二人の座椅子まで作ってあげられる余裕はないので、悪いけどそのまま座ってもらう。
チャロちゃんはひざをついてお茶をカップに注いでから俺の斜め前に座り直し、セーレたんはいつもの左側に座ってお盆に置いてあった木のスプーンを取って俺に渡してくれる。
無論だが、先は割れていない。 フォークは別に置いてある。
「はいっ」
「ん、ありがと」
今日の気分で、右手にスプーンを持つ。 妹様は生まれつきの両利きで左に持つことが多いけど、俺は意識して左でも使えるように練習したのだ。
並列思考を活用すれば、左右別々に字を書くことだってできる。 ……ムダに疲れるのでやらないが。
「しかし、本当に美味しそうだなあ」
「……ふふふ~♪」
胸元で両手を合わせ、腰をくねくねさせているマイハニー。 チャロちゃんもにこにこと微笑み、白いしっぽを揺らしている。
柔らかい湯気を上げるスープは中身も白く、色とりどりの野菜だけでなくお肉も入っていた。 具はやや大きめで、野菜スープというかポトフに近いな。 だけどスープもたっぷりなので、飲むだけでなくパンを浸して食べるのにも良さそうだ。
パンとスープが一緒に出てくる場合、基本的にそうして食べてもいいようになっているからな。
「さあ、冷めないうちにどうぞー! お代わりもありますからね」
「どうぞ~♪」
「うん、いただくね」
マスクを外して横に置き、スプーンを持ったまま手を合わせる。 たまーに無意識にやっちゃうんだよね。
大きめに切ってはあるけど俺の口には大きすぎないサイズの野菜をスープごとすくって、熱さを確かめつつぱくり。
「はふ……んまー!」
とっても優しい味だった。 野菜がよく煮込まれていて、甘みがスープに染み出している。
食べ応えもあり、食べてるーという感じがすごくする。
「いやあ、ホントに美味しい」
ときどき咳が出るので、その合間を縫ってぱくぱく食べる。 パンをちぎって浸してみても、それがまたいい。
「あむあむ」
口数が少なくて申し訳ないなーと思いつつ、とにかく食べる。
でも、二人共――特にセーレたんはすごく嬉しそうに目を輝かせて俺を見ているので、このままでもいいようだ。
すんごく見られているので、少々気恥ずかしくはあるけども。
「セーレちゃんも、こういうのが作れるようになったんだなあ」
「えへへへへ~♪」
「よかったですねー!」
くねくねと喜ぶセーレたん。 チャロちゃんと視線を交わし、二人で笑っている。
多少は手伝ってもらったんだろうけど、そんなことを口にするのは野暮ってものだ。
「ところで、二人はご飯食べたの?」
ふと気になっていたので、聞いてみるとハニーもチャロちゃんも首を横に振った。
できたてを俺に持って来たかったから、二人だけ後で食べるつもりだったらしい。
「だったら、ぜひ食べてほしいな」
「でも~」
「いやいや」
さり気なくお腹を押さえながら渋る妹様に、今度は俺が首を振る。
「ココでは一緒に食べられないからさ、せめて後からでも僕と同じものを食べてほしいよ。
ホントに美味しいからさ」
するとまた二人は顔を合わせて、それからうなずいた。
「……でしたら」
「うんっ、分かったの」
「うんうん」
俺専用に作ってくれるのも嬉しいけど、やっぱりみんなで同じものを食べた方が美味しいし楽しいと思うのだ。
「げふ……」
心も身体も温かくなり、再び布団の中へ戻る。 幸せな気分だ。
けっこうな量を完食し、二人も嬉しそうな笑顔を残して空の食器を持ち部屋を出ていった。
昼下がりにはニコとくりむちゃんがそれぞれお見舞いに来てくれて、俺は退屈とは程遠い時間を過ごせたのだった。




