489 試合に負けて勝負にも負けた?
いつも朝早く起きていると、暦が変わりつつあるのがよく分かるなーと思う今日この頃。
「ふぃー」
それでも、日が昇り始めるとまだまだ暑い。 ギラつく朝の光の下、俺はデッキブラシにもたれかかるようにしてひと息ついた。 視線を落とせば、麦わら帽子を被った俺の影が足元にへばり付いている。
あまりにくっきりとした影を見てなんとなーく思い立ち、ひとりデッキブラシを持ったまま「非常口のポーズ」をやっていると、後ろの下の方からテレパシーが聞こえてきた。
《ママー、持って来たよー》
「ほーい、ご苦労さーん」
振り返ると、ちっちゃな我が娘が大きなバケツを両手で持ち、半透明の鳥の羽をぱたぱたと動かしながら下から飛んできた。
俺は今、ウチの屋根を掃除している最中である。
この前にセラさんの家へ行くのに空を飛んだとき、屋根がけっこう汚れているのに気づいたので掃除しているのだ。
《また上からかけたらイイのかなー?》
《うん、よろしくー》
《おっけー♪》
半袖で剥き出しのひじから出した触手にブラシを持たせ、首からかけている水筒からジュースを飲む。 飲んでいる最中なのでテレパシーで返事をすると、ニアちゃんはそのままぱたぱたさせながら俺の横を通り抜け、屋根のてっぺんを目指して飛んでいく。 バケツは木製でそれ自体がそこそこ重いのだが、精霊パワーで持ち上げる我が娘にとっては大した重さではない。
ちなみに、テレパシーだと俺がたまに日本語のフレーズを口にすることがあるので、ニアちゃんもいくつかの日本語を覚えてしまった。
「……しかし、便利だな」
屋根はなかなかの急斜面なんだが、俺は角度に関係なく垂直に立っているので楽なものだ。 半分寝っ転がっているような感覚で後ろに預けている体重は、ケンタ君モードの後ろ脚がしっかりと踏ん張って支えてくれている。
足元の瓦は日本のものとは違って平坦なので立ちやすく、足を取られる心配も少ない。 触手アンカーだと前から引っ張る形になるから、地味に疲れるんだよなー。
首元にはすっかり手放せなくなったチョーカーもあり、首回りだけでなく顔やシャツの中にも冷気を送り込んでくれる。
《ママー、流すよー?》
「真下には誰もいないね?」
《だいじょぶー》
「んじゃ、ドンと来ーい!」
屋根のてっぺんに着いたニアちゃんがバケツを傾け……というかバケツが重力に逆らってひとりでに傾き、水が斜面をつたって流れてくる。
もちろんだが、実際にバケツを傾けたのはニアちゃんである。 バケツをぶら下げた手はそのままなので、端から見るとバケツの方が勝手に動いたように見えるだけだ。
「さて、擦りますかー」
持たせた触手で擦ってもいいけど、同じやるなら筋力トレーニングにもなるかなーと思い、自分の手でデッキブラシを持ってゴシゴシと擦る。
水には少しだけ石けんを溶かしてもらっているので、擦るとじょじょに細かい泡が立ってくる。 そのせいで分からないけど、既に擦ったところはまだやっていないところと比べると明らかに黒ずみが取れている。
見た目もそうだけど、汚れているところに立つと少し滑りやすいからな。
「はぁ。 なかなか疲れるな……ん?」
腕がだるくなってきたので触手で擦っていると、ふと下からマールちゃんらしき声が耳に入ってきた。 が、なんと言ったのかまでは分からない。
なんだろーと思ってケンタ君状態のままカニ歩きで東に進み、屋根の端っこから下を見る。 すると玄関の前で箒を持っているマールちゃんの後ろ姿と、そこから離れて敷地を出ていく人影がチラッと見えた。
すぐに壁に隠れて見えなくなったけど、服装から郵便屋さんだと分かる。
マールちゃんは両手にホウキと封筒をそれぞれ持ったまま、庭の方へと少し急ぎ気味に歩いて行く。
「旦那様ーっ!」
「来たか!」
俺の背後――庭では、今日は休みの親父がひとりで木剣を振っていた。 朝食の後で稽古に誘われたが俺はココの掃除をやるつもりだったし、セーレたんも家事のお手伝いをするからと断った。 そのすぐ後にやってきたエミーちゃんも同じだ。
ちょっと親父が寂しそうな顔をしていたので、掃除が終わったら付き合ってあげることにしよう。
ところで、「来たか」っというのは……アレか?
腰の後ろ側から出ているケンタウロス型の胴体と後ろ脚を、そのままお腹側に移動させながら振り返る。
本物のケンタウロスにはできない芸当である。 ……って、本物なんているのかな?
まあそれはともかく、興味を持った俺は空のバケツを持って飛んできたニアちゃんと一緒に屋根をくだり、マールちゃんが親父に封筒を渡しているところを覗き込む。
すると――。
「っしゃ!」
木刀を芝の上に置き、封筒を開けた親父が小さくガッツポーズ。 向かい合っているマールちゃんが腕の中にホウキを抱え「おめでとうございます♪」と拍手を始めた。
俺も嬉しさがこみ上げてきて、口元をニヤニヤさせながらニヤちゃん……じゃないや、ニアちゃんと顔を見合わせる。
「通ったみたいだね」
《だねー♪》
嬉しそうに白い歯を見せる親父。 その手に持っている封筒の中身は、間違いなく合格通知だろう。
この前受けた、剣術二級の試験の、な。
「あなた、よかったわね~♪」
「あっはっはっはっは。 ま、まあ、分かってはいたが……な?」
リビングでお袋からお酒を注いでもらっている親父は、嬉しさを隠して平然としている……と本人は思っているのかもしれないが、全然隠せていない。 思いっきりニヤニヤしている。
だけどそんなことを口にするのも野暮な話で、俺達はそれぞれの仕事を中断してリビングに集まり、テーブルを囲んで親父の合格を祝う。
「パパ、おめでとー!」「おめでとうなの~♪」
「おーめーでーとー!」
「さすがですね、おじさま!」
俺とセーレたんだけでなく、ニアちゃんとエミーちゃんも次々にお祝いの言葉を贈る。 ニアちゃんはテレパシーではなく、生身の声でのお祝いだ。
リソ君も、あんまりよく分かっていない様子ながらもみんなと一緒に手を叩き、お袋に頭をなでられて促されると「おめーとー!」とお祝いをした。
親父のニヤニヤがますますエスカレートしていく。
「お、おう、ありがとうな!
ま、まあ……元々取るつもりの資格だったから、な!」
照れているのか、親父は頭を掻きながらさっきからずっと謙遜しまくっている。 いやまあ確かに、親父はロング木刀のせいで剣術二級を受けるつもりが中距離に変えさせられた経緯があるけどさ。
とはいえ、やっぱりおめでたい話である。 試合の相手によっては、実力があっても合格できない場合もあるんだから。
「あっはっはっはっはー!」
可愛らしい私服を着たチャロちゃんからもお祝いされ、アナさんにはおつまみに炒り豆も作ってもらって親父はますますご機嫌だ。
イイ音を立てて豆を食べ、お袋についでもらったお酒を飲む。 昼前のこんな時間に飲むことなんて普段は絶対にないから、たぶんそれも嬉しいんだろう。
ついにはニヤケ顔をまったく隠さなくなった親父を、俺達は温かい目で見ていた。
だけど、残念ながらいい話ばかりとはいかなくて。
「……残念だったな」
「うん。 分かってはいたけど、さ……」
おやつの終わった後のリビングで、やってきたレイグ叔父さんの肩を親父が叩く。 庭で親父と一緒に素振りしていたところにやってきたレイグさんは、見るからにとても凹んでいた。
それでも、叔父さんはわざわざウチまで報告に来てくれたのだ。
俺と妹様はもちろん、お休みで出掛けようとしていたチャロちゃんも座り直し、アナさんはあり合わせで軽く摘むものを手早く一品作るとレイグさんに出す。
ちなみにマールちゃんとエミーちゃんはタイミングが悪く、ちょっと前に買い物へ出ていた。 リソ君とニアちゃんは部屋で遊んでいる。
「そういうときもあるわ~」
「……うん」
横からお袋が手を伸ばし、自分より高い位置にある弟の頭を優しくなで始める。 それでレイグさんは少しだけ表情を和らげた。
身体は大きくなっても、やっぱり弟は弟なんだな。
「レイグさんの実力でもダメだったんだ……」
俺達も試験の様子は少しだけ見たけど、レイグさんの腕は他の受験者と比べて特に劣っているようには見えなかった。
まあ、逆に言えば飛び抜けて強いワケでもなさそうだったんだけど、それでも当たる相手次第では十分に一勝くらいはできたんじゃないかなーと思う。
聞いてみると、三戦して負けたのは一回だけだったらしい。
とはいえ「運が悪かったねー」と声をかけるのもどうかと思い、考えた挙げ句に出てきた俺のフォローは……フォローとは言いがたい、なんとも普通の言葉だった。
「……惜しかったね」
「それでも、負けは負け、だ」
叔父さんは首を横に振る。 薄い笑みを浮かべているけど、それは自嘲という感じではなく、結果は結果として素直に受け止めているようだった。
お袋になでなでされているレイグさんを、親父は反対側から肩を強めに叩いた。
「気を取り直して頑張れ! 時間が合えば、俺も稽古に付き合ってやるさ」
「……ああ」
叔父さんが親父の方を向いてうなずくと、親父はまた二度三度と肩を叩いた。
――と、そこで。
「あの、レイグさまー」
そのやり取りをテーブルの挟んだ向かい側でずっと見ていたチャロちゃんが、レイグさんに声をかけた。
叔父さんにとって不意打ちだったらしく、丸くした目を揺らしながら返事をする。
「な、なんです?」
なぜか丁寧語……って、そういえばチャロちゃんの方が年上なんだっけ。 全然そうは見えないけど。
「もしよろしければ、気晴らしにわたしとお出かけしますー?」
「……エ」
叔父さんはまるで後頭部を叩かれたかのように頭を前に突き出し、口を半開きにしている。
片や声をかけたチャロちゃんは、とても優しい微笑みを浮かべていた。
「わたし、今日は何も予定がなくって、これから適当にお散歩でもしようかなーって思ってたんですけど」
いつも休みの日は朝から出掛けるチャロちゃんだけど、今日は友達の誰とも都合が合わなかったらしい。
それで今朝は、家でお袋とお喋りをしたりリソ君と遊んだりして、ずっとのんびりしていたのだ。
「え、い、いや、えっと」
チャロちゃんの澄んだ瞳に見つめられ、叔父さんはうろたえまくり、その額に汗がにじむ。 壊れたオモチャのように首を震わせ、助けを求めるような視線を左右に送っていた。
お袋はにこにこしながら弟さんの様子を見つめていたが、親父はニヤリと歯を見てレイグさんに話しかけた。
「おお、それはいいな! レイグ、付き合ってもらったらどうだ?」
「え? え? え、いや、でも、俺、け、稽古」
親父からの援護射撃……というか、追い打ちにますます叔父さんはうろたえた。 泳ぎまくっている目が無限大を描いている。
そこまであたふたしなくてもーという気もするけど、レイグさんだったら仕方がないような気もする。
「今日ぐらい稽古はいいだろう? 俺も呑んで、少し酔っているしな」
「え、あ、い、う、お」
酸欠の金魚みたいになっているレイグさん。
確かに親父は、お袋にお酌されてそこそこ飲んではいる。 でも、さっきまで俺と素振りしたしなー。 顔色もいつも通りだし。
そしてお袋は、温かい笑顔で見守っている。
「うふふふふふ~♪」
「……」
というかむしろ、積極的に放置して弟の慌てふためく様を楽しんでいるような生温かさだ……。
お袋って、レイグさんに限っては容赦なくイジるからなぁ。
そんな叔父さんには心の中で合掌するものの、気晴らし自体には俺も賛成なので何も言わない。
「ええっと……。 いやなら、別にいいんですけどー」
あまりのあたふた具合に、チャロちゃんが苦笑いしている。
親父はニヤニヤしているが、チャロちゃんにそういう意図がないのは見れば明らかだ。 チラッとこっち向いた視線で、次に「でしたら、ジャスさまとセーレさまはいかがですー?」と言おうとしているのが判る。
朝食のとき、俺が屋根掃除するって言ったらちょっと残念そうにしていたし。
「でしたら、ジャスさま――」
「ああああああのっ!」
思った通りチャロちゃんが俺達に顔を向けたところで、パシーン! という音と共にレイグさんが叫ぶような声を上げた。
見ると、親父の腕が叔父さんの背後に伸びていた。
真正面で見ていたチャロちゃんが、俺に視線を向けて苦笑いを深める。 俺も笑って、レイグさんのことをよろしくーとアイコンタクトを返しておいた。
「は、はあ」
「いいいい、嫌じゃないでしゅ! お、お、お供、ささっ、させて頂きまっしゅ!」
「……はあ」
「……」
叔父さん、噛みまくり……。
その後、レイグさんは自分で持って来た木刀を握り締め、チャロちゃんの後ろを手と足を同時に出しながらついて行った。
親父はその様子を、満足そうに見送った。
――で、夕方前に帰ってきた叔父さんは。
「女の人の買い物は長いってよく聞くが、やっぱり姉貴とお袋だけじゃなかったのか……。
しかも、あんだけ悩んどいて、結局何も買わないって……」
「レイグさんも楽しんだらよかったのに」
それなりに満足して帰ってきたチャロちゃんに対して、レイグさんは今まで見たこともないくらいに疲れ切っていた。
だけど気分転換にはなったようで、その表情は少し明るくなっていた。




