208 ゆっくりと近づくその日
ほんのりと、桜の爽やかな香りが漂う部屋の中。
朝の光に瞼をなでられ、やや疲れの残る俺の頭を覚醒へと導く。 布団の中セーレたんの背中をなでると、もぞもぞと動いて俺の身体に更にしがみついてきた。
「――ですよ。 朝ですよ」
「ううん……」
遠くから聞こえるようだった、耳触りのいい女の人の声。 だんだんハッキリと聞こえるようになると、その言葉が意味をなして頭に入ってくる。
「……もう、時間?」
「はい、申し訳ないのですけど、遅く起きる癖がつくと学校が大変ですから……」
昨夜は遅くまで、セーレたんにも手伝ってもらって書類整理とかしてたからからなぁ。 どうも寝過ごしたらしい。
とはいっても、ハニーとのいちゃいちゃタイムがなくなったというだけなんだけど。
「そうだね……んん~……んっ!」
心からの申し訳なさそうな声に、俺は気合いを入れて目を覚まし、身体を伸ばしてこわばりをほぐしていく。
俺が動いたことで、布団の中の妹様も「んにゃあ~」と猫みたいな声を出して活動を始めた。
「うぅん……ふぅぅぅぅぅ~。 おはよ、マールちゃん」
体内の疲れと澱みを息と一緒に吐き出して、ゆっくりと目を開ける。
右側のベッドサイドで朝日を背中に受け、後光が差したようなマールちゃんがとっても幸せそうな笑顔で俺の顔を見ていた。
そして、シュシュをつけたポニーテールを揺らして小首をかしげ、可愛らしくて元気な挨拶をしてくれる。
「はいっ! おはようございます、ご主人様♪」
「うん……え?」
今、なんだか背中を甘い痺れが流れるような違和感が。
「あれ、聞こえませんでしたか……おはようございます、ご主人様っ」
メイドさん自体は見慣れた、というかすごく身近な存在なんだけど……そのメイドさんから、すっごく聞き慣れない単語が飛び出しませんでしたか?
「ご、ごしゅ?」
「はいっ♪」
たまに見せてくれる冗談だったら、このあたりで「くすくす……冗談ですよ」とか言ってくれるんだけど、今日のマールちゃんはにこにこと微笑んでいるだけだ。
いぶかしげに瞬きを繰り返しているのを見て俺の気持ちを察したのか、マールちゃんはより一層笑みを深めてその種を明かしてくれた。
「私、今日から正式にジャス様付きになりました♪」
「へ」
ど、どゆこと?
背中を軽く反らして、意外とご立派なものを誇らしげに見せつけてくださるのだが、言葉の意味がよく分からなかった。 俺付きって一体――。
「うひっ!?」
「ご主人様?」
「ちょ、ちょっと待って」
脇腹をくすぐられて奇声を上げてしまった俺。 マールちゃんに待ったをかけて布団の中をのぞき込むと、セーレたんがちょいとご不満な表情で蒼い目を俺に向けていた。
「お兄ちゃん……早く、おはようして~」
「あー」
ウチのお姫さまは、朝のいちゃいちゃタイムをご所望らしい。 今朝は全然してないもんな。
……仕方がない。 時間がないので少し濃いめに行きますか。
「セーレちゃん、おはよー♪」
「えへへっ、おはにょむ……!?」
俺は布団の中に顔を突っ込み、ほにゃーと頬を緩めて挨拶してくる妹様に先制攻撃を仕掛ける。
うむ、前世じゃ数えるほどしか経験なかったんだが……俺も慣れてきたものだ。
「ふむん……ん~っ♪」
俺の方からは滅多にしないせいもあるのだろう、妹様は嬉しそうな声を漏らして俺の首に両手を回してきた。
更にここで終わらず、俺はハニーの腰に腕を回して引っ張り上げるように抱きしめる。
「んんっ! ……ん~」
ちょっと驚いたようだが、すぐに落ち着いたようだ。 時折ぴくんと背中を震わせながら、俺の首に回している腕に力が入る。
で、そのままの体勢でおおよそ一分。 震えるセーレたんの身体から力が抜けてきたので、俺はちゅぽんと身体を離した。
「ふぅ。 今日は時間がないから、これでおしまいな」
「はふ……ふにゃあ」
せっかく起きたのに、またとろ~んとなってしまった。 ……やりすぎたか。
「ごめんマールちゃん、お待たせ」
「あ、はい。 えっと、あの、これは……」
布団をめくって妹様の顔を外気に当ててあげると、その表情を見たマールちゃんが俺に疑問の目差しを向ける。
まあ……蕩けきった真っ赤なお顔で、全身ふにゃふにゃになっちゃってるもんなぁ。 完全に目の焦点が合ってないし。
「ああ、おはようの挨拶をしただけだから」
「え……」
「ところでさ、ぼく付きってどういうことなの?」
「え、あぁ、はい。 えっと――」
マールちゃんが聞きたそうに口を開こうとしたのをさえぎって、俺は自分の疑問を突き出した。
「出版や幼児園のお話をお受けになって、ジャ……ご主人様がお忙しくなるからと、奥様が」
俺とセーレたんも大きくなって、世話が減ったどころか逆に手伝うようになったもんな……俺はあんまり手伝えてないけど。 更にリソ君が安定してきてお袋にも余裕が出てきたから、むしろ供給過多気味なのかもしれないな。
そこで、逆に仕事が増えていっぱいいっぱいになってきた俺にマールちゃんをつけてくれた、ということらしい。 家事はこれからも普通にやってくれるみたいだけど、俺に用事があるならそっちを優先してくれるようだ。
相変わらず、のほほんとしているようでキッチリと押さえるところは押さえてくれるお袋である。
「ですから、気軽に何でもお申し付けくださいね、ジャ……ご主人様っ♪」
「いや、別に言い直さなくても普通でいいよ?」
「うぅ……はい、ジャス様ぁ」
肩を落として残念そうにするマールちゃん。 エルネちゃんみたいに冗談半分ならいいんだけど、本気で呼ばれるのは勘弁してもらいたい。
……俺の中のナニカに触れて背中がゾクゾクするんだよ。
本当だったら「様」もやめてほしいくらいなのだ。 実際に言ったこともあるけど、それは絶対にダメらしい。
「だけど、すっごく助かるよ」
「はいっ!」
ただ言われたからではない、本人の意志を感じる笑顔に、俺も嬉しくなって力強くうなずいた。
じゃあ、さっそく手伝ってもらいましょうかね?
この時期は全開が基本となっている窓から、春を感じるものがいろいろと流れ込んでくる。 それは涼しい風であったり、温かい光であったり花の香りであったり、まさにいろいろ。
先日、ステイさんと初めての打ち合わせをして、本にする内容のリクエストをいろいろ受けた。 細かすぎてこっちがビックリするくらいに。
二冊目以降があるかどうかはまだ不明だけど、まず記念すべき一冊目は算数に決定。 というか、これが最もニーズの高い教科らしい。
俺が続けてきた「楽しく学ぼう」をコンセプトに、随所に笑えるような解説やストーリー性のある文章問題などを入れていく。 俺は描けないが、可愛らしいイラストを入れてくれることにもなっている。
アキバ系の参考書を思い出してその場で口に出したアイデアだが、人妻の担当さんは驚くと共に大喜び。 直後に家を飛び出したステイさんは会社の上司を説得してきて、その日の内に本当に採用してしまった。
「こんなのはどう?」
「はい……ふふっ。 いいですね」
手狭になってきたテーブルの上での作業。
元のテキストを参考にざっくりとレイアウトを決めて、文章を書いて、キャライラストがほしいところは適当に丸四角で囲むか、それらしい絵を入れておく。
印刷の仕様がどうとか専門的なことはよく分からないので、細かいところはほぼ出版社側に丸投げだ。
担当さんは自分の胸を叩いて「任せてくださいっ!」って言ってたけど……ここまでの仕事の手際を見せられると、本当に安心して任せられるよ。
「それじゃマールちゃん、ここからここまでの問題をよろしくね」
「はい、ジャス様っ」
単純に書き写すだけの部分はマールちゃんにお任せして、俺はレイアウトや文面などを考えることに専念する。
元のテキストが既に考え込んで作ってあるので、ハッキリ言うと量が多いだけでそんなに大変な作業じゃない。 時間のある今のうちに、できるだけ進めておきたいところだ。
「お疲れさまなの~!」
どんどんと手の横の部分で叩く独特なノックに返事をすると、お手伝い中の妹様が飲み物を持ってきてくれた。
ピッチャーとコップをお盆に乗せて運ぶ様も、だいぶ板についてきたなぁ。 ……こんな可愛いウェイトレスさんのいる喫茶店があったら、破産するまで通い詰めちゃうぞ?
「は~い、よく冷えてるよっ♪」
「おっ、ありがと」
木のコップをテーブルに置くと、ウェイトレスちゃんが安心できる手つきでお茶を注いでくれる。 こぽこぽっていう音がいいね。
蒼い瞳の中に星を散りばめたセーレたんが微笑み、俺はコップを手に取ってゆっくりと飲む。 恐らくセーレたんが冷やしてくれたのだろう、甘めのレモンティーだった。
「うん、冷たくて美味しいよ」
「えへっ♪ ……がんばってね」
俺がほめて笑いかけてあげると、妹様は喜んで――ほっぺに甘いおまけをくれた。
丸いお盆で顔の下半分を隠して「きゃ~っ」と黄色い声を上げながら小走りで部屋を出ていく姿が可愛すぎる。
「セーレ様、とっても可愛いですね」
「うむ、世界一だ」
「ふふふふっ」
セーレたんには、ここしばらくリソ君の相手や家の手伝いを中心に頑張ってもらっているけど、だんだんお姉さんらしくらしくなってきたと思う。 ……俺と一緒にいると、相変わらず甘えんぼさんだけど。
ただ勉強や運動ができるだけじゃ、ダメだもんな。 家事を中心にいろんなことを覚えて、お手伝いして、人の役に立つ喜びを知ってもらうことはそれ以上に大切なことだと思っている。
俺から離れて自分で動く練習にもなるし。
ポーチから出してテーブルに置いたニアちゃんが、淡く光りながらぷるぷる震えている。
指先でくすぐるようになでると、表面に浮かんだマーブル模様が波打った。
――入学の日は、すぐそこまで迫っている。




