116 勝てるわけがありません
流行というものは、いろいろあるものだ。
それはコスプレだったり、足つぼマッサージだったり、あるいは――。
「けほっ、けほっ!」
「ごほっ! ……大丈夫?」
「ずずっ……つらいよぉ」
「よしよし」
この数日、寒暖の差が激しい日が続き、今日はまた寒くなって鳥肌が立ってゾクゾクするな……と思っていたが、どうやら風邪を引いたらしい。 俺は少し咳が出る程度だけど、セーレたんはそれに加えて少し熱もあり、鼻水も出てる。 鼻声がちょっと可愛いな……なんて言ったら悪いか。
部屋の明かりはつけているけど、窓のカーテンの向こうは薄暗い。 空気の冷たさから考えると、また雨が降っているのかもしれない。
「入りますねー」
ノックと共に少しこもったような声が聞こえてくると、開けられたドアからチャロちゃんが姿を現した。
手にはお盆を持ち、柔らかそうな白パンとコップと水差しを乗せている。 パンの陰に小さな紙の包みも見えた。
そして声がこもっている理由は、口を覆っているバンダナだ。 断じて銀行強盗ではない。
あと、鳥のくちばしみたいなマスクでもなくてよかった。 もしそんなの見たら……セーレたん、泣くぞ?
「お薬、置いておきますから、食べてから飲んでくださいねー」
ベッドの左側に新しく用意された、細長いチェストテーブルの上にお盆ごと置いてくれる。
下の引き出しには、妹様お気に入りの魔導具が入っている。
「うん、分かった」
「食べたくなぁい……けほっ」
「ダメですよセーレさま。 食べてお薬を飲まないと、治りませんよ?」
「ごほっ……そうだぞー。 お兄も食べるからさ」
「うん……」
左右からチャロちゃんと俺に頭をなでられて、小さくうなずいた。
「ねえチャロちゃん、風邪ってそんなに流行ってるの?」
昨夜に俺達が咳をし出した時に、チャロちゃんがそういっていたのを思い出した。
「はい、お姉ちゃんもちょっと引きかけてますし……〈人間族〉の人は気をつけるように、っていう話も回ってきてますよ」
口元は見えないけど、眉を曇らせて心配そうな声で話してくれるチャロちゃん。
人間族の風邪なら〈猫人族〉のチャロちゃんに害はないんだけど、用心に越したことはないもんな。
「ジャスさま、お薬は今飲みますか?」
「ううん、あとで食べるから大丈夫ー」
普通の四歳児だったらお世話をしてもらうところだけど、俺には触手があるしなー。 お袋や赤ちゃんにうつると大変なので、マールちゃんは自室で休みだ。 アナさんも同じ。
となると、まともに動けるのはチャロちゃんだけだ。 せめてセーレたんの世話は、症状のマシな俺がすべきだろう。
「何かあったら、すぐ呼んでくださいね?」
「うん、ありがと」
手を振ってバイバイするとそれを察してくれたようで、テーブルから使用済みのハンカチやタオルを回収したチャロちゃんは、ぺこりと頭を下げて部屋を出ていった。
「さーて、食べよっか」
「うん……ずずずっ」
「ほい、あーん」
「あ~ん」
お盆の上にパンだけを残して、それを触手で俺の手元へ引き寄せる。
そして、赤い顔でぽーっとしているセーレたんに、小さくちぎったパンを食べさせる。
「おっと、おハナが出そうだ……はい」
「んあん……ちーん!」
テーブルの上の、まだ数枚残っている新しいハンカチを一枚取り寄せてチーンさせた。 よくできたねーと頭をなでてあげると、少し辛そうな表情が和らぐ。
ハニーにパンと水をあげている合間に、俺も少し食べて水を含む。
「ごほっ。 んじゃ、お薬飲もうか」
「にゃう~」
露骨に顔をしかめて見せるけど、ここは心をお兄に……じゃないや、鬼にしなくてはならない。 良薬口に、なんてお決まりの文句は言わなくてもセーレたんは分かっている。 だが、分かってても苦いのは嫌なのだ。
「はーい、息を吸ってー……止めるっ」
「す~っ……はむっ」
セーレたんの鼻が詰まってるので、息を止めさせて素早く飲ませる。
昨夜チャロちゃんがそれに失敗して、粉が気管に入って酷くむせちゃったからなぁ。 涙目の妹様に睨まれた、チャロちゃんの方が泣きそうな顔をしていた。
「よし、ガマンして飲み込むんだ!」
「んん……こくっ……ぷはぁ」
「うん、頑張ったなー」
「にぇへへ……」
別のハンカチでうっすらにじんだ涙やら汗やらを拭いてあげてから、優しくなでてあげる……が、マイシスターの目は更に何かを訴えている。
「おにぃ……ちゅ~、して?」
「うっ」
思わずのけ反り、体温が上がる俺。
昨日の深夜にセーレたんの発熱がピークを迎えて、俺が懸命に世話をして――。
落ち着いた翌朝くらいから、お姫様の甘えっぷりがハンパない。 不満があればすぐ口にするし、してほしいことは何でも俺に言う。 「幼児がえり」なんてというとおかしいのは分かってるけど、普段の様子と比べるとそんな表現がしっくりくる。
まあ、それは別にいいんだけど……チュウをねだってくるのだけは精神的にキツイ。
「ちゅ~っ」
「……はいはい」
おでこやほっぺに、なんて誤魔化しが利かないのはとっくに体験済みだ。
俺がちゃんと唇に狙いを定めているのを確認してから、セーレたんは微笑んで目を閉じた。
――――ちゅっ。
「えへへっ。 えへへへへへ~♪」
「……ごほん」
魂まで蕩けきったような、幸せそうな笑みを浮かべるセーレたん。 可愛らしく両手を唇に当て、また目を閉じて余韻に浸っているようなそぶりを見せている。
熱のせいで紅潮している彼女とは別の原因で顔が熱くなって、俺は咳払いをして目を逸らした。
その表情、反則過ぎるよ……。
「んん~~~っ♪ ……けほけほっ。
きゃ~~~~~~っ♪」
「…………」
咳をしながらも黄色い声を上げて悶えてる妹様。
そのピンク色のオーラがあまりにこっ恥ずかしくて、俺はその声が聞こえなくなるまで背中を向けて震えていた。
「けほっ! ……おにぃ、マールちゃんは?」
「調子が悪くて寝てるよー」
心なしか窓の外が赤くなってきたように思う頃、静寂に包まれた部屋の中でセーレたんが言葉を漏らした。
「チャロちゃんは?」
「マールちゃんとママと赤ちゃん――ぼくたちの弟を見ながら、ご飯を作ってるんじゃないかな。
……あと、パパはおしごと」
ドアの方をぼんやりと見つめている妹様。 頭をなでてあげるが、声のトーンはあまり良くならない。
「ママは?」
「弟のところ」
「……」
いくら俺がいるといっても、やっぱり大人――特に母親の温もりはまた別だ。 それに加えて、今は体調を崩して心が不安定になってる。
「……ママは、きてくれないの?」
首を右に向けて、俺の目を見つめるセーレたん。 彼女の蒼い瞳が、悲しみに揺れているように見えた。
ひょっとして……お袋が自分より弟を取った、なんて考えてないよね?
「セーレたんは今、病気してるよね?」
「……うん」
まだ四歳の子供に、理屈だけで説得するのは無理があると思う。 でも、この子は賢い。
だから……感情的にはともかく、まず理解はしてほしい。
強く押しつけるような言い方にならないように気をつけながら、俺は妹の頬に手を添えて、その目をじっと見て穏やかな口調で語りかける。
「病気になると、とっても苦しいよね?」
「うん。 ……けほっ!」
「その病気はね……ごほん! ママにもうつるかもしれないんだ」
「……ぁ」
揺れていた目の焦点が、ハッキリ俺に合わせられる。
ほら、気づいた。
「ママにうつると、弟にもうつっちゃう」
「……」
「そしたら、ママと弟も、セーレたんと同じようにっ……ごほ! ……しんどくなっちゃう」
「けほっ、けほっ、けほけほ!」
「……セーレたんは、二人に苦しくなってほしい?」
咳が続いて妹の目に涙がにじんできたのを指で拭って、俺は目を合わせたまま返事を待つ。 少し潤んだ瞳は微妙に揺れていた。
きっと、心の中では理性と感情がせめぎ合ってるんだろう。
何度か互いに咳を繰り返している中、下の部屋からほんのかすかに、弟の泣き声が聞こえてきた。 セーレたんも聞こえたんだろう、その目が少し大きくなる。
……それから彼女は、首を小さく左右に振った。
「うん、そうだよね。 苦しくなってほしくないよね?」
「うん……」
ほんの少し、セーレたんの声が震えていた。
頬に添えた手の親指で目の下あたりをさすってあげると、彼女は目を閉じる。 また新しい滴が目尻から横に伝っていこうとしていたので、そっと指で拭ってあげた。
「よし! じゃあ……早く治して、元気になったらママに会いに行こう!」
「うん!」
彼女は、笑顔を見せてハッキリとうなずいた。
それはまさに――「お姉ちゃん」の顔だった。
「……セーレっ!」
「ひゃっ!?」
俺は嬉しさのあまり、思わず彼女を抱き寄せてぎゅっとしてしまった。
「えらいっ……本当に偉いよセーレちゃん!!」
とても四歳とは思えない物分かりの良さ。 それは賢いを通り越して、もはや健気とさえ言える。
ちょっと抱き締めるのが強すぎたようで、また咳き込み始めたのを背中をさすって収まるのを待つ。
「けほけほっ……はふぅ」
「ごめんごめん。 ビックリさせちゃったなー」
「ううん♪」
抱擁を緩めると、俺に可愛らしいスマイルを見せてくれた。 その表情は、さっきよりも少しは晴れたように思える。
温かい気持ちになってその顔を見つめていると、妹様は急に上目遣いになって遠慮がちに聞いてきた。
「ねぇ、おにぃ?」
「ごほん! ……ん?」
「おにぃのびょうき……セーレの、うつった?」
「え? ……あ」
一瞬なんのことかと思ったが、俺の風邪のことか。 今お袋に会ったらうつるからって聞いて、じゃあ俺は? と思ったワケね。
そこで、俺からうつされたと考えないところが、また健気だよぉ。
「かもしれないけど、そんなことはどうでもいいんだ。 むしろ、お兄にはドンドンうつしなさいっ!
それに……」
抱き合ってて自分の胸を叩けない代わりに、口の端を持ち上げてニヤリと笑ってみせる。 ちょっとキザかなーとは思ったが。
「ひょっとしたら、お兄がセーレにうつしたのかもしれないよ?」
やっぱり思いつかなかったんだろう……きょとんとした顔でまばたきを繰り返している。
そして俺の腰に回している手に力が入ると、セーレたんは上目遣いのまま、更にトンデモないカウンターを放ってきた。
「セーレも……うつして、いいよ?」
「……」
「……おにぃ?」
「ぐはああっ!?」
「ふぇっ!?」
その衝撃に、俺は思いっきりのけ反った!
熱のせいで赤らめたお顔で、更に上目遣いでなんて卑怯すぎるっ!! ……もしも抱き合っていなければ、ベッドから吹っ飛んでいたぞ!?
しかし、抱き合っているせいで逆にセーレたんを俺の胸元に引き寄せる結果になり、唇が触れ合いそうな距離で見上げてくる無防備な表情がトドメとなった。
「げっふぁあああああああっ!! ……げふっ、ごほごほごほっ!」
「おにぃ!? おにぃ~っ!」
咳が止まらなくなった俺に、セーレたんはますます必死にしがみついてきちゃいました。
「げふっ、げふっ……」
「おにぃっ! おにぃ~、おにぃぃいいいっ!!」
お、俺……。
マジで今日、萌え死ぬかもしれません。




