新幹線のつくりかた
一九五九年、東京。
「大阪のたこ焼きが食べたいなあ」
イチゴは時刻表を広げていた。
大阪から来た客に店の話を聞いて以来、焼いているところまで見たくなっていた。
「タカハシ、この『こだま』がいちばん速いの?」
「はい。東京から大阪まで、六時間五十分です」
「食べたくなってから六時間五十分かかっちゃうんだ。たいへん」
「早急に最寄りに大阪のたこ焼き屋を誘致しましょう」
タカハシは手帳を開いた。
「四時間くらいしか、がまんできないかも」
「それは早急に取り掛からなければいけない問題だ」
向かいに座っていた父が、書類から顔を上げた。
日本国有鉄道総裁、十河信二である。
「いや、たこ焼き屋を誘致……」
「タカハシもたこ焼き好きだもんね」
「いや、それほど……」
「では一緒に、早速取り掛かろうか」
「聞こえてます?」
十河が広げたのは、東京から大阪までの地図だった。
すでに国鉄では、東海道に新しい幹線を造る計画が進んでいた。
経済の成長につれて、人も荷物も増え続けている。東海道本線には特急、普通列車、貨物列車がひしめき、これ以上列車を増やす余地が乏しくなっていた。
「今ある線路で、速い列車だけ増やすわけにはいかん。前を走る列車に追いついてしまう」
十河は地図に指を置いた。
「だから別に造る。速く、大勢を運べる鉄道を」
「大阪まで?」
イチゴが身を乗り出した。
「ああ」
「いいね!」
タカハシの手帳には、「たこ焼き店」とだけ書いてあった。
技術を率いるのは、国鉄技師長の島秀雄だった。
新しい鉄道は、従来の線路よりレールの間隔を広くする。急な曲線を避け、川には橋を架け、山にはトンネルを通す。
車両だけではない。
線路、電気設備、信号、駅。
高速で走るためのものを、まとめて造らなければならなかった。
「連絡と調整を手伝ってほしい」
十河に言われ、タカハシは担当範囲を尋ねた。
返事を聞いてから、もう一度尋ねた。
「東京から大阪まで、ですか」
「各地に担当はいる。君には、その間をつないでもらいたい」
「一人では無理です」
「必要な人は付けよう」
タカハシは地図の端を押さえた。
大阪まで広げると、手元の湯飲みを移さなければならなかった。
隣からイチゴが覗き込んだ。
「私にも手伝えること、ある?」
肩が触れた。
タカハシは少し椅子を引いた。
「では、そちらの端を」
「うん」
イチゴは大阪のあたりを両手で押さえた。
「これで大丈夫?」
「はい」
「顔、赤いよ?」
「地図が大きいので」
「そうなんだ」
十河がうなずいた。
タカハシも、うなずいた。
四月、工事が始まった。
タカハシが最初に思い知ったのは、線路を敷く前に必要な仕事の多さだった。
地図に引いた線の上には、田畑も家も道もある。
土地の話がまとまらなければ工事に入れない。
工事が進んでも、資材を運び込む段取りができていなければ、その先へ進めない。
ある現場から、搬入日の変更を求められた。
タカハシは運送側と連絡を取り、別の日を押さえた。
今度は荷下ろしに使う機械の予定と重なった。
現場へ戻って相談し、機械の手配を確かめ、ようやく双方へ同じ日付を伝えた。
机へ戻ると、別の現場から電話が入っていた。
タカハシは一度、受話器を見た。
鳴っている。
取った。
新丹那トンネルでは、地面の下が予定どおりにいかなかった。
全長は約八キロ。
近くを通る旧丹那トンネルは、かつて大量の水や難しい地質に苦しみ、完成まで十六年を費やしていた。
今回はその経験と、進歩した機械を使える。
それでも、山の中身を都合よく変えられるわけではない。
西側の工区で、断層付近から水と土砂が噴き出した。
工事は足止めされた。
現場から戻った担当者が、状況を説明した。
タカハシは工程表を見た。
「いつ復旧しますか」
「分かりません」
「そうですか」
工程表を閉じた。
「あきらめましょう」
「いや、国家事業をそんな簡単に……」
「分かっています」
タカハシは工程表を開いた。
「一度言ってみたかっただけです」
工事は続いた。
トンネルを掘る技術者と作業員は、難所を一つずつ越えていった。
その間も、ほかの場所の工事は進む。
止まっている区間を待つ仕事と、先に進められる仕事を分け直さなければならなかった。
タカハシは東京へ戻り、工程の変更を伝えた。
「では、その分を後で取り戻せるのか」
「現場が確認しています」
「見込みだけでも」
「確認してから、お伝えします」
「だいたいでもいい」
「だいたいで開業日を決めないでください」
同じようなやり取りを、何度もした。
帰りの列車では座れた。
膝の上に工程表を広げた。
気がつくと終点だった。
タカハシの予定表から、日曜日の印が消えた。
資金も必要だった。
十河らは世界銀行との交渉を進め、一九六一年には八千万ドルの融資契約が結ばれた。
借りるためには、この鉄道にどれだけの需要があり、どう運営していくのかを説明しなければならない。
各部門の資料をそろえる仕事の一部が、タカハシにも回ってきた。
数字が違っていれば、どちらが新しいのかを確かめる。
費用が増えていれば、何が変わったのかを聞く。
理由を持ち帰ると、その理由を裏付ける資料が必要になった。
資料を提出した。
追加資料を求められた。
追加資料を提出した。
「こちらについても説明をお願いします」
タカハシは席を立った。
「どちらへ?」
「あなた方が一度に言わないので腹が立ちました。少し外で叫んできます」
(少しお手洗いに)
相手が黙った。
タカハシも黙った。
「……本音が漏れていませんか」
「失礼しました」
「お手洗いです」
「叫ばないんですか」
「検討します」
ある晩、イチゴがお茶を持ってきた。
「まだ終わらない?」
「今日の分は、もう少しです」
彼女は机の空いたところに湯飲みを置いた。
「私、そんなに急いで食べなくても大丈夫だよ」
タカハシは顔を上げた。
「ありがとうございます。ただ、もう皆さんが必要としている鉄道ですから」
「そっか。じゃあ、ちゃんと完成させないとね」
「はい」
イチゴは机の端から落ちかけていた紙をそろえながら、タカハシの湯飲みを見た。
「タカハシ、疲れてる?」
「多少は」
タカハシは湯飲みに砂糖を入れ、ひと口飲んだ。
動きが止まった。
イチゴが、タカハシの手元にある入れ物を見た。
「それ、お塩だよ」
タカハシは入れ物を確認した。
「…………」
「疲れてるね」
「多少ではありませんでした」
線路の一部ができると、試験が始まった。
速く走れた。
それだけでは、人を乗せられない。
車体の揺れ、ブレーキ、電気を受け取る装置。
車両と地上の設備を組み合わせ、繰り返し確かめる必要があった。
試験で分かったことを技術者が検討し、必要な改良を施す。
その結果を、また走らせて確かめる。
タカハシは試験の日程と、関係する担当者の予定を合わせた。
車両側の準備ができても、地上設備の確認が終わらなければ始められない。
変更の連絡は、全員に届かなければ意味がなかった。
電話を置いたあと、誰に伝えたかを指でたどった。
最後の一人に電話をかけたところで、最初の相手から折り返しが来た。
「変更ですか」
受話器の向こうで返事があった。
「……承知しました」
タカハシは、いま引いた線を消した。
しばらくして、もう一度電話が鳴った。
「変更ですか」
違った。
タカハシは少しだけ嬉しそうだった。
工費は、当初の見込みを大きく上回った。
その問題が厳しく問われる中、一九六三年、十河は総裁を退任し、島も国鉄を去った。
仕事は、後を引き継ぐ人々に託された。
十河の机から私物を運び出す日、タカハシは廊下で呼び止められた。
「最後まで頼む」
「はい」
少し間を置いた。
「もう増えませんよね」
十河は答えなかった。
「聞いておりますか」
十河はタカハシの肩を叩いた。
「頼んだぞ」
「そういうところです」
十河が去ったあとも、タカハシのところへ電話はかかってきた。
一九六四年。
各地で進められていた工事が、一本の鉄道につながっていった。
トンネルを抜け、川を渡り、駅へ入る。
試験の列車が走る線路を、今度は営業の列車が走る。
車両を整備する人。
運転する人。
駅で迎える人。
大勢の人々が、開業へ向けて準備を重ねた。
東京から新大阪まで、「ひかり」で四時間。
タカハシはその時刻を確認したあと、手帳を閉じた。
背広の袖口は擦り切れていた。
十月一日。
十河は自宅のテレビで、東海道新幹線の出発式を見守っていた。
画面の中で、白と青の列車が動き出す。
イチゴは父の隣で身を乗り出した。
「走ったね、お父さん」
「ああ」
十河は、列車が画面から消えるまで見ていた。
タカハシは少し離れた椅子に座っていた。
朝、襟元を整えようとして、ネクタイを結び直すのに二度失敗した。
いまは両手を膝に置いている。
イチゴが振り返った。
「これでたこ焼き食べに行けるね! タカハシ!」
「そうですね」
彼女はそばへ来て、その手を取った。
「ありがと。楽しみだなあ」
タカハシの肩から、少し力が抜けた。
「この前、仙台から来た方がね、牛タンを焼くおいしいお店があるって教えてくれたの」
指先が止まった。
「牛タン食べたくなっても、これで安心!」
タカハシは、ゆっくり手をほどいた。
廊下へ出て、家の者を一人呼んだ。
「イチゴ様の前で、牛タンの話はしないように。皆さんにも伝えてください」
相手がうなずくのを確かめ、声を落とした。
「ずんだもです」




