彼女とのお買い物
「おーい天音、大丈夫か」
俺はあの後、シャワーを軽く浴びてトーストを口に放り込み、マンションをいつもより遅い時間に出て登校した。
教室に着く頃には、彼女はいつもの学校での姿になっていてその変化の落差にもしかして、これは何もかも夢なのかもしれないと一瞬思ったくらいだ。
「具合でも悪いのか、昨日よく寝れなかったのか、応答しろ天音」
さっきから、前の方で神代がひたすら俺に話しかけている気がする。
「あ、ああ悪い。ちょっとボケてた」
唐突ではあるけど、丁度目の前に頼める奴が居るなら、試してみたい。
「なあ、俺の頬をめっちゃ強くつねってくれないか?」
神代の顔には心配と戸惑いの色が浮かんでいた。
(まあ、無理もないか)
「うらむなよ」
神代はため息まじりにそう言って、俺の頬を思い切りつねった。
「痛い、夢じゃないんだな」
「どうしたんだよ天音が藤野さんに目もくれずに窓を眺めてぼやけてるなんて」
「そういう時もあるんだよ」
神代は「ふうん」と言って頷き、前に向きなおり一時限の準備を始めた──。
午前中も昼休みも午後も一日を通して俺はどこか上の空になっていた。
これからはマンションに帰れば、彼女が居る生活──そう考えるだけで目の前の光景からリアリティーが失われていく。
一方、彼女の方は見たところ一日を通していつもの完璧な藤野涼香を崩していない。
だから、余計に考えてしまう──彼女が俺のことをどう思っているのか。
ただの仲の良い幼馴染か、あるいは・・・・いや過剰な幻想を抱くべきではない。
千里の道も一歩から、まずはこの同棲生活という最高の機会で少しずつ着実に距離を縮めることにてっするべきだ。
──放課後、いつものように昇降口前で神代と別れて靴を履き替えて、目の前の夕陽に染まった桜並木に向かって一歩踏み出した時だった。
「香坂くん」
横から聞き覚えのある透き通った声で呼び止められ、俺はそちらを向く。
「あ、藤野さん・・・・?」
そこには、彼女が穏やかな微笑みを浮かべて佇んでいた。
「その、藤野さんって呼び方あんまり好きじゃないかも」
「でも学校ではこういう呼び方の方が都合が良いんじゃないか?」
俺がそう返すと彼女は「うーん」と人差し指を口元に当てて考える。
「それもそうかもね」
「藤野さんもたしか部活入ってたよね、行かなくていいの?」
「お買い物」
彼女は短くそれだけ言って言葉を切った。
「お買い物?」
「そう、色々買わないとでしょ、だから香坂くんには帰宅を待って欲しくて」
なるほど、それで俺が昇降口から出てくるのを待っていたということか。
彼女の所属は文芸部だったけ。
「部活はあんまり時間掛からないから良かったら一緒に行きたい」
「構わないけど、食材なら一応あったと思うよ」
彼女は「そうじゃないの」と一言を残して部活へと向かった。
(ただの買い物ではないのか・・・・)
考えられるだろうか、昨日まで夢だと思っていたことが一夜にして叶ってしまっていることが。
部活が終わり、再び昇降口前で合流した彼女と俺は並んで桜並木を歩いていた。
俺は感動と緊張が入り混じった複雑な感情で胸がいっぱいになっていて、会話することができない。彼女もまた一言も言葉を発することはなかった。
代わりに俺は横目でちらりと彼女の横顔を眺める。
夕陽に照らされた暖色と桃色が入り混じった桜を背景にした横顔は美しい絵画の女性のようでもあったし、映画のワンシーンのようでもあった。
(可愛いではなく美しいと思ったのは初めてかも)
「ねえ、香坂くん」
つい、ぼんやりと見つめていたら唐突に彼女が言葉を口にしたので慌てて視線をそらす。
「どうした?」
「なんか、校内で並んで歩くのってドキドキするね」
「それは、誰かに見つかるか見つからないか的な感じの?」
「そうそう、それになんだか新鮮」
(事実、一緒に下校するのはおそらく初めてだけど)
もし、このまま校門を出る前や出た後に他の生徒に見つかった時、彼女は俺のことをどう説明するのだろうか、かなり気になる。
(そもそもこれじゃ時間差で登校する意味とは・・・・)
一人、二人にはもしかしたら見つかるかもしれないという俺の予想は外れ、街中に出て大型のスーパーに到着するまで見つかることはなかった。
「香坂くんはベーカリーコーナはよく来る?」
スーパーに入って真っ先に向かったベーカリーコーナで彼女は両手におぼんとトングを持って、パンをのせながら言った。
「いや、あまり来ないな。朝もほとんど食パンだし」
まあ、別にお金がないとかそういうことではないのだが。
「夕飯はやっぱり自炊してるのかな?」
彼女は沢山並べられた香ばしい匂いがするパンを悩みながら眺め、良いパンを見つけるとパッと明るい表情になりおぼんにのせていく。
その様子がなんだかさっきまでと打って変わって可愛らしい。
「ああ、基本は自分で作ってるよ、家事ぐらいしか取り柄ないんだよ」
「私は良いと思うけどな、お味噌汁くらいしか作れないから羨ましい」
俺もトングを手に取って『夕方焼きたてサクサクメロンパン』という売り文句のパンを取って彼女のおぼんにのせようとした。
「あ・・・・」
ドンピシャのタイミングで彼女も同じパンを取ろうとして軽く手が触れる。反射で手を引いてしまう。
「その、悪い」
「香坂くんもこのパン気になったんだ、私はこれが本命」
そう言ってメロンパンを二つおぼんにのせた。
(どうも俺はまだ彼女との接触に慣れていないようだ)
そんなことを想いながら、会計を済ませると俺たちはスーパーを後にした。
──スーパーを出て、マンションまでの道を歩いていると、陽が沈み、街中の明かりや行き交う車のヘッドライトが際立ち始め夜の訪れを感じる。
隣の彼女は軽く鼻歌を歌っていて弾むような足取りで歩いている。
(学校じゃ見せない機嫌の良さだ)
両手で大事そうにパンの入った袋を抱え込んでいる姿はあどけなさを感じさせる。
「そのパン、今日中に食べるのか?」
「もちろん」
そう応えた次の瞬間には彼女は抱えた袋からメロンパンを取り出し、小さな口を精一杯開けてかぶりついては「うーん」っと感極まった声を上げて味わっていた。
「ほら香坂くんも」
「え、俺は帰ってからでもいいよ」
「焼きたて、食べる。はい」
彼女は袋からもう一つメロンパンを取り出してこちらに差し出す。いつ食べてもそんなに変わらないだろうと思いつつ、受け取って一口。
「なんだこれ、美味い・・・・」
「ね、私のお気に入りパンだからね」
俺はメロンパンをどんどん食べ進める。彼女はしばらくその様子を微笑ましそうに眺めてから俺と一緒に再びパンにかぶりついては感嘆の声を上げていた。
俺たちは街中を歩き、自分たちのマンションへ向かう途中ですれ違い様に声をかけられた──。
「あら香坂くんじゃないの──」




