地図改訂管理室の様式七
朝の受付前から、安全チェック板が外されていた。
正確には、外される寸前で止まっていた。
板の右上に、赤い札が斜めに差し込まれている。
『不安喚起掲示物につき撤去予定。帰還掲示物撤去申請・様式七に基づく』
ラッドが、その札を睨んだ。
「不安喚起ってなんだよ。俺たちが名前を書く場所だろ」
「彼らは、名前を書く場所を不安と呼んでいる」
カイは赤札に触れず、まず板の下を見た。
昨日ミラが貼った紙は残っている。
事故台帳七件の同型空白を、処理済みに戻さないという紙。
受付係ミラ・サージの名前も、青い保留印も、まだ消されていない。
だが、その横に新しい欄が増えていた。
『撤去後保管先』
欄は空白だった。
「……また空白か」
ユナが、治療鞄を抱え直す。
「外した板は、どこへ行くんですか」
「書かれていない」
カイは赤札の端を指で押さえた。
「でも、板だけの問題じゃない。ここを見て」
赤札の裏には、薄い複写の線が残っていた。
カイには、その線が普通の汚れに見えない。
探索ログの欠落を読む時と同じように、紙の圧力、筆跡の止まり、欄の順番が浮かび上がる。
第一欄、掲示物名。
第二欄、撤去理由。
第三欄、撤去後保管先。
第四欄、未帰還者表示の代替手段。
そして第五欄。
帰還確認責任部署。
そこだけ、複写の線が途切れていた。
「責任部署欄がない」
カイが言うと、受付前のざわめきが一段低くなった。
ミラが青ざめた顔で、赤札を見上げる。
「でも、撤去申請には地図改訂管理室の灰色印があります。地図の部署が、どうして掲示板を……」
「地図だけなら、危険な道を消せる。掲示板も消せるなら、危険な道に入った人の名前まで消せる」
ラッドが拳を握る。
「ふざけんな。道を消して、帰らねえ奴の札も消して、それで安全確認済みかよ」
「怒るのは後だ」
カイは赤札を剥がさなかった。
剥がせば、ただの妨害になる。
破れば、地図改訂管理室は「現場が正式様式を破棄した」と書ける。
だから、読む。
相手が綺麗に閉じたつもりの言葉を、生活の手順へ戻す。
「この様式七は、撤去する紙じゃない」
「は?」
「まだ帰っていない人を、どこに掲示し続けるかを決める紙だ」
カイは板の下に置いてあった未使用の羊皮紙を一枚取り、上部に書いた。
『帰還掲示物撤去申請・様式七 生活側読替表』
その下に四つの欄を作る。
一、誰の名前が見えなくなるか。
二、誰の捜索順が消えるか。
三、誰が帰還確認をしたことにされるか。
四、撤去後も帰る席をどこに残すか。
上級探索者の男が舌打ちした。
「また書類かよ。俺たちは出発したいんだ」
「出発したい人ほど、帰る席を先に読んでください」
カイは、ラッドの出発札を指した。
「ラッド・ベル。照明石三番代替、声返り元確認は半日保留。今この板が消えると、君の保留理由はどこに残る?」
ラッドは一瞬黙った。
それから、自分の札を見て、低く答えた。
「……俺の手元だけだ。受付の板からは消える」
「では、君の名前で書く」
カイは羊皮紙を差し出した。
「『俺の出発延期は臆病ではなく、帰還条件未完了として掲示を継続する』。そう読めるなら、君の字で」
ラッドは歯を食いしばった。
周囲の探索者が見る中で、彼は震える指で筆を取る。
ラッド・ベル。
帰還条件未完了につき、掲示継続を望む。
その一行が書かれた瞬間、受付前の空気が変わった。
延期は恥ではない。
名前で止まれる手順になった。
ユナも続いた。
「治療灯の貸出確認が残っている人は、掲示を残してください。名前が見える場所がなければ、治療順も作れません」
ミラは受付台の内側から、昨日の青い保留印を出した。
「カイさん。これ、押していいですか」
「押す場所を変えます」
「場所?」
「赤札の上じゃない。赤札の横です。様式七を止めるんじゃなく、生活側の読み替えを添付する」
カイは、赤札の右に羊皮紙を貼った。
『本掲示物は不安喚起物ではなく、帰還条件未完了者の公開席である。撤去する場合、代替掲示場所・捜索順・帰還確認責任部署を記載するまで未完了』
ミラが、そこへ青い印を押す。
受付係ミラ・サージ。
私は、この板を「消す紙」ではなく、「帰る席を移す紙」として扱う。
小さな音だった。
だが、赤札だけが支配していた板に、青い未完了の印が並んだ。
新人たちが一人、また一人と自分の札を見直す。
「俺も、予備灯の確認がまだだ」
「私の帰還相手、姉の名前でいいですか」
「地図の帰り線が古いままだって、書いてもいいのか」
「書いてください」
カイは頷く。
「不安を煽るためじゃない。帰るために残す」
その時、主任ボルクが地下記録室から駆け上がってきた。
手には、灰色印の古い地図筒がある。
「カイ。まずい。様式七の保管番号を追ったら、撤去申請の対象は掲示板だけじゃなかった」
彼は地図筒を受付台へ置いた。
開かれた地図の右下に、同じ灰色印。
地図改訂管理室。
旧帰還門座標、改訂済み。
通路なし。
ラッドが息を呑む。
「旧帰還門って……俺たちが七層から戻る時の門だろ」
カイは地図の余白を見た。
そこにも、複写で消えかけた一行が残っている。
『掲示物撤去後、帰還門名を地図より削除』
帰る席を守ったと思った瞬間、帰る場所そのものが地図から消されていた。
カイは青い保留印を、地図の横に置いた。
「次は、通路なしと書かれた帰還門を読む」




