↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
1/44

第一章 古文書に眠る血脈

秋の夕暮れが、大学の古い図書館を静かに包み込んでいた。窓の外では銀杏の葉が黄金色に染まり、時折吹き込む風が、机の上に積まれた資料の端をかすかに揺らしていた。閉館までにはまだ時間があったが、閲覧室に残る学生はまばらで、静けさの中に頁をめくる音だけが響いていた。

楠木美月は、湊川の戦いに関する資料を机に広げ、長い間、身動きもせずに座っていた。二十一歳の彼女は大学で日本中世史を専攻し、将来、歴史学者になることを夢見ていた。なかでも強い関心を抱いていたのが、鎌倉幕府の滅亡から建武の新政、そして南北朝の動乱へと続く十四世紀の歴史だった。

後醍醐天皇、足利高氏、新田義貞、そして楠木正成。同じ時代を生きながら、それぞれ異なる理想と信念を抱き、時には手を結び、時には敵として刃を交えた人々。美月にとって、その時代は単なる過去の出来事ではなかった。歴史書に記された一つひとつの決断の裏側に、どれほどの苦悩や葛藤があったのか。それを知りたいという思いが、美月を研究へと駆り立てていた。

そして、何よりも気になっていた人物がいた。楠木正成である。同じ楠木という姓を持つせいか、幼い頃から不思議な親近感を覚えていた。だが、それ以上の理由を美月自身も説明できずにいた。

「どうして、あなたは死ぬと分かっている戦いに向かったの……」

美月は机に広げた湊川の戦いの資料を見つめながら、小さくつぶやいた。延元元年、すなわち建武三年、西暦一三三六年。後醍醐天皇への忠義を貫いた楠木正成は、足利尊氏の大軍を迎え撃つため、兵庫の湊川へ向かった。勝ち目の薄い戦いだった。それでも正成は、天皇の命に従い、弟の正季とともに最期を迎えたと伝えられている。美月には、その決断がどうしても理解できなかった。

忠義とは何なのか。命を捨ててまで守らなければならないものが、本当にあったのだろうか。そんな疑問を抱きながら資料を閉じようとした時、机の端に置いていた携帯電話が震えた。母からの連絡だった。

「美月、おじいちゃんの家を整理していたら、古い書物が見つかったの。あなたなら興味があるかもしれないと思って」

画面には、薄茶色に変色した和綴じの古文書の写真が添えられていた。美月は何気なく写真を拡大した。その瞬間、指が止まった。表紙には、見覚えのある姓が記されていた。

『楠木氏由緒書』

胸が大きく高鳴った。

翌日、美月は祖父の残した古文書を受け取った。表紙は傷み、紙には長い年月を経た独特の色が染みついていた。墨の文字もところどころ薄れていたが、慎重に頁をめくっていくと、楠木一族の名を連ねた系譜らしき記録が現れた。正成、正行、正儀。歴史書で幾度となく目にしてきた名が、そこには記されていた。さらに読み進めると、一族の傍系とされる人物から、幾世代にもわたって続く名が書き継がれていた。そして、その末尾に近いところに、祖父の名があった。幼い頃、祖父が昔の話をしようとするたび、美月は難しい話だと決めつけて聞き流していた。今なら尋ねたいことがいくつもあるのに、もう直接確かめることはできない。その悔いを抱えて眺めると、古い墨文字が急に身近なものに思えた。

「……嘘でしょう」

美月は思わず息をのんだ。もちろん、古文書に書かれていることが、すべて事実とは限らない。系譜には後世の加筆や伝承が混じることもある。歴史を学ぶ美月は、そのことを誰よりも理解していた。それでも、胸の高鳴りを抑えることができなかった。もし、この記録が正しいのなら、自分は楠木正成の血を受け継いでいることになる。美月は何度も系譜を読み返した。そして、最後の頁にたどり着いた時、奇妙な一文を見つけた。それまでの系譜とは異なり、その部分だけは、まるで誰かに語りかけるような言葉で書かれていた。

『月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。血を継ぐ者、その声を聞くべし。』

美月は声に出して読んだ。

「月影が、水に宿る時……」

言葉の一つひとつは読めても、その意味はつかめなかった。水面に映る月、隔てられた時代、そして血を継ぐ者。系譜の末尾に、なぜこのような言葉が残されているのだろう。美月はもう一度頁を戻し、前後の筆跡を見比べたが、由来を示す説明は見つからなかった。それは一族に伝わる何らかの言い伝えなのだろうか。美月はその一文を手帳に書き写した。窓の外には、いつの間にか夜の帳が下りていた。雲の切れ間から、丸い月が顔をのぞかせている。その光を見つめているうちに、美月は不思議な感覚に包まれた。

遠い昔から誰かに呼ばれているような気がした。

その夜、美月は夢を見た。暗い山々には篝火が燃え上がり、遠くから馬のいななきと鎧の擦れ合う音が響いていた。その月明かりの下に、一人の武将が立っていた。その男は静かに振り返り、美月を見つめた。顔立ちははっきりと見えなかった。しかし、その眼差しには、不思議な懐かしさがあった。男の唇が、ゆっくりと動いた。

「……待っておったぞ」

美月は息をのんだ。

「あなたは……誰?」

男は答えなかった。ただ、月光を背にして、静かに右手を差し伸べた。その瞬間、激しい風が吹き抜け、美月の足元に広がっていた闇が、まるで水面のように揺れ始めた。美月は声を上げ、そのまま目を覚ました。窓の外には、まだ月が浮かんでいた。胸の鼓動はなかなか静まらなかった。夢の中で聞いた声が、今も耳の奥に残っていた。美月は枕元の手帳を開き、昨日書き写した一文を見つめた。

『月影、水に宿る時、隔てし世の道ひらかれん。』

その文字を見つめながら、美月は思った。あの武将は、いったい誰だったのだろう。そして、なぜ自分を待っていたのだろう。古文書を閉じても、あの声だけは耳から離れなかった。美月は手帳を胸元に引き寄せ、夜が明けるまで、もう一度眠ることができなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。