空飛ぶアナリスト
深夜一時。俺は千葉の臨海コンビナート、上空三百メートルにいた。
眼下には光の要塞。プラントの無数の灯り、フレアスタックの炎。そして整然と並ぶ巨大な円筒——原油タンク群だ。一基で直径八十メートル超。近くで見るとちょっとした競技場である。
認識阻害を全開にして、俺は一基ずつタンクの上空をなぞっていく。透視で鋼板の向こうを覗けば、浮き屋根の位置と黒い液面が視える。満タンのタンク。半分のタンク。ほぼ空のタンク。俺はそれを防水メモ帳に淡々と記録していった。
タンク番号、推定液位、前回比。
……言っておくが、これは世界で俺にしかできない仕事である。なのに絵面は深夜に空中でメモを取る男だ。かっこよさの九割が認識阻害で誰にも見えないの、本当にもったいないと思う。
偵察は三夜続けた。千葉、川崎、堺。あわせて備蓄基地二箇所。さらに東京湾と伊勢湾の沖ではタンカーの喫水を視た。原油を満載した船は深く沈み、空の船は浅く浮く。喫水線の位置は積み荷の正直な申告書だ。おまけに沖で順番待ちをしている滞船がいつもより多い。
四日目の朝、事務所のホワイトボードの前で俺は楓に報告した。
「結論。国内の原油在庫は積み上がってる。タンクは平均で前週比プラス、沖には荷降ろし待ちのタンカーが渋滞。つまり精製が追いついてない——需要が弱い。なのに今、原油価格は中東の緊張がどうとかでじりじり上がってる」
「事実と価格がずれてる」
「そう。このずれは次の在庫統計と需給データで埋まる。視えた事実は、下だ」
俺は先物口座を開き、原油のショート(売り)を建てた。サイズは種銭の一割以内、損切りラインは建値の上に機械的に設定。マイルールに刻んだ通り、視えた事実にしか賭けない。予想には賭けない。
——で、ここからが相場の洗礼だった。
建てた翌日。中東で武装勢力がタンカーを攻撃したというニュースが流れ、原油価格は急騰した。俺のポジションは一気に含み損。画面の赤い数字を見た瞬間、心臓が、バカラで負けた夜と同じ音を立てた。
「く、九条くん、これ大丈夫なの!?」
「……在庫は視た。タンクは満ちてる。船は渋滞してる。事実は変わってない。変わったのは、人の気分だ」
「気分で数百万動くの、怖すぎるんだけど!?」
「だから賭け金を絞ってある。楓、これはバカラと同じだ。一勝負で死なない賭け方をしてる限り、事実は、いつか気分に勝つ」
口ではそう言ったが、白状するとその晩は俺もチャートを三十回見た。空間は掴めるが、相場の値動きは掴めない。あれは物理ではなく人間の群れの気分だからだ。俺の管轄外リストに四つ目が加わった。統計、人間関係、制度——そして群集心理。
三日後。攻撃されたタンカーは無事で、緊張は緩んだ。そして週次の在庫統計が発表された。予想を大幅に上回る在庫の積み増し。俺が三夜かけて目視した事実が数字になって世界に公表された瞬間、価格は音を立てて崩れた。
決済。利益、六百二十万円。
「……勝った」
「勝ったね。……ね、九条くん。今、変な顔してる。嬉しくないの?」
「嬉しい。嬉しいが……なんというか、カジノと違って答え合わせまでが長い。視えてから当たるまで一週間。この間ずっと気分の暴風に耐える。これは……」
「これは?」
「……労働だな」
「またそれ!? パチンコの時も言ってたってジョーさんから聞いたよ!」
だが収穫は利益だけではなかった。楓が決済履歴を眺めながらぽつりと言った。
「九条くん。これ勝ちパターンとして再現性があるよね。在庫、喫水、滞船——視える事実を積んで価格とのずれに張る。カジノと違って出禁もないし監視カメラもないし、相手は市場。あなたのルールにも完全適合」
「ああ。地味で時間がかかって、たまに気分に殴られる。……だが、これが本業だ」
株式会社ミエル投資部門、初陣白星。ホワイトボードの「原油」の文字の横に楓が花丸を書いた。小学生か。
その夜、マカオのジョーさんから写真付きのメッセージが届いた。古い海図のコピーと手書きのリストだった。
『九条くん、お待たせ! 例の沈没船リスト、出てきたよ! 元海事局の爺さんの秘蔵っ子。南シナ海に十七世紀のガレオン船、積み荷は銀塊っていう夢のやつ!……ただし一個だけ問題があってね』
『問題?』
『沈んでる場所が、複数の国が領有権を主張してる海域のど真ん中。引き揚げたら金の問題じゃなくて、国際問題になるかも』
……俺の管轄外リストに、五つ目が見えてきた。国境である。




