お嬢様の肩代わりをしてきた小間使いの私、駆け落ちしたお嬢様の代役で『氷の侯爵』様に嫁ぐことになりました
『――あなたなら、分かってくれるでしょう?』
私はしばらく、置手紙に書かれたその一文を見つめていた。
窓の外では、朝の光が白く揺れている。
今日は、私のお仕えするセシリアお嬢様の、晴れの日になるはずだった。
王都でも名高い、名門スレフィンド侯爵家。
その若き当主、『アヴェル・スレフィンド』様との縁談が正式に整い、今日、侯爵家から迎えの馬車が来ることになっていた。
なのに、お嬢様の部屋は空っぽだった。
婚約のために用意されたドレスや宝石も、持って行くはずだった荷物も、ほとんど残されたまま。
ただ、机の上に二通の手紙が置かれていた。
片方はお嬢様のご両親へ。
もう片方の宛名は、私。
『――リナへ。
私、ノアと駆け落ちをすることにしたわ。
愛のない結婚なんて、やっぱりできっこないもの。
ノアは家柄やお金じゃなく、本当の私を愛してくれているの。
彼は庭師だけれど、身分なんて関係ないわよね。
私、真実の愛を見つけたの。
あなたなら、分かってくれるでしょう?
後のことは、いつもみたいに上手くやってちょうだい。
セシリアより』
手紙はそこで終わっていた。
その衝撃の内容に、私は息をするのも忘れていた。
「今回も『分かってくれるでしょう』……ですか」
お手紙の返事をすっかり忘れていた時も。
夜会で話すべき相手を間違えた時も。
お偉方への贈り物を選ぶのが面倒になった時も。
お嬢様はいつも、困ったように笑って言うのだ。
そして私は、いつも頷く。
そうですね、分かりますよ……と。
「――セシリア? まだ準備ができないの?」
背後から、伯爵夫人――お嬢様のお母様の声がした。
私は振り返ることができなかった。
夫人は部屋に入ってきて中を見回し、やがて机の手紙に気づく。
「……なに、これ」
夫人の手が、手紙を取る。
数秒後、屋敷中に悲鳴が響いた。
------
私は拾われ子だ。
幼い頃、雨の中で倒れていたところを、ラングフォード伯爵家の馬車に拾われた。
身元は分からず、名前も曖昧だった私を、伯爵家は屋敷の片隅に置いてくれた。
私が今も生きていられるのは、伯爵家の方々のおかげなのだ。
だから、この家のために働くことに、何の疑問も持たなかった。
最初は、ただの小間使いだった。
けれど、お嬢様は字を書くのが苦手だった。
難しい言葉も苦手だった。
それから、社交界での立ち回りを考えるのも、あまり得意ではなかった。
「もー、わかんない! リナ、何て書けばいいと思う?」
始まりは、その一言だった。
とある音楽会に招かれた後、セシリアお嬢様は白紙の便せんを前に、固まっていた。
「素敵な音楽会でした、だけじゃダメなのー?」
「……駄目ではありませんが、どの曲が印象に残ったかや、席を用意していただいたことへのお礼も添えた方がよろしいかと」
「ええー? 難しいなあ。ちょっと、リナが書いてみてよ」
「わ、私がですか……?」
「そ。ほんとにちょっとでいいからさ」
始めは本当に、少しだけだった。
それがだんだんエスカレートし、いつしか、セシリアお嬢様が身につけるべき社交の務めの全てを、私が代行するようになっていた。
流石にまずいと思った私は、何度もお嬢様の頼みを断ろうとした。
しかし、その度に命を救われたことを持ち出され、私は頷かざるをえなかった。
やがて、セシリアお嬢様は社交界で評判になった。
聡明で気品があり、気遣いに満ちていて、どこへ嫁いでも恥ずかしくない令嬢。
そう言われるたび、伯爵夫妻は満足げに頷いた。
お嬢様は嬉しそうに微笑んだ。
だから、お嬢様がアヴェル・スレフィンド侯爵様との文通を嫌がった時も、私は断れなかった。
「だって、とても怖い方だって噂よ? 私が下手なことを書いて怒らせたら終わりじゃない」
お嬢様はそう言って、便箋を私へ押しつけた。
アヴェル・スレフィンド侯爵。
『氷の侯爵』という異名で有名な方だった。
誰に対してもそっけない。
夜会でもほとんど笑わない。
話しかけられても、必要最低限しか返さない。
ぞんざいに扱われた令嬢が泣いても、眉一つ動かさずに去っていく。
そんな噂を聞いていた。
最初に書いた手紙は、ただの季節の挨拶だった。
できるだけ無難に、できるだけ失礼のないように。
返事は、すぐに届いた。
短い文面だったけれど、特段「冷たい」とは感じなかった。
むしろ、貴族特有の余計な飾り文句が無く、やり取りしやすい文章だと思った。
そこからしばらく、手紙のやり取りが続いた。
「リナ、またお手紙が来たわ。お返事よろしくね」
「お嬢様、少しだけでも目を通された方が……」
「今度ね。それじゃ私、今日はノアと約束があるから」
「あっ、お嬢様……」
返って来た手紙を、お嬢様はほとんど読まなかった。
庭師をやっているノアという青年にご執心だったからだ。
流石に一つも読まないままでは、いずれ困るだろうと思っていたのだが……恐らく、お嬢様はその時から既に駆け落ちを考えていたのだろう。
そうして私は、セシリアお嬢様の名前で返事を書き続けた。
最初は、ただの代筆だった。
けれど、いつからだろう。
アヴェル様からの返事が届く日を、私は少しだけ待つようになった。
もちろん、その手紙は私宛てではない。
アヴェル様が返事をしているのは、セシリア・ラングフォードお嬢様だ。
分かっている。
それでも、届いた封筒を見つけると、部屋へ戻る足取りがほんの少し軽くなった。
その胸の高鳴りが、私の小さな秘密だった。
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「――流石に無理があります!」
私は思わず声を上げた。
伯爵家の応接間には、重い沈黙が落ちている。
「……そうは言っても、既に門前にスレフィンド侯爵家の馬車が来ている」
お嬢様のお父様――ラングフォード伯爵が言った。
「結婚予定の我が娘は、庭師と逃げて行方が知れません……などと、口が裂けても言えん」
「それは、そうですが……」
侯爵家との縁談を、当日に反故にした。
しかも、その令嬢は庭師と駆け落ちした。
そんな噂が広まれば、王都中の笑いものになって、ラングフォード家の信用は地に落ちる。
「リナ、もう一度言う。お前がセシリアの代わりに行くんだ」
伯爵は私の目をまっすぐ見て言った。
「で、できるはずがありません。私はただの小間使いです!」
「でも貴方、セシリアの代わりは得意じゃない」
伯爵夫人が、青ざめた顔で言った。
「とりあえずセシリアのふりをして、極力動かずに……そうね、体調が悪いとでも言っておきなさい。落ち着いたら、あとでどうにかするわ」
どうにか、だなんて。
そんなことできるはずも無いのに。
そのあまりに軽い言葉に、私は震えながら首を横に振る。
「侯爵様は、きっとすぐに気づかれます」
「――気付かれないようにするのがお前の仕事だ!」
「っ……」
伯爵の怒声に、肩が跳ねた。
「お前を拾ってやった恩を忘れたのか」
その言葉に、何も言い返せなくなる。
私は、この家に逆らってはいけない。
「……わかり、ました」
侍女たちに連れられ、私はセシリアお嬢様のドレスを着せられた。
淡い空色の絹に、胸元に小さな真珠。
鏡の中に映る姿は、自分じゃないみたいだった。
小間使いのリナではない。
けれど、ラングフォード家の令嬢でもない。
ただの偽物だ。
「できるだけ顔を伏せていなさい。いい? 体調が悪いことにするのよ」
「……はい」
伯爵夫人が言う。
私は頷くしかなかった。
馬車へ向かう廊下で、胸が苦しくなる。
怖い。
恐ろしい。
侯爵様に見抜かれたら、どうなるのだろう。
伯爵家は私を切り捨てるつもりだ。
私は勝手に侯爵家を騙した小間使いとして、どこへも行けなくなるかもしれない。
それなのに。
本当に、ほんの少しだけ。
心の中のわずかな隙間に、「アヴェル様に会える」という喜びがあった。
そんなことを思ってしまった自分が、私は怖かった。
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スレフィンド侯爵家の屋敷についた。
ラングフォード家のような華やかさはなく、家具や内装は落ち着いた色味で統一されている。
始めて来た場所なのに、なぜか「落ち着く」と思ってしまった。
その中を案内され、私は応接室へ通された。
心臓がうるさい。
どこどこどこどこ、まるで打楽器にでもなってしまったみたい。
手袋の中で、じっとり汗をかいた指が震えている。
膝なんかガクガクで、もう今にも崩れ落ちそうだった。
――ガチャ。
応接室の扉が開く。
入ってきたのは、ひどく美しい人だった。
銀灰の髪。
淡い青の瞳。
すっと通った鼻梁に、薄い唇。
まるで彫像のように整った顔立ち。
この方が、アヴェル・スレフィンド侯爵。
私は慌てて頭を下げた。
「本日は、お迎えいただき――」
「顔を上げてくれ」
低く、落ち着いた声だった。
私は言われた通りに、恐る恐る顔を上げる。
アヴェル様は、じっと私を見ていた。
その視線に、息が止まりそうになる。
数秒。
そののちに、彼は言った。
「……君は、セシリア・ラングフォードではないな」
「っ……!」
終わった。
そう思った。
「も、申し訳ございません!」
「謝るな。大方、私との縁談を嫌がったセシリア嬢が、身代わりを寄越したんだろう」
淡々と告げられて、私は息を呑んだ。
怒鳴られないことが、かえって怖かった。
「いえ、あの、私は……」
「君を責めているわけではない。少なくとも、この件を考えたのは君ではないはずだ」
「で、ですが、侯爵様は『他人に裏切られるのが何より許せない』と――あっ!」
言ってから、血の気が引いた。
アヴェル様が裏切りを特に嫌うというのは、手紙の中でだけ触れられていたことだった。
「……今、何と言った」
「い、いえ。何でもございません」
「誰から聞いた」
返事ができなかった。
アヴェル様は、じっと私を見る。
冷たいはずの淡い青の瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「……手紙を書いていたのは、君か」
逃げられないと思った私は、小さく頷いた。
「はい。私が、書いておりました」
アヴェル様は、一瞬だけ息を止めた。
それから、なぜか口元に手を当て、視線を逸らした。
「そうか……君だったのか」
私は言葉を失った。
「あの手紙は、君が書いていたのか」
「……申し訳ございません」
「謝る必要は……いや、あるのか。あるな。だが、謝るべきは君ではなく、ラングフォード家だ。いや、そんなことが言いたいわけではなく……」
「え……?」
私は思わず顔を上げた。
まさか、あの氷の侯爵が、言葉に詰まるだなんて。
アヴェル様は片手を口元に当て、眉間に皺を寄せる。
「……少し待ってくれ。今、考えを整理している」
そこでアヴェル様は黙った。
視線がわずかに逸れる。
「…………すまない。どうやら私は今、困っているようだ」
私は、どう反応すればいいのか分からなかった。
------
「ここだ。入ってくれ」
通されたのは書斎だった。
高い本棚に囲まれた、静かな部屋。
中央の広い机の上には、いくつもの封筒が並べられている。
「これは……」
すべて、見覚えがあった。
私が書いた手紙だ。
セシリアお嬢様の名前で送ったもの。
「……捨てていらっしゃらなかったのですか」
「捨てる理由が無い」
アヴェル様は淡々と言った。
「ですが、ただのお手紙です」
「いや、甘すぎる菓子に合う茶葉の種類や、気に食わない相手との上手い付き合い方など……重要な情報が記されている」
「それは……差し出がましい真似をしました」
「違う」
アヴェル様は、手紙に視線を落とす。
「感謝している」
「……え?」
「私は、人と話すのが得意ではない」
彼は静かに続けた。
「何を言えば相手を傷つけずに済むのか、いつも分からない。黙れば冷たいと言われる。何か言えば、言葉が足りずに泣かれる。だから、必要最低限しか話さなくなった」
「そう、だったのですか」
氷の侯爵。
そう呼ばれる理由を、私は初めて知った気がした。
「だが、君の手紙には素直に返事を書けた」
「私の……?」
アヴェル様は言う。
「初めてだった。誰かと話すのが『楽しい』と感じたのは」
胸の奥が、熱くなった。
私の言葉がこの人に届いていた。
「名前を聞かせてくれるか?」
「……リナ、です」
「リナ……! リナか、うん」
アヴェル様は私の名を何度も反芻した。
「良い名だ」
「っ……」
にこりと微笑まれて、息ができなくなる。
何だか、たまらなくなって、私は手紙に視線を落とした。
すると、どの手紙も端がよれているのに気が付いた。
「お手紙が、とてもくたびれています」
「あ、いや……違うんだ。決してぞんざいに扱っていたわけではなく、何度も封筒から取り出して読み返したからで……」
「……読み返されたんですか?」
「しまっ……」
アヴェル様は慌てて口を抑える。
けれど、もう遅い。
やがて、観念したように溜め息をついた。
「……そうだ。その手紙を読むのが、日々の私の楽しみだった」
「何度ほど?」
「ぶっ!? か、回数を聞く必要があるか……!?」
アヴェル様は後頭部をかきながら、顔を真っ赤にする。
氷の侯爵の無表情の仮面が崩れていく。
その様子が何だかとてもおかしくて、可愛らしくて、私はついつい笑ってしまった。
------
それから、半年が過ぎた。
私はまだスレフィンド侯爵家にいる。
ただし、セシリアお嬢様の影武者としてではない。
侯爵家の書類仕事の手伝いが、私のもっぱらの仕事である。
それは、ラングフォード伯爵家で私がずっとしてきたことと同じだった。
けれど、決定的に違うことが一つある。
スレフィンド家では、それが私の仕事だと、きちんと認められていた。
「リナ、この計画について意見を聞きたい」
アヴェル様は、そう言って私の名を呼ぶ。
誰かの名ではなく、リナとして、私の考えを求められる。
最初は、それが落ち着かなかった。
けれど半年も経てば、少しは慣れる。
……少しだけ、だけれど。
「――今日は、ラングフォード伯爵家へ行く」
朝食後、アヴェル様はそう告げた。
私は手にしていたカップを落としそうになった。
「伯爵家、ですか」
「ああ。セシリア嬢の件について、最終的な書面を交わす必要がある」
セシリアお嬢様は、まだ戻っていない。
あの日、庭師のノアと逃げたきり、消息は途切れたり繋がったりを繰り返しているらしい。
伯爵家からは何度も手紙が届いた。
最初は、私にセシリアお嬢様の代わりを続けさせようとするもの。
それがバレると次は、セシリアが戻るまで身代わりに差し出すというもの。
言うことは、何度もころころと変わった。
けれどアヴェル様は、そのたびに短く返した。
リナ本人の意思を確認していない申し入れには応じない、と。
「伯爵家に、君も来てほしいと思っている」
「私も、ですか」
「嫌なら断っていい」
アヴェル様は、すぐにそう付け足した。
この方は、いつもそうだ。
私に何かを頼む時、必ず逃げ道を用意してくれる。
不器用な優しさだ。
「大丈夫です。参ります」
「無理はしなくていいぞ」
「無理ではありません」
「……そうか」
アヴェル様は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
「では、その……私の隣にいてくれ」
その言い方があまりに真面目で、私は思わず目を瞬かせた。
「お仕事として、でしょうか」
「仕事でもある」
「でも?」
「……それだけではない」
アヴェル様はそれ以上言わなかったけれど、耳が少し赤かった。
私はそれを、見なかったふりをした。
------
半年ぶりに見るラングフォード伯爵家は、記憶よりも少しくすんで見えた。
馬車が止まる。
扉が開き、アヴェル様が先に降りる。
そして、私に手を差し出した。
「え……」
私は一瞬、固まる。
小間使いだった私に、貴族の方が手を差し出している。
しかも、ここはラングフォード伯爵家だ。
私がずっと頭を下げてきた家。
廊下の端を歩き、目立たないように過ごしていた場所。
「リナ、おいで」
「っ……」
アヴェル様が私の名前を呼ぶ。
私はその手に、自分の手を重ねた。
ゆっくり馬車を降りる。
玄関前に並んでいた伯爵家の使用人たちが、息を呑むのが分かった。
伯爵と伯爵夫人も出迎えに立っている。
伯爵夫人は、私を見た瞬間、目を見開いた。
「リナ……」
名前を呼ばれた私は、静かに礼をする。
「ご無沙汰しております。ラングフォード伯爵、伯爵夫人」
伯爵夫人の顔が、わずかに強張った。
もう私は、この家の小間使いではない。
伯爵はすぐにアヴェル様へ向き直った。
「本日はわざわざお越しいただき――」
「用件を済ませよう」
アヴェル様は短く言った。
相変わらず、言葉が少ないお方だ。
応接室へ通される。
かつて私は、この部屋に入る時、いつも茶器を持っていた。
客として椅子に座ったことなどない。
「リナはここへ」
「はい……」
だが今、アヴェル様は当然のように私を自分の隣へ座らせた。
伯爵夫人が、かすかに眉を動かす。
「さあ、始めよう」
書面の確認が始まる。
セシリアお嬢様と、アヴェル様の縁談は正式に白紙。
ラングフォード家は、当日の虚偽と影武者の件について、侯爵家へ謝罪文を提出。
侯爵家側の準備にかかった費用の一部を賠償。
今後しばらく、スレフィンド家からラングフォード家への社交上の後援は行わない。
という、淡々とした内容だった。
伯爵は悔しそうに唇を噛んだが、反論はできなかった。
侯爵家が公に大騒ぎしなかっただけ、温情ですらある。
やがて伯爵夫人が、耐えきれないように私を見た。
「リナ。あなた、侯爵家で……うまくやっているのね」
「はい。よくしていただいております」
「そう……」
伯爵夫人の目が、私のドレスに落ちる。
今日の私は、スレフィンド家で用意された淡い青のドレスを着ていた。
「それは、侯爵家で?」
「はい」
「……そう」
夫人の声は小さかった。
伯爵が咳払いをする。
「しかし、リナは元々当家で拾った娘です。侯爵家に置いていただいているのはありがたいことですが、そろそろ――」
「戻すつもりはない」
アヴェル様が言った。
低く、静かに。
伯爵の顔が固まる。
「ですが……」
「彼女は物言わぬ置物ではない。本人の意思を確認せず、返すも戻すもない。彼女は自分で選ぶ」
伯爵夫人が、唇を震わせた。
「リナ……あなた、戻らないの?」
私はこの時、この家で初めて、自分の意思を口にする。
「――戻りません」
はっきりと、夫人の目を見つめ返して言う。
「私はもう、セシリアお嬢様の代わりをすることはできません」
伯爵夫人が泣きそうな顔をしたその時、扉の向こうが騒がしくなった。
使用人の慌てた声に、誰かが走る足音。
そして、応接室の扉が乱暴に開いた。
「――戻ったわ!」
飛び込んできたのは、セシリアお嬢様だった。
半年ぶりに見るその姿は、別人のようだった。
美しく巻かれていた髪は乱れ、色褪せた外套を羽織っている。
頬は痩せ、目元は泣き腫らしたように赤い。
かつて社交界の花と呼ばれていた華やかさは、見る影もなかった。
「セシリア!」
伯爵夫人が悲鳴を上げる。
お嬢様は母親には目もくれず、私へ駆け寄ろうとした。
けれど、アヴェル様が静かに立ち上がったことで足を止める。
お嬢様の視線が、私とアヴェル様の間を揺れた。
「どうして……リナが、侯爵様の隣に座っているの」
その声には、混乱と苛立ちが混じっていた。
私は立ち上がる。
「お久しぶりです、セシリアお嬢様」
「リナ……ねえ、リナ、助けてよ……」
お嬢様は泣き出しそうな顔で言った。
「私、騙されていたの。ノアは、私だけを愛していたわけじゃなかった。宿代も私に払わせようとして、宝石を売ればいいって言って……。それに、町娘にも、酒場の店員にも、すれ違っただけの旅人にだって、私に言ったのと同じ言葉を言っていたのよ」
伯爵夫妻が青ざめる。
お嬢様は続けた。
「ねえ、リナ」
お嬢様は、あの日と同じ顔で言った。
「あなたなら、分かってくれるでしょう?」
かつての私なら、頷いていた。
泣いているお嬢様を見て、困っている伯爵夫妻を見て、拾われた恩を思い出して。
また、すべてを肩代わりしていただろう。
でも、私はもう一人ではない。
それに、もう誰かの名前で生きたくない。
「――分かりません」
私がそう言うと、お嬢様は目を見開いた。
「……リナ、嘘でしょ?」
「お嬢様の悲恋も、私に人生を押しつけたことも、分かって差し上げることはできません」
「そんな……だって、あなたはいつも助けてくれたじゃない」
「はい。これまでは」
私はまっすぐにお嬢様を見た。
「ですが、これが最後の肩代わりといたします」
「そんな……!?」
お嬢様の顔が、くしゃりと歪んだ。
アヴェル様は、セシリアお嬢様へ静かに告げる。
「セシリア・ラングフォード嬢」
お嬢様がびくりと肩を震わせる。
「恋に落ちることは、恥ではない」
低く、静かな声だった。
「だが、その恋のために他人を身代わりにしたことは、恥だ」
「私は……ただ、幸せになりたかっただけなのに……」
「そのために、彼女の人生を使った」
「それは……」
お嬢様は何も言えなくなった。
私も、もう何も言わなかった。
半年ぶりに戻ってきた伯爵家で、私はようやく、あの日押しつけられた人生を返した。
お嬢様に対し、胸が痛まなかったわけではない。
けれど、その痛みで自分を差し出すことは、もうできなかった。
------
その日の夜。
侯爵家に戻って来た私は、アヴェル様に「家を出るつもりだ」と告げた。
「セシリアお嬢様との縁談が白紙になった以上、私がここにいる理由はございません」
そう言うと、アヴェル様は固まった。
ほんのわずか、目を見開く。
「なっ……待て!」
低い声に、私は反射的に肩を揺らした。
すると、アヴェル様はすぐに眉を寄せる。
「……すまない。命令ではない」
「いえ」
「違う。今のはよくなかった」
アヴェル様は真剣な顔で言った。
「私は、こういう時に何と言えばいいのか分からない」
その言葉が、ひどく彼らしかった。
完璧なほど整った顔立ち。
冷たいほど美しい瞳。
けれど中身は、言葉を選びすぎて立ち尽くしてしまう人。
アヴェル様は懐から一通の封書を取り出した。
「だから、書いた」
「……お手紙、ですか」
「ああ」
私は受け取る。
封には、私の名前があった。
『セシリア』ではなく『リナ』と。
私は震える指で、封を開ける。
そこには、アヴェル様の端正な文字が並んでいた。
『君の言葉に救われていた。
人の多い場が苦手だと書いても、君は笑わなかった。
菓子の量に困ると書いても、君は呆れなかった。
ただ、次はどうすれば少し楽になるかを考えてくれた。
手紙の相手が君だと知って、とても驚いた。
だがそれ以上に、嬉しさがこみ上げた。
手紙の相手に拒否されたわけではないのだと、気づいたから。
私が待っていたのは、セシリア嬢ではなく、君だったんだ。
これからは、誰かの名ではなく、リナ自身の名で返事を書いてほしい。
そして、もし許されるなら、私の隣に立ってほしい』
読み終えた時、私はしばらく動けなかった。
顔を上げると、アヴェル様はまっすぐ前を見ていた。
無表情を保とうとしている。
でも、明らかに落ち着いていない。
視線が少し泳いでいる。
指先が、上着の袖口をわずかにつまんでいる。
それから、白い頬がはっきり赤い。
「侯爵様」
「……読んだか」
「はい」
「そうか」
声が硬い。
私は手紙を胸元に寄せた。
「これは、求婚の申し出と受け取ってよろしいでしょうか」
「っ……」
アヴェル様が完全に固まった。
数秒、沈黙。
「……君がどう思うかが、大事だと思うのだが」
「違うのですか?」
「…………違わない」
「では、求婚ですね」
「………………ああ」
アヴェル様はそこで、片手で顔を覆った。
「すまない。手紙でなら言えると思ったのだが、読まれた後のことを考えていなかった」
私は、思わず笑ってしまった。
「氷の侯爵様でも、考え忘れることがあるのですね」
アヴェル様は真剣な声で答える。
「そうだな……君に関することは、どうも失敗が多い」
その言葉に、胸がきゅっと苦しくなった。
こんなに美しく、こんなに不器用な人が、私の返事を待っている。
それが、たまらなく愛おしいと思った。
「お返事は、手紙でもよろしいですか?」
アヴェル様が、少しだけ目を見開く。
それから、小さく頷いた。
「その方が、ありがたい」
私は微笑んだ。
「では、今度はセシリアお嬢様の名前ではなく、私の名前で書きます」
アヴェル様はしばらく黙っていた。
そして、ぽつりと言う。
「……待っている」
氷の侯爵と恐れられる人の顔は、まだ少し赤い。
けれどその表情は、もう氷のようには見えなかった。
その日初めて、私は、自分の名前でお返事をしたためた。




