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お嬢様の肩代わりをしてきた小間使いの私、駆け落ちしたお嬢様の代役で『氷の侯爵』様に嫁ぐことになりました

掲載日:2026/04/29

『――あなたなら、分かってくれるでしょう?』


 私はしばらく、置手紙に書かれたその一文を見つめていた。


 窓の外では、朝の光が白く揺れている。

 今日は、私のお仕えするセシリアお嬢様の、晴れの日になるはずだった。


 王都でも名高い、名門スレフィンド侯爵家。

 その若き当主、『アヴェル・スレフィンド』様との縁談が正式に整い、今日、侯爵家から迎えの馬車が来ることになっていた。


 なのに、お嬢様の部屋は空っぽだった。

 婚約のために用意されたドレスや宝石も、持って行くはずだった荷物も、ほとんど残されたまま。

 ただ、机の上に二通の手紙が置かれていた。


 片方はお嬢様のご両親へ。

 もう片方の宛名は、私。


『――リナへ。


 私、ノアと駆け落ちをすることにしたわ。

 愛のない結婚なんて、やっぱりできっこないもの。

 ノアは家柄やお金じゃなく、本当の私を愛してくれているの。

 彼は庭師だけれど、身分なんて関係ないわよね。


 私、真実の愛を見つけたの。

 あなたなら、分かってくれるでしょう?

 後のことは、いつもみたいに上手くやってちょうだい。

 

 セシリアより』


 手紙はそこで終わっていた。

 その衝撃の内容に、私は息をするのも忘れていた。


「今回も『分かってくれるでしょう』……ですか」


 お手紙の返事をすっかり忘れていた時も。

 夜会で話すべき相手を間違えた時も。

 お偉方への贈り物を選ぶのが面倒になった時も。

 お嬢様はいつも、困ったように笑って言うのだ。


 そして私は、いつも頷く。

 そうですね、分かりますよ……と。


「――セシリア? まだ準備ができないの?」


 背後から、伯爵夫人――お嬢様のお母様の声がした。

 私は振り返ることができなかった。

 夫人は部屋に入ってきて中を見回し、やがて机の手紙に気づく。


「……なに、これ」


 夫人の手が、手紙を取る。

 数秒後、屋敷中に悲鳴が響いた。




------




 私は拾われ子だ。


 幼い頃、雨の中で倒れていたところを、ラングフォード伯爵家の馬車に拾われた。

 身元は分からず、名前も曖昧だった私を、伯爵家は屋敷の片隅に置いてくれた。

 私が今も生きていられるのは、伯爵家の方々のおかげなのだ。

 だから、この家のために働くことに、何の疑問も持たなかった。


 最初は、ただの小間使いだった。

 けれど、お嬢様は字を書くのが苦手だった。

 難しい言葉も苦手だった。

 それから、社交界での立ち回りを考えるのも、あまり得意ではなかった。


「もー、わかんない! リナ、何て書けばいいと思う?」


 始まりは、その一言だった。

 とある音楽会に招かれた後、セシリアお嬢様は白紙の便せんを前に、固まっていた。


「素敵な音楽会でした、だけじゃダメなのー?」

「……駄目ではありませんが、どの曲が印象に残ったかや、席を用意していただいたことへのお礼も添えた方がよろしいかと」

「ええー? 難しいなあ。ちょっと、リナが書いてみてよ」

「わ、私がですか……?」

「そ。ほんとにちょっとでいいからさ」


 始めは本当に、少しだけだった。

 それがだんだんエスカレートし、いつしか、セシリアお嬢様が身につけるべき社交の務めの全てを、私が代行するようになっていた。

 流石にまずいと思った私は、何度もお嬢様の頼みを断ろうとした。

 しかし、その度に命を救われたことを持ち出され、私は頷かざるをえなかった。


 やがて、セシリアお嬢様は社交界で評判になった。

 聡明で気品があり、気遣いに満ちていて、どこへ嫁いでも恥ずかしくない令嬢。

 そう言われるたび、伯爵夫妻は満足げに頷いた。

 お嬢様は嬉しそうに微笑んだ。


 だから、お嬢様がアヴェル・スレフィンド侯爵様との文通を嫌がった時も、私は断れなかった。


「だって、とても怖い方だって噂よ? 私が下手なことを書いて怒らせたら終わりじゃない」


 お嬢様はそう言って、便箋を私へ押しつけた。

 アヴェル・スレフィンド侯爵。

 『氷の侯爵』という異名で有名な方だった。


 誰に対してもそっけない。

 夜会でもほとんど笑わない。

 話しかけられても、必要最低限しか返さない。

 ぞんざいに扱われた令嬢が泣いても、眉一つ動かさずに去っていく。

 そんな噂を聞いていた。


 最初に書いた手紙は、ただの季節の挨拶だった。

 できるだけ無難に、できるだけ失礼のないように。


 返事は、すぐに届いた。

 短い文面だったけれど、特段「冷たい」とは感じなかった。

 むしろ、貴族特有の余計な飾り文句が無く、やり取りしやすい文章だと思った。

 そこからしばらく、手紙のやり取りが続いた。


「リナ、またお手紙が来たわ。お返事よろしくね」

「お嬢様、少しだけでも目を通された方が……」

「今度ね。それじゃ私、今日はノアと約束があるから」

「あっ、お嬢様……」


 返って来た手紙を、お嬢様はほとんど読まなかった。

 庭師をやっているノアという青年にご執心だったからだ。

 流石に一つも読まないままでは、いずれ困るだろうと思っていたのだが……恐らく、お嬢様はその時から既に駆け落ち(このけいかく)を考えていたのだろう。


 そうして私は、セシリアお嬢様の名前で返事を書き続けた。

 最初は、ただの代筆だった。

 けれど、いつからだろう。

 アヴェル様からの返事が届く日を、私は少しだけ待つようになった。


 もちろん、その手紙は私宛てではない。

 アヴェル様が返事をしているのは、セシリア・ラングフォードお嬢様だ。

 分かっている。

 それでも、届いた封筒を見つけると、部屋へ戻る足取りがほんの少し軽くなった。

 その胸の高鳴りが、私の小さな秘密だった。




------




「――流石に無理があります!」


 私は思わず声を上げた。

 伯爵家の応接間には、重い沈黙が落ちている。


「……そうは言っても、既に門前にスレフィンド侯爵家の馬車が来ている」


 お嬢様のお父様――ラングフォード伯爵が言った。


「結婚予定の我が娘は、庭師と逃げて行方が知れません……などと、口が裂けても言えん」

「それは、そうですが……」


 侯爵家との縁談を、当日に反故にした。

 しかも、その令嬢は庭師と駆け落ちした。

 そんな噂が広まれば、王都中の笑いものになって、ラングフォード家の信用は地に落ちる。


「リナ、もう一度言う。お前がセシリアの代わりに行くんだ」


 伯爵は私の目をまっすぐ見て言った。


「で、できるはずがありません。私はただの小間使いです!」

「でも貴方、セシリアの代わりは得意じゃない」


 伯爵夫人が、青ざめた顔で言った。


「とりあえずセシリアのふりをして、極力動かずに……そうね、体調が悪いとでも言っておきなさい。落ち着いたら、あとでどうにかするわ」


 どうにか、だなんて。

 そんなことできるはずも無いのに。

 そのあまりに軽い言葉に、私は震えながら首を横に振る。


「侯爵様は、きっとすぐに気づかれます」

「――気付かれないようにするのがお前の仕事だ!」

「っ……」


 伯爵の怒声に、肩が跳ねた。


「お前を拾ってやった恩を忘れたのか」


 その言葉に、何も言い返せなくなる。

 私は、この家に逆らってはいけない。


「……わかり、ました」


 侍女たちに連れられ、私はセシリアお嬢様のドレスを着せられた。

 淡い空色の絹に、胸元に小さな真珠。

 鏡の中に映る姿は、自分じゃないみたいだった。


 小間使いのリナではない。

 けれど、ラングフォード家の令嬢でもない。

 ただの偽物だ。


「できるだけ顔を伏せていなさい。いい? 体調が悪いことにするのよ」

「……はい」


 伯爵夫人が言う。

 私は頷くしかなかった。

 馬車へ向かう廊下で、胸が苦しくなる。


 怖い。

 恐ろしい。

 侯爵様に見抜かれたら、どうなるのだろう。

 伯爵家は私を切り捨てるつもりだ。

 私は勝手に侯爵家を騙した小間使いとして、どこへも行けなくなるかもしれない。


 それなのに。

 本当に、ほんの少しだけ。

 心の中のわずかな隙間に、「アヴェル様に会える」という喜びがあった。

 そんなことを思ってしまった自分が、私は怖かった。




------




 スレフィンド侯爵家の屋敷についた。

 ラングフォード家のような華やかさはなく、家具や内装は落ち着いた色味で統一されている。

 始めて来た場所なのに、なぜか「落ち着く」と思ってしまった。

 その中を案内され、私は応接室へ通された。


 心臓がうるさい。

 どこどこどこどこ、まるで打楽器にでもなってしまったみたい。


 手袋の中で、じっとり汗をかいた指が震えている。

 膝なんかガクガクで、もう今にも崩れ落ちそうだった。


 ――ガチャ。


 応接室の扉が開く。

 入ってきたのは、ひどく美しい人だった。


 銀灰の髪。

 淡い青の瞳。

 すっと通った鼻梁に、薄い唇。

 まるで彫像のように整った顔立ち。

 この方が、アヴェル・スレフィンド侯爵。

 私は慌てて頭を下げた。


「本日は、お迎えいただき――」

「顔を上げてくれ」


 低く、落ち着いた声だった。

 私は言われた通りに、恐る恐る顔を上げる。

 アヴェル様は、じっと私を見ていた。

 その視線に、息が止まりそうになる。


 数秒。


 そののちに、彼は言った。


「……君は、セシリア・ラングフォードではないな」

「っ……!」


 終わった。

 そう思った。


「も、申し訳ございません!」

「謝るな。大方、私との縁談を嫌がったセシリア嬢が、身代わりを寄越したんだろう」


 淡々と告げられて、私は息を呑んだ。

 怒鳴られないことが、かえって怖かった。


「いえ、あの、私は……」

「君を責めているわけではない。少なくとも、この件を考えたのは君ではないはずだ」

「で、ですが、侯爵様は『他人に裏切られるのが何より許せない』と――あっ!」


 言ってから、血の気が引いた。

 アヴェル様が裏切りを特に嫌うというのは、手紙の中でだけ触れられていたことだった。


「……今、何と言った」

「い、いえ。何でもございません」

「誰から聞いた」


 返事ができなかった。

 アヴェル様は、じっと私を見る。

 冷たいはずの淡い青の瞳が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。


「……手紙を書いていたのは、君か」


 逃げられないと思った私は、小さく頷いた。


「はい。私が、書いておりました」


 アヴェル様は、一瞬だけ息を止めた。

 それから、なぜか口元に手を当て、視線を逸らした。


「そうか……君だったのか」


 私は言葉を失った。


「あの手紙は、君が書いていたのか」

「……申し訳ございません」

「謝る必要は……いや、あるのか。あるな。だが、謝るべきは君ではなく、ラングフォード家だ。いや、そんなことが言いたいわけではなく……」

「え……?」


 私は思わず顔を上げた。

 まさか、あの氷の侯爵が、言葉に詰まるだなんて。

 アヴェル様は片手を口元に当て、眉間に皺を寄せる。


「……少し待ってくれ。今、考えを整理している」


 そこでアヴェル様は黙った。

 視線がわずかに逸れる。


「…………すまない。どうやら私は今、困っているようだ」


 私は、どう反応すればいいのか分からなかった。




------




「ここだ。入ってくれ」


 通されたのは書斎だった。

 高い本棚に囲まれた、静かな部屋。

 中央の広い机の上には、いくつもの封筒が並べられている。


「これは……」


 すべて、見覚えがあった。

 私が書いた手紙だ。

 セシリアお嬢様の名前で送ったもの。


「……捨てていらっしゃらなかったのですか」

「捨てる理由が無い」


 アヴェル様は淡々と言った。


「ですが、ただのお手紙です」

「いや、甘すぎる菓子に合う茶葉の種類や、気に食わない相手との上手い付き合い方など……重要な情報が記されている」

「それは……差し出がましい真似をしました」

「違う」


 アヴェル様は、手紙に視線を落とす。


「感謝している」

「……え?」

「私は、人と話すのが得意ではない」


 彼は静かに続けた。


「何を言えば相手を傷つけずに済むのか、いつも分からない。黙れば冷たいと言われる。何か言えば、言葉が足りずに泣かれる。だから、必要最低限しか話さなくなった」

「そう、だったのですか」


 氷の侯爵。

 そう呼ばれる理由を、私は初めて知った気がした。


「だが、君の手紙には素直に返事を書けた」

「私の……?」


 アヴェル様は言う。


「初めてだった。誰かと話すのが『楽しい』と感じたのは」


 胸の奥が、熱くなった。

 私の言葉がこの人に届いていた。


「名前を聞かせてくれるか?」

「……リナ、です」

「リナ……! リナか、うん」


 アヴェル様は私の名を何度も反芻した。

 

「良い名だ」

「っ……」


 にこりと微笑まれて、息ができなくなる。

 何だか、たまらなくなって、私は手紙に視線を落とした。

 すると、どの手紙も端がよれているのに気が付いた。


「お手紙が、とてもくたびれています」

「あ、いや……違うんだ。決してぞんざいに扱っていたわけではなく、何度も封筒から取り出して読み返したからで……」

「……読み返されたんですか?」

「しまっ……」


 アヴェル様は慌てて口を抑える。

 けれど、もう遅い。

 やがて、観念したように溜め息をついた。


「……そうだ。その手紙を読むのが、日々の私の楽しみだった」

「何度ほど?」

「ぶっ!? か、回数を聞く必要があるか……!?」


 アヴェル様は後頭部をかきながら、顔を真っ赤にする。

 氷の侯爵の無表情の仮面が崩れていく。

 その様子が何だかとてもおかしくて、可愛らしくて、私はついつい笑ってしまった。




------




 それから、半年が過ぎた。

 私はまだスレフィンド侯爵家にいる。

 ただし、セシリアお嬢様の影武者としてではない。

 侯爵家の書類仕事の手伝いが、私のもっぱらの仕事である。

 それは、ラングフォード伯爵家で私がずっとしてきたことと同じだった。


 けれど、決定的に違うことが一つある。

 スレフィンド家では、それが私の仕事だと、きちんと認められていた。


「リナ、この計画について意見を聞きたい」


 アヴェル様は、そう言って私の名を呼ぶ。

 誰かの名ではなく、リナとして、私の考えを求められる。

 最初は、それが落ち着かなかった。

 けれど半年も経てば、少しは慣れる。

 ……少しだけ、だけれど。


「――今日は、ラングフォード伯爵家へ行く」


 朝食後、アヴェル様はそう告げた。

 私は手にしていたカップを落としそうになった。


「伯爵家、ですか」

「ああ。セシリア嬢の件について、最終的な書面を交わす必要がある」


 セシリアお嬢様は、まだ戻っていない。

 あの日、庭師のノアと逃げたきり、消息は途切れたり繋がったりを繰り返しているらしい。

 伯爵家からは何度も手紙が届いた。


 最初は、私にセシリアお嬢様の代わりを続けさせようとするもの。

 それがバレると次は、セシリアが戻るまで身代わりに差し出すというもの。

 言うことは、何度もころころと変わった。

 けれどアヴェル様は、そのたびに短く返した。

 リナ本人の意思を確認していない申し入れには応じない、と。


「伯爵家に、君も来てほしいと思っている」

「私も、ですか」

「嫌なら断っていい」


 アヴェル様は、すぐにそう付け足した。

 この方は、いつもそうだ。

 私に何かを頼む時、必ず逃げ道を用意してくれる。

 不器用な優しさだ。


「大丈夫です。参ります」

「無理はしなくていいぞ」

「無理ではありません」

「……そうか」


 アヴェル様は、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「では、その……私の隣にいてくれ」


 その言い方があまりに真面目で、私は思わず目を瞬かせた。


「お仕事として、でしょうか」

「仕事でもある」

「でも?」

「……それだけではない」


 アヴェル様はそれ以上言わなかったけれど、耳が少し赤かった。

 私はそれを、見なかったふりをした。




------




 半年ぶりに見るラングフォード伯爵家は、記憶よりも少しくすんで見えた。


 馬車が止まる。

 扉が開き、アヴェル様が先に降りる。

 そして、私に手を差し出した。


「え……」


 私は一瞬、固まる。

 小間使いだった私に、貴族の方が手を差し出している。

 しかも、ここはラングフォード伯爵家だ。

 私がずっと頭を下げてきた家。

 廊下の端を歩き、目立たないように過ごしていた場所。


「リナ、おいで」

「っ……」


 アヴェル様が私の名前を呼ぶ。

 私はその手に、自分の手を重ねた。

 ゆっくり馬車を降りる。

 玄関前に並んでいた伯爵家の使用人たちが、息を呑むのが分かった。

 伯爵と伯爵夫人も出迎えに立っている。

 伯爵夫人は、私を見た瞬間、目を見開いた。


「リナ……」


 名前を呼ばれた私は、静かに礼をする。


「ご無沙汰しております。ラングフォード伯爵、伯爵夫人」


 伯爵夫人の顔が、わずかに強張った。

 もう私は、この家の小間使いではない。

 伯爵はすぐにアヴェル様へ向き直った。


「本日はわざわざお越しいただき――」

「用件を済ませよう」


 アヴェル様は短く言った。

 相変わらず、言葉が少ないお方だ。

 応接室へ通される。

 かつて私は、この部屋に入る時、いつも茶器を持っていた。

 客として椅子に座ったことなどない。


「リナはここへ」

「はい……」


 だが今、アヴェル様は当然のように私を自分の隣へ座らせた。

 伯爵夫人が、かすかに眉を動かす。


「さあ、始めよう」


 書面の確認が始まる。

 セシリアお嬢様と、アヴェル様の縁談は正式に白紙。

 ラングフォード家は、当日の虚偽と影武者の件について、侯爵家へ謝罪文を提出。

 侯爵家側の準備にかかった費用の一部を賠償。

 今後しばらく、スレフィンド家からラングフォード家への社交上の後援は行わない。


 という、淡々とした内容だった。

 伯爵は悔しそうに唇を噛んだが、反論はできなかった。

 侯爵家が公に大騒ぎしなかっただけ、温情ですらある。

 やがて伯爵夫人が、耐えきれないように私を見た。


「リナ。あなた、侯爵家で……うまくやっているのね」

「はい。よくしていただいております」

「そう……」


 伯爵夫人の目が、私のドレスに落ちる。

 今日の私は、スレフィンド家で用意された淡い青のドレスを着ていた。


「それは、侯爵家で?」

「はい」

「……そう」


 夫人の声は小さかった。

 伯爵が咳払いをする。


「しかし、リナは元々当家で拾った娘です。侯爵家に置いていただいているのはありがたいことですが、そろそろ――」

「戻すつもりはない」


 アヴェル様が言った。

 低く、静かに。

 伯爵の顔が固まる。


「ですが……」

「彼女は物言わぬ置物ではない。本人の意思を確認せず、返すも戻すもない。彼女は自分で選ぶ」


 伯爵夫人が、唇を震わせた。


「リナ……あなた、戻らないの?」


 私はこの時、この家で初めて、自分の意思を口にする。


「――戻りません」


 はっきりと、夫人の目を見つめ返して言う。


「私はもう、セシリアお嬢様の代わりをすることはできません」


 伯爵夫人が泣きそうな顔をしたその時、扉の向こうが騒がしくなった。

 使用人の慌てた声に、誰かが走る足音。

 そして、応接室の扉が乱暴に開いた。


「――戻ったわ!」


 飛び込んできたのは、セシリアお嬢様だった。


 半年ぶりに見るその姿は、別人のようだった。

 美しく巻かれていた髪は乱れ、色褪せた外套を羽織っている。

 頬は痩せ、目元は泣き腫らしたように赤い。

 かつて社交界の花と呼ばれていた華やかさは、見る影もなかった。


「セシリア!」


 伯爵夫人が悲鳴を上げる。

 お嬢様は母親には目もくれず、私へ駆け寄ろうとした。

 けれど、アヴェル様が静かに立ち上がったことで足を止める。

 お嬢様の視線が、私とアヴェル様の間を揺れた。


「どうして……リナが、侯爵様の隣に座っているの」


 その声には、混乱と苛立ちが混じっていた。

 私は立ち上がる。


「お久しぶりです、セシリアお嬢様」

「リナ……ねえ、リナ、助けてよ……」


 お嬢様は泣き出しそうな顔で言った。


「私、騙されていたの。ノアは、私だけを愛していたわけじゃなかった。宿代も私に払わせようとして、宝石を売ればいいって言って……。それに、町娘にも、酒場の店員にも、すれ違っただけの旅人にだって、私に言ったのと同じ言葉を言っていたのよ」


 伯爵夫妻が青ざめる。

 お嬢様は続けた。


「ねえ、リナ」


 お嬢様は、あの日と同じ顔で言った。


「あなたなら、分かってくれるでしょう?」


 かつての私なら、頷いていた。

 泣いているお嬢様を見て、困っている伯爵夫妻を見て、拾われた恩を思い出して。

 また、すべてを肩代わりしていただろう。

 でも、私はもう一人ではない。

 それに、もう誰かの名前で生きたくない。


「――分かりません」


 私がそう言うと、お嬢様は目を見開いた。


「……リナ、嘘でしょ?」

「お嬢様の悲恋も、私に人生を押しつけたことも、分かって差し上げることはできません」

「そんな……だって、あなたはいつも助けてくれたじゃない」

「はい。これまでは」


 私はまっすぐにお嬢様を見た。


「ですが、これが最後の肩代わりといたします」

「そんな……!?」


 お嬢様の顔が、くしゃりと歪んだ。

 アヴェル様は、セシリアお嬢様へ静かに告げる。


「セシリア・ラングフォード嬢」


 お嬢様がびくりと肩を震わせる。


「恋に落ちることは、恥ではない」


 低く、静かな声だった。


「だが、その恋のために他人を身代わりにしたことは、恥だ」

「私は……ただ、幸せになりたかっただけなのに……」

「そのために、彼女の人生を使った」

「それは……」


 お嬢様は何も言えなくなった。

 私も、もう何も言わなかった。

 半年ぶりに戻ってきた伯爵家で、私はようやく、あの日押しつけられた人生を返した。


 お嬢様に対し、胸が痛まなかったわけではない。

 けれど、その痛みで自分を差し出すことは、もうできなかった。




------




 その日の夜。

 侯爵家に戻って来た私は、アヴェル様に「家を出るつもりだ」と告げた。


「セシリアお嬢様との縁談が白紙になった以上、私がここにいる理由はございません」


 そう言うと、アヴェル様は固まった。

 ほんのわずか、目を見開く。


「なっ……待て!」


 低い声に、私は反射的に肩を揺らした。

 すると、アヴェル様はすぐに眉を寄せる。


「……すまない。命令ではない」

「いえ」

「違う。今のはよくなかった」


 アヴェル様は真剣な顔で言った。


「私は、こういう時に何と言えばいいのか分からない」


 その言葉が、ひどく彼らしかった。

 完璧なほど整った顔立ち。

 冷たいほど美しい瞳。

 けれど中身は、言葉を選びすぎて立ち尽くしてしまう人。

 アヴェル様は懐から一通の封書を取り出した。


「だから、書いた」

「……お手紙、ですか」

「ああ」


 私は受け取る。

 封には、私の名前があった。

 『セシリア』ではなく『リナ』と。


 私は震える指で、封を開ける。

 そこには、アヴェル様の端正な文字が並んでいた。


『君の言葉に救われていた。


 人の多い場が苦手だと書いても、君は笑わなかった。

 菓子の量に困ると書いても、君は呆れなかった。

 ただ、次はどうすれば少し楽になるかを考えてくれた。


 手紙の相手が君だと知って、とても驚いた。

 だがそれ以上に、嬉しさがこみ上げた。

 手紙の相手に拒否されたわけではないのだと、気づいたから。

 私が待っていたのは、セシリア嬢ではなく、君だったんだ。


 これからは、誰かの名ではなく、リナ自身の名で返事を書いてほしい。

 そして、もし許されるなら、私の隣に立ってほしい』


 読み終えた時、私はしばらく動けなかった。

 顔を上げると、アヴェル様はまっすぐ前を見ていた。

 無表情を保とうとしている。

 でも、明らかに落ち着いていない。


 視線が少し泳いでいる。

 指先が、上着の袖口をわずかにつまんでいる。

 それから、白い頬がはっきり赤い。


「侯爵様」

「……読んだか」

「はい」

「そうか」


 声が硬い。

 私は手紙を胸元に寄せた。


「これは、求婚の申し出と受け取ってよろしいでしょうか」

「っ……」


 アヴェル様が完全に固まった。

 数秒、沈黙。


「……君がどう思うかが、大事だと思うのだが」

「違うのですか?」

「…………違わない」

「では、求婚ですね」

「………………ああ」


 アヴェル様はそこで、片手で顔を覆った。


「すまない。手紙でなら言えると思ったのだが、読まれた後のことを考えていなかった」


 私は、思わず笑ってしまった。


「氷の侯爵様でも、考え忘れることがあるのですね」


 アヴェル様は真剣な声で答える。


「そうだな……君に関することは、どうも失敗が多い」


 その言葉に、胸がきゅっと苦しくなった。

 こんなに美しく、こんなに不器用な人が、私の返事を待っている。

 それが、たまらなく愛おしいと思った。


「お返事は、手紙でもよろしいですか?」


 アヴェル様が、少しだけ目を見開く。

 それから、小さく頷いた。


「その方が、ありがたい」


 私は微笑んだ。


「では、今度はセシリアお嬢様の名前ではなく、私の名前で書きます」


 アヴェル様はしばらく黙っていた。

 そして、ぽつりと言う。


「……待っている」


 氷の侯爵と恐れられる人の顔は、まだ少し赤い。

 けれどその表情は、もう氷のようには見えなかった。


 その日初めて、私は、自分の名前でお返事をしたためた。

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