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最後の愛人

プロローグ的な感じのやつです。


「あーあ。終わっちゃった」


 豊かな赤毛を大きく広く大胆に寝台へ煽情的に垂らし、見る者をあっと魅了するかのように蠱惑的に潤んだ瞳は気怠げに薄く開いたまま。

 薄絹を纏っただけの際どい服装で寝転がる、女性として豊かな体つきの彼女を一度目にすれば異性はもちろんのこと、同性ですら息を呑む。


 ――もし最初からそうだったならば。


 この美貌があれば、どんな男や女ですらも虜にしてきた。

 嫉妬も羨望も劣情も、全てはこの美貌を更に輝かせてくれる心地よい調味料でしかなかった。


「なかったのに、なー……」


 思わず小さく苦し気に漏れ出てしまっていた呟きは、嫉妬も羨望も劣情も深く覆うような後悔や敗北感と共に、一人だけの寂しい室内で吐き出され消えた。

 まさか自分が、と思わないでもなかった。


 その感情は常に誰かから向けられるべきはずのもので、それを優越と共に見下し鷹揚に受け入れてあげるべきはずのものだった。

 それが、まさか、このように誰かへと自ら向ける時が来るとは思いも寄らなかったし、想像だにしなかった。

 ――苦い。ただただ苦い。


 今更何を言っても終わってしまったものは終わってしまったし、普段ならば引きずる事などなく、あっさりと忘れることだろう。

 しかし、――どうしてこうも、胸が苦しい。


 普段から意思が強そうなと言われる赤茶の瞳を見慣れた天蓋へと向けながら、マリアは先ごろのことを思い出して再びため息を吐いた。


『――終わりにしたいんだ。自分勝手ですまない。今までありがとう』


 何か言葉を返そうと思えば返せただろう。

 それが罵倒であれ感謝であれ了承であれ、何がしかの……返事を。


 ――出来なかった。


 もう思い出すに朧げな、今とは似ても似つかないほどにあどけなかった頃のように、こくり、とひとつ頷くのでやっとだった。

 ……もっと上手くやれる自信があった。


 なのに、結局出来たのは黙って彼を静かに見送ってやることだった。


「笑える」


 来るもの拒まず、去る者追わず。

 そうすることで自身を守っていたはずなのに、いつの間にこれほどの情が芽生えてしまっていたのだろうか。


「罪な人ね……」


 はあ、と艶のあるため息を吐いて、早く忘れようと目線を逸らした先に。

 捨てることも出来ずに放置していた上品な装飾の封筒が置いてあった。


 ――その中身はつい先日、彼の最愛の奥様から届いた手紙だった。


「――ごめんなさいね。わたしはとても身勝手で臆病なのよ」


 身体を起こし、封筒の中身を取り出し、読むのが何度目になるのか分からない文面をさらっと読み流す。

 不治の病に侵されていたとは思えないほどに綺麗で丁寧で、それはそれは信じられないほどに真心の籠った美しい文字だった。


『――親愛なるマリア様。

 このように一方的に文を送りつける無礼をお許し下さい。


 あなたとは夫との結婚前からの長い付き合いでしたから、

 このような扱いにさぞかし不愉快な想いを抱くのかもしれませんね』

「まったくもってその通りよ」


 何が親愛なるものか。

 散々バチバチとやりあった仲なのに、皮肉に過ぎる。


『許して、とは言いません。大いに怒って頂いて結構。

 なにせ一方的に送り付けてやったのは、実はただの嫌がらせですから』

「ふん……やっぱりムカつく女ね」


 さらっと読み流すはずが、狙ったかのようにちょくちょく挟まれる売り言葉に反射的に言葉が漏れてしまう。

 犬猿、とまではいかないが、長年冷戦状態だったのに。


「死に際だからって、図太い女」


 この手紙を書いた当時にはもう、彼女の身体がガタガタだったことは彼の様子から否応なく知っていた。

 手を動かすことすら苦痛であったはずなのに、そのままズラズラと想い出話にかこつけた嫌味がこれでもかと丁寧に書き連ねられていた。


 わたしが全く覚えていないような過去の些細な衝突すらきっちりと覚えているなんて、執念深いにもほどがある。

 このしつこさと文面だけ見れば実は元気に生きていました、なんて言われたほうがしっくりくるほどだ。


 こうして読み進めれば読み進めるほど余計に、先程とは違った意味の苦々しさに心の奥が苛まれる。

 なんて卑怯で狡猾で負けず嫌いな女。


「……言いたい放題言ってくれちゃって、まあ。これの文句を言おうにも既にこの世には居ないだなんて、とんだ言い逃げね」


 言われっぱなしは嫌いだが、どうにも相手が居ないのではもうどうしようもないと諦めるしかない。

 しかし、諦めるしかないと理解し納得しようとすればするほど、大きなしこりとなって心の奥深くに苦いものが残る。


「……本当に清々しいほどに嫌な女」


 それでもついつい何度も読んでしまうのは、こんなことで負けたと思われるのが癪だからかもしれない。

 そうしてぱらぱらと読み進めていくと、やっと彼女の本題が語られる。


『――と、まあ。

 このように過去を思い返したのは、マリア様に頼みがあったからです。


 不躾なのは承知の上ですが、どうか……。

 どうか、私が亡くなった後に、夫の傍に居て頂けませんでしょうか』

「――――」


 わたしも人のことは言えないが、彼女も彼女で自分勝手にもほどがある。

 そもそも頼む相手が間違っているのだ。


 どうして、わたしが頼みを聞いてやらないとならないのか。

 どうして、わたしが頼みを聞くと当たり前に思ってるのか。


『夫には、セドリック様には今までにも数多の愛人が存在していました』


 その通りだ。

 彼はいつもどこかで女を拾ってきては愛人としていた。


『けれど、長きを共にしようとする方はそれほど多くありませんでした』


 当たり前だ。

 望みの無い、こんな不毛な地位に好き好んで居座る女は少ない。


 ……いや、違う。

 皆、誰もが薄々と気付いてしまっていたのだ。

 この先は永久に存在しないのだ、と――。


『その中でもマリア様は、一番長く夫に寄り添おうとしてくれた方です。

 なのできっと、夫が最後に声を掛けるならあなただと思ったのですよ』

「――――」


 当初、これを読んだ時のわたしの気持ちは、どうしようもないほどに乱れて複雑なものだった。

 ふざけるな! と叫んで罵りたい激情と、彼の唯一愛した彼女からの評価が思いの外誇らしいものであったという喜悦と、けれどやっぱり超えられない線が存在しているのだと無遠慮に突き付けられたような嫉妬心と、もしかしたらという淡い想いと、それでも拭い去れない劣等感と、それはもう……それはもう心の中は複雑怪奇に荒れ果てた。


 こんな頼みなんざまるっと無視して嘲笑ってやろうと考えたし、その逆で今度こそ彼を奪い取ってやろうとも心は燃えあがった。

 かと思えば、彼女の身代わりにされようとしているかのようで不愉快だったし、それでもいいじゃないかと囁く不埒な心に翻弄された。


 そうして。一喜一憂しつつも彼女の言葉通り、最後に私のもとへと訪れた彼にわたしが出来たことなんて何もなかった。

 ――文字通り、なにも。びっくりするほどに、なにも。


 なんだかんだと期待を膨らませつつも、今か今かと待ち構えていた彼を出迎えたわたしに、彼は開口一番にこう言ったのだ。


『……マリア。君には長い間ずいぶんと迷惑をかけてしまった。私はずっと、ただただ逃げていたんだと、やっと受け入れられたんだ……。だからこれ以上、この想いからは――彼女から逃げたくはないと、思ったんだ。散々迷って寄り道して、結局は何もかも手遅れになるまで何も出来なかった情けない夫だったが……――終わりにしたいんだ。自分勝手ですまない。今までありがとう』


 そう、ひどく一方的で自分勝手で配慮の無い、最低で最悪な別れを告げてくる彼が最後に浮かべた淡い微笑みに、ああ、――勝てないな、と思わされた。

 心の底からついに、そう認めてしまったのだ。


 これは無理だ、不毛だ、不可能だ、――と。

 だから、


『――ああ。本当にありがとう。マリア』


 本当に心の底から嬉しそうに、愛おしそうに、何かを想い出して慈しむように自然と笑みを浮かべる彼に、――わたしは今更何を言うつもりなのか、何を伝えたかったのか、と言葉を全て奪われたのだ。

 そんなわたしに出来たことなんて、わずかに拙い頷きで彼を見送るくらいになったのだとしても、全くもって仕方がないことなのだ。 

 ――ずるい。


 夫婦そろって、なんてずるいのだろうか……。


「ずるいずるいずるい! ――なんてずるいの!」


 わぁ! っと髪を掻き毟りたい衝動に駆られ、幼い言葉で最後の記憶となった彼の後姿に文句を言う。

 しかし、途中で彼が過去に『綺麗な髪だ』と褒めてくれた記憶が蘇って、どうにも宙に手を上げたまま勢いが止まってしまう。


「はぁ……」


 もう、去った彼に明け渡すための情念は必要無いはずなのに、それでも淀みのように溜まっていた想いはなくならない。

 ……最初から、手に入らない男であることは分かっていた。


 極上の女を前に手を出すこともなく、少し話をするだけして、最低限も触れることなく愛人扱いする彼を面白いと、面倒が少なくて楽だと、ただそれだけのはずだったのに――。

 いつしか彼の訪れを待ちわび、必死に話に華を咲かせて引き留め、不能かと疑うくらいにはいくら誘惑しても全く手を出さないのに、どうしてわたしを愛人にしたのかと悶々とした日々を過ごした。


 彼がとっかえひっかえ多くの愛人を抱えているのは知っていたから、すぐに焦りのような感情に囚われて何がダメなのかと、捨てられるかもしれないと、ひそかに怯えてひとりで涙したこともある。

 今思えば何もかもがダメで、何もかもが意味の無い感情であったが。


 だって彼は最初から、誰にも手出しなんてしてなかったのだ。

 馬鹿馬鹿しい。それに尽きた。


 結局は、誰もが上辺で見せかけの愛人だったのだ。

 ――まるでおとぎばなしの王子様とお姫様のように愛されて、愛されているのだと勘違いしそうなほどには完璧な。


 けれど、綺麗なおとぎばなしではやっぱり深い関係なんて描写されることがあるはずもないから。

 だからわたしたちは彼にとって、どんなに彼の愛を錯覚しようとも、それに準じた人形のような存在以下でしかなかったのだ。


 だからこそ、自我を出し、欲を出し、舞台からはみ出たらもうお役御免なのだ。

 そのところを良く分っていない思慮も知恵も想いも浅い愛人は数多く居て、そういう自尊心の塊のような、自分が最も可愛くて愛されるべきだと勘違いしていた女こそが特に容赦なく脱落していったのは必然だった。


 一時、大切にされているから手出しされないのだと思い込もうと可哀想な自分を慰めたのが、ただの夢見がちで頭の弱かった阿呆でしかなかったのだと今ならば分かる。

 そうやって早々に裏に気付いて、表面上は彼にバレないくらいには上手く割り切って過ごしてきてしまったのだから、わたしは未練たらしくも最後の最後まで残ってしまったのだろう。


 本当に彼は最初から、――昔から彼女しか見ていなかったのに。

 これが分かってしまえば答えは単純明快だった。


 わたしたちはいわゆる替えの利く練習だったのだ。

 ――彼女を愛するための。


 どうしてこんなひどいことをしてるのか、

 どうして彼女に直接想いを伝えないのか、

 どうして勘違いさせるよう振る舞うのか、

 どうして、どうして、どうして、

 ……なーんて、聞いた途端にお別れだ。


 彼の想う彼女の存在にやっと気づいて、過去に居た愛人の一人が憤って彼をそんな風に問い詰めている現場に偶然居合わせたことがある。

 そして彼の答えは、別れの言葉すらも言わずにその愛人のもとを一方的に去るという最低で無責任で逃げという形であった。


 その愛人は何故かひどく驚いていたけれど、当たり前だ。

 彼は彼が考える以上に、彼女以外にはあまりにも無関心なのだから。


 そうでなければ、こんなに甘くて優しいひどく残忍な罠を平気で寵愛するはずの女へと仕掛けられるものか。

 その愛人は、当時はわたしと同じくらい表面上は彼の寵愛を受けていると周囲に思われていたから、根拠のない自信があったのかもしれないが。

 それは紛うことなく、まやかしだった。


 だからあっさりと。


 本当に、何の未練もなくあっさりとその女を捨ててしまった彼を見て、わたしは思い知ったのだ。

 どんなに勘違いするほどの愛を彼から感じようとも、彼の心の隅にですらわたしたちは住み着けていないのだと。


 ――勘違いしてはいけない。


 これはもはや意地の張り合い、ただの我慢比べだった。

 さっさとかつての愛人のように捨てられてしまえば、また別の幸せを見つけられたのかもしれない。


 ――けれど、わたしはそれを選ばなかった。


 捨てられた彼女にしても、色々気付いていたのだから、後はちょっとした我慢が足りなかったのだ。

 勘違いして彼の地雷を問い詰めるだなんて、よほど与えられた一時の夢に浮かされたのか、彼からは別れを切り出さない自信か根拠でもあったのか。

 馬鹿馬鹿しい。それに尽きた。


 ――わたしはそんなヘマはしない。


 そう思って、ずっと彼の傍に居続けた。

 もしかしたら、という想いが消えなかったのもあるのかもしれない。

 それでも、と偽りで見せかけでもこの関係を終わらせたくはなかった。


 けれど、――結局は彼から別れを告げられてしまった。


 ああ、なんて滑稽なのだろうか。


 しがみついて、食らいついて、真実に気付けずに嫉妬に狂うだけの愚かしい他の愛人を嘲笑って、それでも、と傍に居続けたのに。

 ……終わりはもっと惨めになるだろうと日増しに陰ながら、いつかその日が来るのを指折り怯えていたのに。


「はぁ……」


 脱力、というのだろうか。

 疲れとはまた違う感覚が全身を襲っていた。


「ずるいなぁ……」


 そう呟きながら、一人寝の寂しい寝台へと乗り上げる。

 その片手には、まだ奥様からの手紙が握られていた。

 そこには、――


『――もしも、彼が別れを切り出すようなことがあったとしても。

 出来る限りでいいですから、傍に居てあげてほしいのです。


 私はもう、彼を置いていくしかない身の上ですから。

 少しでも余生が寂しくないように寄り添っては頂けないでしょうか。


 勝手なお願いであるのは重々承知しておりますが、

 それでも私は彼が寂しくないよう、あなたに話相手になってほしい。


 あなたが彼を見つめる目と、浮かべる笑みを知っていますから。


 常々腹立たしく思っておりましたが、今となっては

 彼の傍を安心して任せられるのはマリア様だけでしょう。


 あなたが彼を傷つけないことを、

 ――最後まで残ったあなたのことを、私は最も信じていますから』


 まるで全てお見通し、とでも言わんばかりで非常に気に食わない。

 死んだ後もひとさまの恋情を利用しようとは、とんでもない女である。


「――ずるいなぁ……!」


 なによりも、彼がそうするだろうと確信するような文面に。

 彼女が去ってから、わたしが彼に取るだろう行動を予測する自信に。


「――でも、残念ね」


 だからわたしは泣かない。むしろ笑ってやるのだ。

 これは我慢比べ。今更わたしが最後の最後でヘマをするわけがない。


「奥様の思っていた以上に、セドリックは妻を愛していたのよ」


 ざまあないわ――。


 あなたの代わりなんて、なってやらないし、なれるとも思えない。

 何より、垣間見える独占欲と嫉妬をふと読み取れば、どうせこれも想定内のうちだろう。


 愛されていた自信があるからこそ、愛人だった女にとられないと確信している思惑が丸わかりである。

 しめしめと思って行動すれば最後、余計彼にあなたを想い起させて増々想いを募らせてしまうことだろう。


 ――このまま彼から綺麗な想い出のまま去るのが、不毛な恋をし続けた、わたしにとっての大正解なのだ。


「ぅ、ふ……」


 正解、……なのだから。

 ……わたしは泣かない。


 正々堂々とした素敵な恋だったと、いつかあの世で堂々と彼女に笑ってやるのだ。


「ぁああああ!」


 泣かない。

 あんな傍迷惑で人騒がせな夫婦のせいでなんか、絶対に。


 この涙はきっと、あれだ。

 年を取ると涙もろくなってしまうと聞くし、きっとそれに違いない。


 美貌に未だ陰りはなく、年と共に増々熟していっているけれど、やはり歳は取りたくないものである。

 何かにつけて涙が止まらなくなってしまうのは、歳のせいなのだから。


『もし話相手が難しいのであれば、文通相手でもいいですよ』

「うるさいのよぉ、ばかぁ……!」

『旧知の友人としてなら、夫も受け入れやすいと、』

「よけいなおせわなのよぉ、ばかぁ……ッ」


 思わず握っていた便箋を寝台の外へと放り投げてしまった。

 しばらくそのまま床に落としていたが、結局ちらちらと思い浮かぶ彼の微笑みを想い出して拾って汚れを払ってしまった。


 ずるい……ずるい……。


 何度読んでも腹立たしいのはこちらだ。

 しおらしくも一方的に頼み事をしておいて、微塵も譲る精神がどこにも感じられないとはどういう了見だろうか。


 こんなに嫉妬深くて嫌味で、どうしようもなく負けず嫌いで、わたしと同じくらい独占欲の塊のような女だったのに。

 そんな女なのに、あんなに彼に愛されているだなんて――。

 全くもって納得がいかない。


 あんな女のどこが良かったというのか。

 わたしと一体、どれほどの違いがあったというのだろうか。


 彼にあそこまでの顔をさせてしまう彼女とわたしに、

 死んでもなお、彼の心に居座れる彼女とわたしに、どれほどの――。


「ばかばかばかぁ……何もかもずるいのよぉ……なんで死んじゃったのよぉ……ずるいのよばかぁ……ッ」


 ただでさえ生きているうちに勝てる見込みも無かったというのに。

 死んで記憶になってしまったらもう、勝ち目なんて見出せないのに。


 ずるい、ずるい、ずるい――。


 年甲斐もなく、思いっきり声を出して嗚咽を漏らしてしまったのは。

 最後に、綺麗な姿で彼に会うために無理に我慢を重ねたせいだった。


 儚い願望であったとしても、綺麗なまま、彼の彼女の記憶の片隅にでも、狭苦しくとも我が物顔で居座りたかった。

 別れのたびに、みっともなく泣き喚いていた他の愛人たちとは違ったのだと、そう、覚えていてほしかった。


『マリア――』


 勘違いさせるような、優しくて甘い声。

 彼女が去って、やっぱりただのお零れだったのだと突き付けられて。


 もう、そのお零れは終わってしまったのだと現実を悟って。

 それでも未練たらしく、また彼の声が聞きたい、だなんて――。


 ……ああ、やっぱりなんて不毛な想いだったのだろうか。

 彼の記憶の片隅に居つけるかも分からないのに、わたしの記憶も想いも彼でいっぱいなのだ。


 みっともなく彼に縋りついて慈悲を乞いたかった。

 可哀想な女でしょうと、泣き喚いて泣き叫んで離れたくなかった。


 けれど、もう、全部終わったこと。


 わたしはもう、自ら選んだのだ。

 この不毛な恋を選んだ時と同じ。


『ありがとう』


 そう言って笑った彼を見て、やっとわたしは悟ったのだ。


「ほんと、ずるいのよ……」


 きっとわたしは、彼女を愛した彼に恋をしたのだ、と――。


「……もういっそ、どこか遠くへ旅に出ようかな」


 思いっきり泣き叫んだせいでしわがれた老婆のような声と、真っ赤に腫れあがっているのかじくじくと痛みだした目元を感じて、ふとそんなことを思い付いた。

 かつては踊り子として各地を旅して回っていた。


 彼に恋して、気付けばだらだらとここに居着いてしまったが、もともと一所に留まるような可愛らしい性分ではないのだ。

 多少、踊りの腕は鈍っているかもしれないが、この美貌と経験があれば何も問題ない。


 彼の傍に居た間はひょっこり乙女のように振る舞ったりもしたが、もうそれも必要がなくなった。

 もともとさっぱりした行動派の性格なのだ。決断は早かった。


「……よし! とりあえず、明日中にはここともおさらばね!」


 きっとわたしが出奔しても彼は気にも留めないだろうけれど、もしも彼女の手紙を持っているなんて知れたら話は別である。

 せっかく気持ちの整理が大変だったのだから、これ以上かかずらうつもりは毛頭ない。


 ――まあでも、この手紙はこのままわたしがもらっていこう。


 だって、もしも彼にこれを渡して、それはそれで彼女の思惑通りだ、だなんてことになったらとっても悔しいじゃない。

 そんなことを考え、彼女のなんともいえないと言いたげな顔を想像して、最近色々と暗い話題しかなかったせいなのか、それともいつからか感情を意図的に抑制していたのを今日やっと解放出来たせいなのか、どちらなのか、それ以外でも構わなかった。

 わたしは久々に心の底から素直な想いで笑えた気がしたのだから。


 ――明くる日、軽快な足音とともに、わたしは故郷より長く留まってしまった、愛すべき彼の国を振り返ることもなく、迷うことなく去ったのだった。

短編ではちらっとしか語られなかった、愛人たち側の視点です。

それも最後のひとりとなった、マリアさんの失恋話。


セドリックの罪深さが更に露見してしまった……。

一話目から、なんか救いようのない感じのあっぱれなクズっぷりでしたね。


愛とは複雑怪奇なものと知るものなり。

今後のマリアさんに、幸あれ!


次回は、「長男の場合」

明日の同じ時間に予約投稿されます。


短編でそこそこ重要な役割をこなした例の長男の内心は、

クズい父への反応は幾許かっ!?


というわけで、マリアさんが好きになったら是非この話に「いいね」下さい。

ついでに感想とかも貰えると嬉しいです。


では次回お楽しみに。

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