守るための戦い
後先などは考えていなかった。自分の足音しかしない山の中で、今更孤独になったのだという実感がわいてくる。命の匂いのしない冷たい大地を、オリヴィアは一人歩いていた。荷物もまともに持たずに出てきた自らの浅はかさに苛立ちを覚える。一本の剣と、そこにくくりつけていた僅かな持ち物だけが、今のオリヴィアの全てだ。
だが、過ぎたことを悩む時間はない。レジスタンスがブライアンを追う気がないというのなら、オリヴィアが彼を捜すしかない。今己がせねばならぬことは何なのか、それを考えるのが先決だ。――本当のところ、孤独になった意味を考えれば考えるほど、前に進めなくなりそうだったのである。
取るべき行動は限られている。イアンが襲われたのがコルチなのだから、ブライアンもその近辺に居ると考えるのが自然だろう。駿馬でも、この短時間でヘルブラオ山脈を越えて王都に戻れるとは考えづらい。レナードから叩き込まれた地理が今更役立っているのは、とても寂しいことに思えた。
「フラン、か……」
最初の目的地は、かつて仲間と訪ねた村に決めた。快くは思われないにしろ、魔導士だと知られても安全な場所ではあるはずだ。実のところ、コルチで人が居る場所をそこしか知らないのだが、あの村までなら一人でもたどり着ける。隠れ家では不在だったクロエは、どうやら出産の近づいた女性に付き添う形で村に滞在しているらしい。彼女なら、コルチのことにも詳しいだろう。
疲れは残っていたが、休むわけにはいかなかった。新しい隠れ家はやや東に移ったため、西にあるコルチまでの距離伸びているが、それでも一日あれば十分たどり着けるはずだ。飛び出したときにはまだ顔を出していた太陽は、気がつけば輪郭のように細い月に役目を交代している。大凡の位置を星の位置で確認しながら、オリヴィアは歩いた。下手な場所に迷い込めば、野盗に襲われる恐怖もある。身体を休めている間に見つかる可能性もある。志半ばで倒れるわけにはいかないのだ。立ち止まった後、進むべき道に迷わないように、歩き続けるのだ。
大丈夫。私は、やれる。
そう、心を奮い立たせながら。
いつしか薄明が星の光を吸い込み、太陽の光が満ち始めた頃、遠くに炊煙を見つけた。殆ど意地と変わらない意識で、オリヴィアは歩いていた。碌に荷物も持たずに飛び出したので、食事すらまともに摂れてはいなかった。意識が飛びそうになる度、自らの両頬を叩いて戻ってきた。もう少し、もう少しでフランだ。そう自分を励ましたとき、オリヴィアは異変に気がついた。
「……あれは」
上がっていたのは炊煙ではなかった。魔物の群れが、村を襲っている。村人の抵抗の痕が、その炎なのだ。そう悟って、オリヴィアは狼狽える。
――まずい。
自分でもどこにそんな体力が残っていたのかと驚くほど、自然と足が前へ前へと動き出す。行かなければ。そのために、オリヴィアは今こうしてここにいるのだから。瞬く間に息が上がる。邪魔な腰の鞘は捨てて、抜き身の刃を手にその場所へ急ぐ。
何も植えられていない畑を横切って、オリヴィアは村にたどり着いた。真っ先に飛び込んできたのは、村の男の雄叫び。
「この、野郎!」
男は火のついた松明を振り回しながら、勇敢にも必死の抵抗をしている。周囲に女性と子供の姿が見えないのは、既に逃げ出したからだろう。黒い異形の怪物は、男の繰り出した殴打をものともせずに、その鋭い爪で男を貫こうとした。
「――危ないっ!」
勢いよく地を蹴って、その爪が男の身体に届く前に、殆ど反射的に庇うように立った。魔力の籠もった核へと、刃を突き立てる。音もなく崩れおちた魔物を見て、僅かに安堵を覚えた。
「……怪我は」
オリヴィアが短く尋ねると、男は荒く乱れた息を整えないまま、強く首を横に振った。
「あんた、一体どこから……っ」
オリヴィアの様子を見ていた男が数人、駆け寄ってくる。一太刀で魔物を倒したのは、彼らにとって理解を超える出来事だったのかもしれない。その問いに答えている時間はない。男達の背後に迫る魔物を目で捉えて、剣を構え直した。
「とにかく、逃げてくれ!」
言いながら人を押しのけると、次倒すべき怪物へ一直線に走る。感情のない魔物は、ただ目の前に現れたオリヴィアを排除すべき敵と認識し、その体を闇雲に振るう。大振りの攻撃を、身を捩って避ける。平衡を失った体を支えようと足を出したとき、身体に限界を感じた。
自らの身体を立たせるという、その役目すら放棄しそうになる足で無理矢理懐へ踏み込む。殆ど力の込められていない腕で、核を一突きにした。これで魔物は二つ数を減らすこととなったが、それでも見渡せば両手で足りないほどは居るだろうか。
まだやれる。身体の悲鳴に聞こえないふりをして、次へ向かおうとした。
「ジョージのところが、嫁の避難も出来てねえ! 身重なんだ!」
耳に響いたひときわ大きな声に、オリヴィアは振り向く。「あっちだ!」と助けを呼ぶ男達に頷いて、示された方向へ向かおうとした。
「――あ、あつっ」
足元に熱を感じて、オリヴィアは咄嗟に退く。地面など見ていなかった。いつしか燃え広がっていた炎が付近を包んでいるのだ。藁と木ばかりでできた家は、悲しい勢いで瓦礫と化してゆく。
「くっそ、もう……」
諦めの声が上がるのも、無理もないのかもしれない。家の建ち並ぶ町並みは、最早炎の壁でしかなかったのだから。風で舞い上がる煙が目に入って、思わず強く瞑る。躊躇を振り払うと、オリヴィアは剣を構えた。
「他に、逃げ遅れは!?」
戦きがオリヴィアの語調を荒げる。居ない、という返事にほっとして、心を落ち着けようと深呼吸した。
「今、行く!」
「無理だ! 危なすぎる!」
引き留めてくれる村人に内心で感謝すると、オリヴィアは走り出した。腕で顔を庇いながら、一直線に逃げ遅れの夫婦がいるという場所へと向かう。
分厚い炎の壁が、一切の侵入者を拒んでいる。吸う息が熱い。身体が内側から焼かれているようだ。彼らは無事だろうか。今オリヴィアを動かしているのは、自分にもできることがあるのだと、そう思いたいという意思の力だけだった。
「無事か!?」
火の海を越えたその場所にはには、三つの影があった。女性と、それを庇う男性と――クロエだ。ジョージという名の男は、鋤を片手に魔物を遠ざけようとしていた。腹を抱えて蹲る女性が動けないのだ。女性の肩を支えるクロエは、真っ先にオリヴィアに気付いて、
「――リヴィ!」
殆ど泣きそうな声で、彼女は叫んだ。
「今、たすけ――」
その瞬間、オリヴィアは、全ての時が止まってしまったような錯覚に陥っていた。とうとう目前まで迫っていた漆黒の化物は、ジョージに狙いを定めると、魂を砕く一撃を放つ。助けなければ。足が、上手く動かない。助けないと。早く、行かないと。助けたいんだ。――何故、身体がいうことを聞かないのだろう。
駆け寄ろうとしたオリヴィアは彼を救うに少しだけ足らず、地面を空しく転がった。
「ううっ……」
諦めず立ち上がろうとしたとき、鮮血を浴びた。
「いっ――いやああああああっ!」
聞こえたのは、女性の金切り声。心臓を一突きにされた男の身体は怪物の腕に刺さったまま、操り人形のように宙をぶらり、ぶらりと舞っている。吹き飛ぶ血潮が、オリヴィアを、クロエを、そしてたった今夫を失った女を赤く染め上げていく。鉄の臭いが鼻を刺した。感情の無い生き物は、人形となったばかりの物体を無慈悲に投げ捨てる。事切れた男の身体は、その血を大地に吸わせてゆく。命が散る瞬間を、オリヴィアは見ていることしかできなかった。
殆ど腕の力で立ち上がる。足を引きずって、怪物を追う。オリヴィアを見た途端に、怪物は目標を変えたようにこちらに迫ってきた。――化物は、命を一つ奪ったからといって攻撃を止めやしないのだ。ほぼ気力だけで攻撃に備えて剣を構える。重力に任せて身体ごと剣をねじ込むように、怪物の命の源を破壊した。音も無く、脅威は砂と化していった。勢い余って、オリヴィアの身体は地面に叩きつけられる。
「あ……あっ……っ」
声にならない声が、女性の喉から止めどなく漏れている。肩で呼吸をしているオリヴィアの視界は、足りていない息のせいか黒く塗りつぶされていた。身体中を走る激痛が、遠のく意識を辛うじてオリヴィアに留めている。目の焦点もままならないオリヴィアは、耳だけが明瞭に嘆きの音を捉えつづけることに悔しさを覚えていた。
「リヴィ、大丈夫……?」
クロエだ。気遣わしげに肩の辺りを揺すられる。微睡むような意識の底から引き戻されて、オリヴィアは地面に転がったままクロエを見ていた。血と泥に塗れたオリヴィアの身体を確認するように数度、彼女の目が行き来する。
「大きな怪我は、無いね。火傷は少し……。よかった……」
オリヴィアの手を握ると、クロエはそれに縋るように泣きじゃくる。困惑していたとき、突如耳に衝撃が走った。
――そうだ。まだ終わったわけでは無いのだ。
音で少なくとも二、三体が接近していることを知る。無理だ、と悟った。勝ち目が無い。己の身体はもはや、満足に働いてはくれない。
そう思ったとき、頬に衝撃が走った。クロエに手の平で打たれたのだ。
「リヴィ! アンナさんも! 立って!!」
クロエは力強く彼女の頬を伝う涙を拭うと、オリヴィアの腕を引っ張る。彼女はまだ生きることを諦めていない。どうせ死ぬなら、足掻くべきか。そう考えれば、まだ生を放棄するには早いように感じた。
剣を支えにすれば、何とか立ち上がることができた。酷使に酷使を重ねた身体が軋むが、痛いのは生きているからだ。――大丈夫、やれる。
「クロエはこの人を。私がなんとかする」
「駄目。逃げるの。行くよリヴィ」
有無を言わさないクロエは、女性を支えながらオリヴィアを促す。そうこうしている間に、魔物の足音が近づいてきている。――時間切れだ。
「大丈夫。私に案があるんだ」
嘘だ。答えを待たずに、オリヴィアはクロエから目を逸らした。
「……リヴィの馬鹿!」
その通りだ、と同意する。そして、「死ねないな」とぼんやりと思った。クロエはきっと、オリヴィアが死んだら泣いてくれる。泣かせてしまう。悲しませたくなくて剣を取ったのだ。ここで命を落としたら、本末転倒ではないか。
ゆっくりながらも、クロエはアンナと呼ばれた女性と共にオリヴィアから距離を取り始めた。オリヴィアは息を一気に吐き出す。肺を空にして、身体中の空気を入れ換える。片手で持っていた武器を、両手で持ち直した。慣れない持ち方だが、力一杯戦うならこれでいい。低く構えて、魔物の襲撃を待った。
まずは、一体目。容赦無く振り下ろされた爪を、すんでの所で躱した。風圧がオリヴィアの髪を揺らす。次の攻撃を伏せてやり過ごすと、一気に距離を詰める。狙うは、魔力の核。人間で言うところの心臓を、両手で思い切り振り下ろした剣で破壊する。息つく暇も無く、襲いかかる二体目に警戒する。
数の多さも、弱点を突かねば倒せぬ特性も厄介ではあったが、その方法さえ知っていれば大した脅威ではない。迷わず懐に滑り込んで、一体目と同じように葬ろうと振りかぶる。
もはや剣術とも言えぬ、幼子が玩具を振り回すような動作。自分でそう自覚できるほど、酷いものだった。ついてきた結果も仕方ないものだったのかもしれない。耳に不快な金属音が響いた。受けた衝撃が腕に伝わって、指先から痺れてゆく。
――武器の重みが消えたように感じたが、それは痺れが生み出す幻覚ではなかった。魔物が砂になってゆくのと時を同じくして、剣の上からちょうど半分が、地面を滑っていった。折れたのだ。たった一つのオリヴィアの武器は、持ち主の希望と共に折れ去った。
背後に次が居るのは、気配を隠そうともしない足音で分かっていた。だが、ではどうしろというのだ。オリヴィアは、地面を膝で突いた。迫っている驚異を前に、また震えることしかできないのか。――何も変わっていなかった。そう、絶望した。
身体に衝撃を受けた。死を覚悟した。地面に叩きつけられて、咳き込む。
何故だろう、暖かいのは。死ぬというのは、こういうことなのか。そうだとすれば、悪くない。誰かに抱き締められたような感覚だった。そう思ったのもつかの間、その暖かさはあっさりと離れて行ってしまう。
「……この、馬鹿」
ルークの声だった。呆気にとられているオリヴィアには、彼が一陣の風のように見えた。あっという間に絶望を振り払うと、ルークはオリヴィアに手を差し出した。
「子守は御免なんだがな」
迷わず手を取ると、引っ張り起こされる。状況が掴めずにいるオリヴィアを、ルークは呆れたように小突いた。
「目を離すとこうだ。まったく……」
「なんで、ここに……」
隠れ家を出たとき、ルークは休んでいたはずである。行き先も告げずに飛び出し夜通し歩いていたオリヴィアに、追いつけるはずがない。と、空から聞き慣れた鷹の鳴き声がした。――セイロウだ。それを指差してルークが、
「案内してくれた。馬で飛ばして、間一髪間に合った」
「……ありがとう。心配を掛けて、すまない」
ルークは不思議だ。何故だか、彼がいると心細さも吹き飛んでしまう感じがする。
「そう思うなら、お前はもう少し考えてから行動しろ」
軽く咎められて、オリヴィアはふっと笑った。と、全身から力が抜ける。足元が覚束なくなるのを、ルークに支えられた。
「なんか……疲れた、な」
「――頑張ったな」
ルークに掛けられたその言葉が、何故だかとても嬉しく感じる。
「クロエに診て貰うぞ。歩けるか?」
オリヴィアの元に来る前に、クロエに会ったのだと彼は言った。彼女が無事であるというだけで、ほんの少しでも自分を肯定できる気がした。