アルテル=レッドファーンの葛藤
森のそばの大樹のような外観をした薬屋、アルテル薬剤店。
その店主、薬師アルテル=レッドファーンは見目麗しい若妻を娶り、それはそれは幸せに暮らしている。最寄の町では、仲のよい二人だと誰もが言う。
春先に結婚した二人。けれど出会ってから思えば今で二度目の秋なのであった。
まだ涼しさを感じるよりも暑い日が続いた初秋の頃のこと。
アルテルの伴侶であるシェンティーナことシェラは、いつものごとく最寄のジーファの町までアルテルと買出しに出かけた。シェラは二人で歩く道中がとても好きだ。アルテルは手をつないで歩くようなタイプではないけれど、付かず離れずの距離にいる、それだけでシェラは幸せであった。秋風になびく亜麻色の髪を押えつつ、上機嫌で長身のアルテルの横を歩く。アルテルは丸い眼鏡の奥から優しい瞳をシェラに向けていた。
結婚してもうすぐ半年。幸せな時間は瞬く間に過ぎた。こんな幸せがいつまでも続けばいいとそればかりを願う。時折、この幸せを失う夢を見て恐ろしくなって震えていると、隣で眠っていたはずのアルテルがいつの間にか目覚めて抱き締めてくれたりもした。
大切な、大切な人。
そうした相手が一人いてくれるだけで、人生とはこうも華やかに彩られるものなのだと、アルテルに教えてもらった。
町を歩くと、二人を見知っている人も多い。
「いつも仲良しだねぇ」
と冷やかし半分の声がかかる。照れるシェラとは対照的に、アルテルはごく自然に笑顔で受ける。
「ええ、そうですね」
そういうところはやはり大人だと思う。こんな些細なことにも惚れ惚れするけれど、それは内緒にしておこう。自分ばかりがアルテルを好きなようで少し悔しいから。
シェラはアルテルと一緒に買い物をするけれど、いつも途中で一度別れるのだ。何故かというと、シェラには仲のいいティケという友達がいて、その彼女が働く雑貨屋に顔を出しては会話に花を咲かせるからである。
アルテルはいつも、自分がいない方がいいだろうと気を利かせてシェラをしばらく雑貨屋に残して行ってくれる。こうして女同士で話すのが、町へ出て来た時のシェラの楽しみのひとつでもある。
今回は少しばかりティケに訊きたいこともあった。
「じゃあ、先生、また後で」
いつまでも先生と呼んでしまうシェラにアルテルは軽く微笑んで手を上げた。
「ん、後でな」
その背中を見送りつつ、シェラは雑貨屋の扉を潜った。いつもと変わりないドアベルの音がカランと鳴る。少し古びて傷が目立つカウンターの向こう側で、帳面の整理をしていたティケがパッと顔を上げた。
「いらっしゃ――」
「こんにちは」
と、笑顔で店内に足を踏み入れたシェラに、ティケは満面の笑みを浮かべて迎え入れてくれた。少しそばかすの浮いた、それさえもよく似合うかわいらしい顔立ち。まっすぐなセミロングの髪がティケの動きに合わせて大きく揺れる。
朗らかな彼女は表情もよく動く。
「シェラ! よかった、近いうちに会いに行こうかと思ってたの」
「そうなの?」
うん、とティケは大きくうなずいた。そうしてシェラに向けて手招きをする。店内には二人の他に誰もいないというのに、何故かティケはカウンターから身を乗り出すと、シェラの耳に口を寄せて小声でささやいたのである。恋人ができた、と。
「ええっ!!」
思わず大声を出してしまったシェラは、慌てて自分の口を押えた。
ティケに恋人ができたと。それはとても喜ばしいことである。それ自体は不思議でもなんでもない。ただ、それによって泣いてしまう人間が一人、シェラの身近にいたのである。
フレイという庭師をしている少年なのだが、シェラたちの結婚式で出会ったティケをとても気に入って周りをちょろちょろとしていた。本人に確認を取ったのでこれは事実だ。
それで、折を見てティケにそれとなく、フレイが恋愛対象になるか訊ねようとしていた矢先の出来事である。
――もしかして、その後シェラの知らぬ間にフレイががんばってティケを射止めたなんてこともあるかも知れない。シェラは思い切ってにこにこしているティケに訊ねてみた。
「恋人って、どんな人? 私も知っている人?」
恐る恐る様子を窺うと、ティケは素直にうなずいた。
「うん、知ってるわ。だってあなたたちの結婚式で知り合ったんだし」
これは――と、シェラは手に汗を握りながら言った。
「もしかして、フレイとか?」
すると、ティケはきょとんとして目を瞬かせた。
「え? フレイくん? やだ、違うわよ」
あはは、と笑われてしまった。浮かばれないなとシェラは密かに思った。こうなったら仕方がないのでフレイのことはひとまず置いておく。
「じゃあ、誰?」
正直に言ってさっぱりわからなかった。アルテルの親友、ジェサードに憧れていた時期もあったティケだけれど、ジェサードにはちゃんとお似合いの恋人がいるから彼ではない。
見当も付かないシェラにティケは幸せいっぱいといった様子でその名を語った。
「ギャレットさんよ」
ギャレット――アルテルが薬を卸している診療所で雑用の仕事をしている青年だ。人当たりもよく、優しい。ティケとは性質が似ているかも知れない。その名を聞いて、ああ、と妙に納得してしまったのも二人の相性がよさげだとシェラにも思われたからだ。
「ギャレットさんはいい人だものね」
「ええ、話していてすごく楽しいわ」
フフフ、とティケは嬉しそうに笑った。その様子にシェラも今になって嬉しさが込み上げて来た。自分がアルテルに感じるような気持ちをティケも感じているのだとしたら、それは本当に幸せなことだから。
「おめでとう、ティケ」
そうささやくと、ティケは更に笑った。
「あら、気の早いセリフね。でも、結婚もいずれはって思ってるからまあいいわ」
「そう。じゃあその時になったらまた言うわね」
そんな会話をしていると、雑貨屋に新たな客が訪れた。恰幅のよい女性はどうやら常連客らしく、慌しく声を上げた。
「こんにちは、ティケ! 急いでるの、いつものやつお願いね」
「いらっしゃいませ、バーナードさん!」
ティケは愛想よく答えてカウンターから抜けた。シェラは邪魔にならないように壁際へと下がる。そこからテキパキと棚の上のビンを取り、手早く箱に詰めて行くティケの仕事振りをぼんやりと眺めた。シェラは自分なら急かされたら商品を落として割ってしまいそうだと思う。事実、割るだろう。
そうしていると、いつの間にかシェラの隣には雑貨屋の女将さんがいた。小柄でとても柔らかい雰囲気の女性だ。
「あら、いらっしゃい、シェラちゃん」
「こんにちは、女将さん。お邪魔しています」
シェラも丁寧に挨拶して返すと、女将は口もとに手を当ててまるで悪戯っ子のような目をした。
「シェラちゃん、もう聞いたかしら? 彼のこと」
「ええ、ついさっき」
「お似合いだからよかったなと思うのよ。ええ、それはほんとにもう。でもね」
と、女将はため息をついた。
「ティケはお客様からの評判もいいから、お店を辞めてほしくはないのよね。結婚しても子供が産まれるまでは来てくれると助かるんだけど」
とても気の早い話である。シェラは苦笑してしまった。
「ティケも仕事が好きですし、もしそうなってもギリギリまで働きそうですけれど」
「そうねぇ。ああいう働き者の娘をお嫁さんにできたら果報者よね。ギャレットさんもお目が高いわ」
「ええ、本当に」
シェラはティケのことをとても誇らしく思った。明るくて気が利いて、働き者で。シェラにはないものをたくさん持っている彼女。そんなティケはとても素晴らしい奥さんになるだろう。
自分がお祝いしてもらった分、シェラもたくさんお祝いして返そうと今から幸せな気持ちになった。
――けれど、ふと考えてしまった。
なんでもテキパキとこなすティケは、誰に訊いてもいいお嫁さんになると答えてくれるだろう。そのティケのようにはなれないシェラは、果たしてアルテルにとっていい奥さんなのだろうか。
アルテルの仕事は複雑で、シェラが手伝えることは限られている。本当に家事くらいしかできていない。その家事も、割と失敗する。この間もソテーしていた豚肉をこんがりを通り越して焦がしてしまったし、グラスも今月すでにふたつ割った。
優しいアルテルは少し焦げた豚肉も食べてくれたし、割れたグラスの片付けも手伝ってくれた。嫌な顔はしていなかったように思うけれど、内心ではどうなのだろう。
「……じゃあ、帰ります。ティケによろしく伝えて下さい」
ぼそ、とシェラは女将にそれだけ告げると雑貨屋を後にした。
外に出ると、木枯らしがヒュウと吹いた。いつの間にか太陽が翳って曇り空だ。秋の空は変わりやすい。
ぼんやりと空を眺めて立ち尽くしていた。
毎日が幸せだから深く考えることをしていなかったシェラだけれど、本当はそれではいけなかったのだ。アルテルのためにできることをもっとたくさん探して、誰から見てもいい奥さんだと言われるようになりたいと改めて思う。
思えば、ほとんど成り行きでの結婚だったのではないだろうか。もしあの時、店に働きにやって来たのが他の誰かだったとしても、アルテルなら優しく迎え入れて仲睦まじく過ごしていたのではないだろうか。
そう思ったら妙に寂しくて、シェラはしょんぼりと項垂れた。
しばらくぼうっとしていると、ようやくアルテルがやって来た。紙袋を片手に、外で待ちぼうけしているシェラを見て驚いた風だった。
「シェラ? なんだ、外で待ってたのか?」
「お店が忙しそうだったから、邪魔をしちゃいけないと思って」
と、シェラはアルテルに笑いかける。アルテルはそうか、と短く答えた。
「寒くなかったか?」
「はい、平気です」
そうは答えるけれど、心が寒い。自分は贅沢だ。
アルテルの隣を歩きながら、ティケとギャレットのことをアルテルに話した。アルテルはただ目を瞬かせる。
「そうなのか? 診療所に寄って来たから顔を合わせたのに、そんなことひと言も言ってなかったな」
「照れくさいのかも知れませんね」
と、シェラも苦笑した。
「ギャレットさんならティケのことを大切にして下さると思うんです。ティケにも幸せになってほしいですから、よかったです」
それはシェラの正直な気持ちである。大切な友達の幸せを願う心に嘘はない。
「そうだな、よかったな」
アルテルもそう言って微笑んだ。荷物のないシェラは空いている手をアルテルの腕に伸ばし、抱き込むようにして寄り添った。優しいアルテルはうっとうしく思ったりはしないだろうか。
「どうした、寒くなったのか?」
なんてことを優しく言って来る。
「……はい、少し」
そういうことにしておこう、とシェラはアルテルの腕にしがみつきながら思うのだった。
※※※
その翌朝のこと。
朝食にはローストしたバゲット、チーズ入りスクランブルエッグ、ベビーリーフとハムののサラダの他に一品多くスープを付けてみた。そうして、向かい合ったアルテルの目を見てシェラは至極真面目に言うのであった。
「先生」
「うん?」
朝が弱いアルテルは寝ぼけ眼で返事をした。
「私にできることがあったらなんでも言って下さい」
何故かしばしの沈黙があった。アルテルは眠気を飛ばすようにして首を左右に軽く振って、それから改めてシェラに目を向ける。
「なんだそれは?」
「何って、言葉の通りですよ」
もっといい奥さんを目指すのだ。頼りにされたいし、認められたい。そんなシェラの意気込みは、アルテルにはイマイチよく伝わらなかった。不思議そうに首をかしげ、そうして手を合わせて朝食を食べ始めた。
こっちが真剣に言っているのに、アルテルは聞き流す。シェラは少しムッとして続けた。
「お店のこともですけど、私はもう少しできることを増やして行かなくちゃいけないと思うんです。私は、その、先生の奥さん、なんですし……」
言葉が尻すぼみになって消えて行く。自信がないから強く言えない。胸を張って妻ですと言えるように、そんな自分になりたいと思うのに。
すると、アルテルはシャクシャクと小気味よい音を立てつつサラダを噛み締め、それを飲み込んでからぽつりと言った。
「お前はよくやってくれてるから、別に無理して今まで以上のことをしなくてもいい」
アルテルの言葉は優しい。その言葉に甘えてここまで来た。だけど、それでいいのかと自問した結果なのだ。
「無理と言うか……実際、それほどお役に立てているかは……」
「シェラ」
ふぅ、とアルテルは嘆息した。呆れられたのかとシェラは身を硬くした。
けれど、アルテルは苦笑しただけであった。
「難しく考えるな。今まで通りでいい」
今まで通り。それは、シェラなりに役に立つようになりたいという思いが挫かれたような、そんな気にもなる。
「私は先生のいい奥さんになりたいんです。だから、もっとがんばらないとと思って……」
「がんばるって、何を? そもそも、いい奥さんっていうのは誰が決めるんだ? 俺じゃないのか?」
「……わかりません」
と、シェラは言葉に詰まってしまった。上手く言えない。
いい奥さんというのは、誰から見てもいい奥さんで、例えばティケのようにテキパキとした朗らかなタイプがそうなのではないかと思う。そう思い至ったけれど、それを口にする勇気がなかった。
それもそうだな、とアルテルに思われたくないのだ。それならシェラが成長するのを待たず、テキパキとした朗らかな女性を捜した方が早いと気付かれたら、それが怖い。
アルテルは今度こそ少し呆れたようだった。無言で朝食を食べ出した。その後、会話が続かずにギクシャクしてしまったのは、やはりシェラが悪いのだろうか。
※※※
シェラがまた何かおかしなことを気にし始めた。アルテルにとってはまったく予測のつかないことである。
もともと自分を卑下する癖はある。多少鈍臭いのも事実ではある。
けれど、だからと言って結婚を後悔したことは一度もない。むしろアルテルの方が年若いシェラを結婚という形で縛ってしまっていると気に病むこともある。
それでも、どうしても隣にいてほしいと願ったからこそのことだ。
どう言えばシェラは納得するのだろうか。それを考えたら上手く伝えられそうになくて、結局黙ってしまった。
幸せな生活の中、何も憂うことはないはずが、気づけばお互いに不安の種を探すようにして抱えている。おかしなものだと思った。
失いかけた過去があって、そうして今があるのに、どうしても人は贅沢になってしまう。そばにいることが当たり前になって、欲が出てしまう。
結婚生活というのは難しいものだな、とアルテルはぼんやりと考えた。
ジェサード辺りに言わせると、愛情表現が足らないんじゃないか、とか言われそうで嫌だから相談はしないけれど。
それからというもの、少し雨が続いた。
秋の空は変わりやすい。女心と同じだと誰が言ったのだったか。
窓の外、ガラスを伝っては流れて行く雨粒をなんとなく見遣った。止む気配はない。けれど、そろそろ薬草畑へ行って採取したいものもいくつかある。そんなことを考えていたことがシェラにも伝わったらしい。
「薬草畑に行きたいんですか?」
そう言われた。
シェラはトレイにハーブティーを乗せて作業机に近づくと、それを邪魔にならないように端っこにコトリと置いた。少し肌寒さを感じる中、湯気が目にもあたたかい。
「ん、ありがとな。そうなんだが、雨が止みそうにないから、また今度でいい」
絶対に行かなければいけないというほど差し迫ってはいないのだ。後日、雨間にでも行ければそれでいい。なのに、シェラはトレイをギュッと抱え込んでどこか嬉しそうに言った。
「私、行って来ますよ。必要な薬草はどれですか?」
雨が降れば辺りは薄暗い。それに地面もぬかるんでいて、シェラならば転ぶかも知れない。転んでけがをするかも知れないところに行ってほしいとは思わないのだ。
「いや、今度でいいんだ。それより、こっちの――」
そう言いかけたアルテルの言葉を遮り、シェラはムッとして言う。
「私、それくらいできます。行って来ます」
どうしてそう頑ななのか。アルテルは少し呆れた。
数日前からやたらと肩肘を張っている。自分が役に立っていないと気にしすぎだ。そんなことはないと言っているのに、どうしてそれで納得できないのだろう。
「シェラ」
少し強い口調で言うと、シェラはびっくりして固まった。アルテルはそんなシェラを抱き寄せると、そのまま口付けた。シェラが抱き締めたトレイが二人の間にあって、それがアルテルには邪魔で仕方がなかったけれど、それでもシェラの気持ちが解れるように長くキスを続けた。シェラの腕から力が抜けて、滑ったトレイが床に落ちた時、アルテルは改めてシェラを抱き締めると耳元でささやいた。
「お前に行かせても、心配で仕事が手につかない。だから、行かなくていい」
すると、シェラの華奢な指がアルテルの背中の辺りを握り締めた。なんとなく震えているのは何故なのか、アルテルにはわからない。
「ごめんなさい」
そのごめんなさい、の意味も、どうしてもわからなかった。
※※※
夜の暗いうちに動くからアルテルが心配するのなら、朝早くにしよう。シェラは早朝に朝食の支度を済ませると、アルテルに置手紙だけして薬草畑へ出かけることにした。薬草のストックをチェックして、これが足りないものに予測はつく。
昨日の晩よりは雨脚も弱まって、出かけるなら今だと思えた。カゴの他に傘を持つ。今は傘を差さずとも空は持ち堪えてくれるように見えるけれど、いつ本降りになるとも限らない。念には念を、だ。
アルテルが目を覚ます前に帰って来たいのだが、どうだろう。よく眠ってはいた。
心配してくれるのは嬉しいけれど、これくらいはできるというところを示したいのだ。
そもそも、そう遠いわけではない。足もとが少しぬかるんで滑りやすいのは確かなので慎重に進んだ。薬草畑は雨に塗れつつも、薬草はピンと背筋を伸ばすようにしてしっかりと生えている。アルテルが丹精込めて育てている大切な薬草だ。シェラはその一本一本を丁寧に刈り取る。
誤って踏んでしまわないように気をつけつつ、最低限の量だけを採取した。乾燥させて使うものでない限り、あまり採り過ぎても余らせて鮮度が悪くなる。使えなくなって捨ててしまっては元も子もないのだ。降って雨を軽く払うと、それをカゴの中へしまう。
「これでよし」
ふぅ、とひとつ息をついて薬草畑から抜けた。ちゃんと薬草を採取できて、シェラなりにほっとしたのだ。とはいえ、帰り道にも注意は必要である。足もとが滑りやすいので、途中の木をつかんで転ばないように気をつけた。だだ、その時、手に提げていた傘が木の根にひっかかり、シェラはその傘に足を取られた。
「あっ!!」
とっさに手をついた、それもよくなかった。木の根もとには先の尖った大きな石が埋まっていたのである。ザクリ、と手を切った。思った以上に傷の幅は広く、手の平を縦断する傷口は付着した泥を洗い流すような勢いで滲み出た。
血の色を見て焦るシェラに追い討ちをかけるようにして雨がシェラの両肩に降り注ぐ。ハッとして見上げると、雨雲はいつの間にか色濃く渦巻いていた。ズキズキとうずく手を庇いながら傘を差そうとしたら、転んだ時に傘は曲がってしまったらしく、不自由な手ではろくに開かなかった。
開かない傘をギチギチと鳴らして格闘していると、薬草をばら撒いたことにも気づいて、シェラはそれを慌てて拾った。血が雨と混ざってオレンジ色をしていたスカートと白いブラウスにべったりと染みつく。洗濯が大変だと少し泣きたくなった。
すっかり濡れそぼってなんとか店に戻ると、一階のカウンターにアルテルがいた。体の左半分を血で染めたシェラの姿にアルテルが目を剥いたのは無理もないことである。
「すみません、転びました」
はにかんだ笑みもアルテルの表情を和らげるには至らなかった。雨で血が広がって、かなりの怪我に見えたのだろう。とっさに声も出ないアルテルに、シェラは玄関先から手の平を見せた。
「少し手の平を切っただけです」
すると、アルテルは体を震わせ、いつになく静かに怒っていた。
「昨日、行かなくていいって言ったよな?」
「え、あ、ま、まあ……」
あまりの声の低さにシェラはたじたじになる。けれど、アルテルの目は据わっていた。
それから無言でカウンターの中から出て来ると、シェラの手を引いた。傷の具合をじっと見て、その手を放すと外から水を汲んで来て、それで傷口を洗ってくれた。
その後、引き出しや棚から薬やガーゼを取り出して治療し、包帯を巻いてくれたけれど、その間にこりともせず、終始無言のままだった。それを終えると、アルテルは丸眼鏡の奥からジロリとシェラを見た。シェラが固まっていると、アルテルはひと言ぼそりと言った。
「今日はもう何もしなくていい」
それだけを。
シェラは頭が真っ白になった。
手を怪我をしたから、それでは不自由だろうと気遣って言ってくれているのかも知れない。けれど、少なからず呆れてもいる。動けば世話ばかりかける、と。
役に立ちたいと空回るシェラには、何もしなくていいと言われたダメージは大きかった。
その後、アルテルはさっさと仕事に取り掛かり、時間になれば昼食を作り、そして夕食を作り、風呂も沸かしてくれた。夕食のキノコのクリーム煮はシェラが作るより多分美味しかった。けれど、アルテルはいつも以上に無口で、最低限度の会話しかしなかった。こちらから声をかけられる雰囲気もない。
何もしないのに、こんなに疲れたのは久し振りだった。
不自由な手を庇いながらなんとか風呂に入るけれど、アルテルはさっさと眠っていた。ベッドの上で窓の方を向いて眠っている。シェラはその隣にそっと滑り込んだ。そうして、アルテルの広い背中を眺める。
こんな風に背中を向けて寝られたことが今まであっただろうか。そう思ったら切なくて、シェラは体を丸めて強くまぶたを閉じた。けれど、涙がじんわりと浮いて来て、泣きながら眠った。シェラがしゃくり上げていてもアルテルは起きる気配がなかった。
何もかもが上手くいかない――。
※※※
ひく、と背中の辺りでシェラがしゃくり上げる振動が伝わった。そうまで泣かなくてもいいと思うけれど、シェラは悲しいのだろうか。
その振動が落ち着いて寝息に変わるのを確認すると、アルテルは体を起こして窓際に置いてあった眼鏡をかけた。ほんのりとした薄闇の中、体を丸めたシェラの横顔に涙の跡がある。それをアルテルは起こさないように指で拭った。
怒っている、というわけではない。血みどろで帰って来て驚きはしたけれど。
ただ、シェラは優しく諭しても聞かない。大丈夫だと突っ走る。その危うさを本気で怖いと思うアルテルは、少しくらい懲りてほしいのだ。
だから今度ばかりは優しくしなかった。シェラが少しは気を付けなければと思うように、なるべく厳しくしてみたのだ。けれど、こうして傷付いたように泣きながら眠る姿を見ると、それがシェラのためになるのかどうかもよくわからなくなった。
どんな危険からも守れると思うほどには自分は傲慢ではない。無用な危険は回避できるようにしてほしい。大切だから、失くしたくないから、そうした思いはわかってほしい。
疲れたように眠る横顔に、アルテルはそっと口付けた。
※※※
翌朝、シェラはいつもよりも早く目覚めた。ぼうっとした頭を起こすと、意識するでもなく立ち上がる。振り向いた先にアルテルは仰向けに眠っていた。端整な寝顔は起きる気配もない。
シェラはしょんぼりと着替えを持って部屋を出た。まずは炉に火を入れる。その火が勢いを増すまで、シェラは自らの肩を抱きながら考えた。
アルテルを怒らせてしまったのは、自分の勝手な行動だ。素直に謝れば済むことなのかも知れないけれど、それが根本的な解決なのかどうなのかはわからない。謝るにしても、きっかけがほしかった。今は何か一人で密林の中にいるような、そんな心細さを感じた。
こういう時、ティケなら相談に乗ってくれるだろう。無性に彼女に会いに行きたかった。
シェラはどうすべきなのか迷いながらも、あたたまりつつある部屋の中で着替えた。それから、パンと卵を焼いてスープを作って、簡単な朝食を用意した。――アルテルの分だけ。
やはり、町へ行こうと思う。迷いが晴れない。このままでは今日もアルテルに笑顔を向けられない自分になりそうだ。
心配はさせたくない。それでもされてしまうのもわかるから、シェラは置手紙をした。
――街に行って来ます。昼までには戻ります。
少しでいい。ティケの笑顔を見たら元気をもらえる気がする。
いい奥さんになりたいと思うのに、勝手な行動ばかりだ。そうは思うけれど、心が上手く受け入れられない。
物音を極力立てないように気を付けて外へ出た。アルテルには気付かれなかった。
なるべく急いで道を行く。一人で町へ行くのは久し振りな気がした。曇った空は必死の形相で急ぐシェラのためにか泣き出すのを待ってくれていた。
息せき切って雑貨屋のそばまで走ると、開店に合わせてティケが脚立に乗って看板を下げているところだった。
「あら? シェラ、今日は随分早いのね?」
おはよう、と今日は隠れているお日様のような笑顔をシェラに向けてくれたティケ。
その顔を見た途端にシェラはぽろぽろと泣き出してしまった。ティケは慌てて脚立から下りる。
「どうしたの?」
驚いたティケにシェラはまっすぐに向かって抱き付いた。ティケの柔らかな肩に頬を付けて泣くシェラの背中を、ティケは優しく摩ってくれた。
「アルテルさんと喧嘩でもしたの?」
喧嘩と言っていいのかもよくわからない。シェラが空回ってアルテルを呆れさせてしまったのだ。
「私、いい奥さんになりたいのに、全然なれない。何をやっても上手く行かないの。先生には迷惑ばかりかけて、呆れられてて……っ」
自分で言って、余計に情けなくなる。けれど、ティケはクスリと笑った。
そうして、シェラの体を少し離して泣き顔と目を合わせる。
「ねえ、シェラ、いい奥さんってどんな人のことを言うの?」
「え?」
「お料理上手? それともお掃除?」
「……全部」
ぐす、と泣きながら言うと、余計に笑われてしまった。
「あそう。でもね、お料理上手でもお掃除上手でもいい奥さんとは言えないんじゃないの?」
ティケの言葉に、シェラは面食らってしまった。涙も止まって目を瞬かせていると、ティケは見惚れるくらい綺麗に笑った。
「そんなことにも気付いてないとは思わなかったわ。あたしだって結婚したらあなたたちみたいに仲のいい夫婦になりたいって思ってるんだから」
ティケが自分たちのようになりたいと言ってくれた。それくらい、傍目には幸せそうに映っているのだろうか。事実、幸せではあるのだ。
すると、ティケは言った。
「いい奥さんって、旦那さんのことが本当に大好きな奥さんのことなんじゃないかって、あなたを見ていて思ったのよね。だからね、アルテルさんにとってのいい奥さんは、アルテルさんのことが一番好きなシェラにしかなれないの。だから、シェラはちゃんといい奥さんよ?」
誰よりも大切で、大好きな人。その気持ちがあればそれだけでよかった。
気持ちが日増しに大きくなるから、欲張って幸せをたくさん抱え込もうとした。そうしてすれ違った。
そんな簡単なことすら見失って、何を意気込んでいたのかと馬鹿な自分に自分で呆れた。
「そう、だった。私、ティケみたいに気が利いて優しい奥さんになりたいって欲張ってた。ないものねだりばっかりで空回ってたね。……ありがとう、ティケ」
涙の跡を拭いて苦笑したシェラに、ティケもうなずく。
「あたしもいつかはいい奥さんになるつもりはしてるから。お互いがんばりましょ」
やっぱり、ティケに会いに来てよかった。曇った心に爽やかな風が吹いた。
「朝から押しかけてごめんね」
「あたしはいいけど。アルテルさんが心配するから、気を付けて早く帰りなさいよ」
「うん」
手を振って、別れた。
このまま急いで帰りたい気持ちと、またしても呆れられてしまうかも知れないという怖さがあった。シェラは商店街へ向い、今晩の夕食は腕を振るおうと、カボチャとパプリカ、鶏のもも肉、オレンジを買って帰路に着く。ちゃんと予定通りの時間までには戻れるだろう。
帰り道、シェラはまず開口一番に何を言おうかと考えた。まずはごめんなさい、だろうか。いつもそうだ。それくらい、自分はアルテルを振り回している。
けれど今はごめんなさいよりも言わなくてはいけない言葉もあるような、そんな気がした。
とぼとぼと歩いて、そうして並木道を抜けると、大樹のような我が家が見えた。
そうして、その店の入り口にある段差のところにアルテルがぽつりと座っていた。何をするでもなく、ただぼんやりと座っている。あれは、シェラを待っていてくれたのだろうか。シャツ一枚の薄着では風邪をひいてしまう。
アルテルの丸眼鏡の下の瞳がシェラを認めても、アルテルはそこから立ち上がらなかった。ぼうっとシェラを眺めるように見つめている。
シェラはそこから駆け出した。途中で荷物を放り出すようにして手放すと、座り込んでいるアルテルの首に飛び付く。
「シェラ?」
アルテルは怒っている風ではなかった。ただ、シェラの行動に少し驚いてはいた。シェラはアルテルの首に回した手を首筋で滑らせると、その頬を包んで唇を重ねた。アルテルは一瞬動きを止め、けれどすぐにシェラの腰に腕を回して体を寄せた。そのうち、主導権は奪われたような気がしないでもない。
それでも、ようやく目を見ることができるようになると、シェラはやっとの思いで言った。
「――……です」
「なんだって?」
消え入りそうな声を上手く拾ってはもらえなかった。小首をかしげたアルテルに、シェラはもう一度言った。
「大好きです、先生」
そういう言葉が出ると思わなかったのか、アルテルは思わず笑っていた。真剣に言ったのに、とシェラは膨れた。
「どうした?」
「どうしたって、どうもしません。感じたままのことを言っただけです」
すると、アルテルはそんなシェラをもう一度強めに抱き締めて、それからつぶやいた。
「心配だからって、俺がうるさくいうのは束縛で、シェラには息苦しく感じられたりするのかと、少し不安になってた。ありがとう」
そのうちに愛想を尽かされると不安になるのはいつもシェラの方で、アルテルがそんな風に感じているなどとは意外だった。いつでも優しい、大切な人だ。
シェラはアルテルの腕の中でささやいた。
「私以上に先生のいい奥さんになれる人はいないんです。やっとそれがわかりました」
「遅い」
「ええっ」
クスクスと、アルテルはシェラの肩の辺りで笑っている。その声がとても楽しげで、幸せそうに思えたのは気のせいではないはずだ。
この人を愛しいと、誰よりも幸せにしたいという気持ちは誰かに負けるものではない。だとするなら、ティケが言ってくれたように、アルテルにとって自分はいい奥さんなのだ。この気持ちを忘れず、共に過ごす日々に感謝しながら生きて行けたら、こんなにも幸せなことはない。
そう、それはお互いにとって。




