2、外因
「こらあ、広瀬! 遅れる時は連絡せんかあ!」
着替えて道場に入った途端、案の定の怒鳴り声。
「はいっ、すみませんでした!」
深々と一礼し、末席に座る。
板の間をこする足音が、道場の天井をこすって響いている。
模範試合をやっているらしい。
部員がずらりと正座して見守る中、体格のいいふたりの剣士が、竹刀を構えてにらみ合っていた。
一合も打ち合ってない。 なのに見た途端、勝敗はわかってしまった。
手前の剣士、白の側。 後姿だが、わかる。
背中を見た途端、廉の全身が粟立った。
この人は、怖い!
白の鮮やかな突きで一本が決まり、模範試合は終った。
負けたのは、去年まで現役大学生で剣道部だった、顧問の吉見先生だった。
「こりゃ、広瀬。 お前だけまだ自己紹介がすんどらん。
わざわざY高から、全国大会級の弟子を引っ張ってきて本物を見せてやろうと思ったのに。
遅刻の罰だ。 この、かなをとやって負けろ」
「はあッ?」
廉の声が裏返った。
命令したのは、工藤師範だ。
顧問ではなく、近所の道場からボランティアでコーチに来ている。
枯れ木のような体格の爺さんだが、さすがに道場主は技も指導も衰えがない。
「はあ? じゃないぞ、広瀬!
いやなら遅刻の理由、ここで言うか?」
吉見先生が言うと、2年の一部で笑いが起こった。
どうやら、誰かに見られていたらしい。
「師範、お願いがあります。
せめて、勝てと言ってやらせて下さい」
かなをと呼ばれた先輩が、面を付けたまま言った。
静かで怖い、剣と同じ印象の声だった。
「勝てって言ったって勝てるわけがない。
負けるのがわかってやるから、罰にも薬にもなるんじゃろ?」
工藤老師がケラケラ笑う。
「それでも!」
びん、と腹に響く声で、かなをが反論した。
「それでも戦う時には、勝つためにのみ剣を取ります。
でなければ剣の前に自分と戦えません」
「あーわかった、もー真面目な男でかなわんわい!
やれやれ」
老師はひとつ、咳払いをした。
「ということで、広瀬!
頑張って、勝ってみろ!」
マジですか?
足運びがおぼつかない。
踏み出した途端、転びそうな気がする。
剣先が下がる気がする。
上げても上げても、下がっていく気がする!
ずるずる下がる剣先の向こうに、気迫のかたまりのような長身がある。
怖い。
どこかに隙はないか。
気の目で、相手の全身を探る。
早くしないと、かかって来るぞ。
早く。
早く。
ふと、胴回りに目をやって、妙なものが見えた気がした。
相手の胴の所に、名前が白く書き込まれている。
「金魚」
‥‥きんぎょ!?
「めん!」
鮮やかな足捌きを見た。
同時に、視界がズン、と揺れた。
「面! 一本、白!」
「こらあ! 広瀬! 一刀両断かあ!」
「サイテーだなお前、ノータッチノーガードかよ!」
「捨ててんじゃねーこら、謝れッ!」
席に戻ると同時に、3年の先輩達にバコバコ殴られた。
「負けるにしても、あんまりひどかったなあ」
吉見先生が溜め息をつく。
工藤老師は頭をぼりぼり掻いた。
「しょうもない相手ですまんな、かなを。
ついでにひとこと、広瀬にアドバイスしてやってくれ」
「アドバイスですか」
低い声で言いながら、かなをが面を外した。
坊主頭がよく似合う、いかにも日本男児という感じの顔立ちの男だった。
面をつけていると大人っぽく見えたが、高校生の顔だ。
「ええと、広瀬、か。
お前、なんに気を取られた?」かなをが言った。
「あ‥‥名札、です」
「キンギョかよ! ってか」
「すみません」
「死ぬぞお前」
「は‥‥い?」
「目の前を、本物のキンギョが泳いでたとしても、気を取られたほうが死ぬ。
本来、剣はそういうものだ。
その危機感がないと、そもそもの動きが合わなくなる。
今やってることに、命かけて集中しろ」
「はい!」
言わずもがなのことをきちんと諭されて、廉は顔が火照るほど恥ずかしかった。
最低の試合だ、生涯で。
ところが。
最低の続きが、まだあった。
練習が終わって、道場の戸を開けた途端、盛岡るうがぴょこんと立ち上がって駆け寄ってきたのだ。
しまった、場所を指定してなかったか。
教室で待てと言っておけば良かった!
「おい広瀬、待てや」
「懲りてないか、この野郎は」
「不真面目なんだよ、お前は」
3年の先輩たちに見つかった。
「タラタラされたら迷惑なんだ。
女待たせて練習になるかぁ?」
廉は早足で歩いて、職員室から見える場所に移動しようとした。
「逃げるのか、先輩に礼を取れ!」
つかまれた腕を、振り払った。
盛岡るうは、まるで空気を読んでくれなかった。
もともとカノジョでもなんでもないんだから、さっさと逃げてくれればよかったのだ。
先生に連絡してくれればなお良かったのに。
そう思って、校庭の方へ押しやったのに。
何を思ったのか、るうは思い切り廉のその手にしがみついた。
ああ、先輩達の神経を逆撫でする。
仕方なく後ろへかばったら、廉の背中にべっとりくっついた。
わざとやってないか、この女。
こっちが手を出すわけにはいかない。
全員を鮮やかに倒せるわけがないのだから。
せめて、怪我が最小限で済むように、そしてるうは無傷で帰せるように。
囲まれる前に、校舎を背にした。
あとは出来るだけ長く、耐えるだけだ。




