6、懐かない猫
その日から、廉は毎晩わたしの部屋にやって来ました。
それは、あまり懐かない猫を飼っているような、独特の距離感のある不思議な同居生活でした。
彼は学校が終わると、カバンを持ったままバイトに行き、夜11時を回るまで帰って来ません。
バイトは飲食店で、まかないが出るので夕食は不要。
部屋に帰るのは本当に寝るためだけの時間です。
帰る直前、廉は約束通り必ずメールをくれました。
わたしは彼が部屋に入るのを両親に見られないよう、キッチンでお茶を振る舞ったりして窓辺から遠ざけます。 それが終わって部屋に戻る頃には、もう廉は屋根裏に上がって大好きな布団とランデブーを楽しんでいるのです。
朝は少し早めに廉を登校させ、そのあとわたしが出かけるので、接近する暇はほとんどありません。
階段越しに言葉を交わすだけの、ドライな関係が数週間続きました。
それでも、わたしにとってはわくわくする日々でした。
廉がわたしの部屋にいることを知っているのは、世界中で自分だけなのです。
「本妻」の麻衣ですら知らない時間を、わたしは共有しているのです。
その秘密がただうれしく、心の中で麻衣に勝ったと思っていました。
いくら「本妻」の麻衣でも、廉の携帯なんか見せてもらったことはないでしょう。 彼の携帯はアドレスも着信も9割以上が女子の名前になっている、あきれた代物だからです。
廉はその携帯をわたしに見せて、
「ポエムで登録したら、麻衣ちゃんにのぞかれた時にばれちゃうから、エム(M)で入れといたよ」
などと言うのでした。
「ほかの女の事は麻衣に隠してないの?」
携帯画面に居並ぶ女性名をあきれて見ながら聞くと、
「隠してたら変に勘ぐるんだよ。
でも聞いたら全部しゃべっちゃうってわかると、かえって根掘り葉掘り聞かなくなるんだ。
女の子って不思議だよねえ」
屈託なく言って肩をすくめる廉は、開けっ放しの扉から世界を覗いている異邦人のようでした。
女を絆している、という感覚も、この人にはないのかも知れません。
その奇妙な距離感が一気に縮まったのは、ある寒い日の事でした。
わたしはその日、友人の家に遊びに行って、気分が悪くなって寝込んでしまいました。
実は悪ふざけの好きな友人が、わたしの飲み物に洋酒をしこたま入れたのです。
倒れこんで眠ってしまったわたしは、廉のメールを読むことができませんでした。
酔いが醒めて慌ててメールを返信しましたが、こんどは廉の返事がありません。
帰宅して家族の小言を受け流しながら、わたしは気が気ではありませんでした。
もともと約束を違えたり、途中で放り出したりすることが嫌いな性格のわたしです。
おまけにその夜は、雪になるかと思うほど寒い晩だったのです。
こんな夜中まで、廉は一体どこで過ごしているんだろう。
また公園だろうか。 建物と言ってもプレハブ物置の中では凍えてしまうんじゃないだろうか。
廉からの返信があったのは、午前2時を回ってからでした。
「バイト先に泊めて貰っているから心配ないよ。
それより体調は治ったの? 明日(もう今日だ)は行くけど、大変じゃない?
不調なら僕に構わず早く寝るんだよ!」
優しい言葉を添えて返って来たメールに、ほっとして涙が出そうになりました。
その上廉は、学校でさりげなくわたしを待ち伏せして、具合はどうかと尋ねてくれました。
わたしはこの通り姉御肌なものですから、同級生の男子からそんなことを心配してもらったことがありません。
親にまでボロクソに罵られた後ですから、これは胸に沁みました。
朝食を作ろう、と思ったのは、そんな気持ちの表れでした。
廉は毎朝スルリと出かけてしまうので、食事をどうしているのか聞いたことがありません。
でも、屋根裏部屋にパン屑ひとつ落ちていないところを見ると、朝は何も食べていないのではないか。 そう思ったわたしは、両親の留守にキッチンで翌日用にサンドイッチを作って、屋根裏部屋に置いておきました。
そうして彼がメールをくれるのを、今か今かと待ったのです。
彼がメールをくれた時、両親は町内の用事で留守でした。
わたしはその時初めて、廉を迎えるためにドアを開けて待つことにしました。
すると、家の前の坂道を、真っ赤な車が近付いて来て、我が家から少し離れたうす暗い路地で止まったのです。 中から降りて来たのは、廉と、中年の女が一人。
スマートというよりは痩せすぎの部類に入る女でした。
後部座席から廉の荷物を取り出して手渡す時に、女は廉の髪を、子供にするように手櫛で梳いてやりました。
そしてこともなげに、その唇にキスをしたのです。
それを見た途端、わたしは自分が何をしているのかわからなくなりました。
部屋に飛び込み、ドアを叩きつけて閉め、鍵までかけました。
秘密。
わたしの大事な秘密は、廉と麻衣に関するだけのものだったのでしょうか。
あの年増と廉は、夕べそういう関係になったのでしょうか。
バイト先に泊まったと書いてあったのは嘘なのでしょうか。
あのふたりはわたしのメールを読みながら、ベッドの上で笑ったのでしょうか。
気が付くと屋根裏部屋に駆け上がり、サンドイッチを床に叩きつけていました。
全身の震えと共に、涙が溢れて来ます。
これは何? こんなのはわたしらしくない。
そんな風に直情的に動く自分を、これまでの人生でわたしは知りませんでした。
恋は人を狂わせるのです。
ドアを開ける音に、はっと我に返りました。
そう、鍵をかけても廉はキーを持っているのだから無駄なことなのです。
慌ててしまうともう何をする暇もありません。
しまった、と思った時には、もう廉は屋根裏に上がって来ていました。
その部屋には、見られてはいけないものが2つありました。
ひとつは床の上の、たった今ぶちまけたサンドイッチの残骸。
2つ目は、涙でびしょびしょになったわたし自身の顔です。