1、ドカ雪と誤解
バン!
思い切り叩き付けた手のひらが、テーブルの上で大きな音を立てた。
「こういうやり方、する人だったんですか!」
あたし、思わず大声を出してしまった。
たった今、ボーイさんが置いて行った部屋のカードキーをにらみつけて。
「何か誤解してるな」
緑川部長は、テーブルから問題のカードキーを取上げた。
「部屋を取ってどうするつもりだったんですか?」
「別に公衆の面前でプレイしても、僕は少しも恥ずかしくないんだが」
「信じられない。
ひ、人が雪の中を苦労して来てみたら、こんな」
全身が震えて言葉にならない。
来るんじゃなかった。
ちょっとでも、同情したあたしが馬鹿だった。
こんな人を、信頼してたあたしが大馬鹿だった。
「新幹線が止まった?」
あたし、携帯を耳に当てたまま窓の外を見た。
5時半、合唱部の部活が終わったところだ。
雪が激しく降っていて、校庭は真っ白にかすんでいた。
昼間に降り始めること自体、ここらじゃ珍しいのに、その雪が前が見えないぐらい、がっつり視界を塞いで降りまくってる。
外の景色が、異世界ファンタジーものみたいに変わっていく。
「H国際音大の推薦試験って、明日‥‥じゃないですよね?」
「あさってだけど、こういうことがあって交通機関がストップしたら大変だから、1日早めに行っておこうと思ったんだ」
「正解でしたね。 明日だったら、朝までに復旧しないかも」
「もう多分すぐには復旧しないだろ。
深夜便の長距離バスが9時に出るから、切り替えて1日がかりで行くのさ」
「なんでそんな田舎に音大作ったんですかねえ」
部長はフンと鼻を鳴らした。
「田舎、なんて簡単なもんじゃないぞ。 超とドがつく田舎なんだ!
僕が大学の下見に行った時、駐車場に下りて第一声がなんだったと思う?」
「‥‥なんですか?」
「誰か来てくれ〜!だ」
「はあ、それは?」
「下りたとたんに、サルに襲われたんだよ!」
「えええええ!?」
「なんか茶色いかたまりが落ちてるなと思って覗き込んだら、くるっと振り向いて襲い掛かって来た」
「うわー」
「悲鳴を上げたら、どこからか人がわらわらと出て来て、慣れた様子で追い払ってくれた。
で、こう言うんだ。
きみは優秀だねえ、よく声が伸びる。 もう試験なしで帰ってもいいかもよ、って」
「大学の先生がただったんですね?」
「もしかしたら、職員室まで声が届かないやつは、ふるい落とされるシステムかも知れないぞ」
あたしは爆笑した。
部長が自慢のテノールを悲鳴に使って憮然としてる瞬間を想像して。
その笑いの波が引くのを待ってから、
「キンギョちゃん」
部長が改まって切り出した。
「はい」
「これから、出てこないか」
「は?」
「9時までに、ひとりで食事してひとりで待つのはつらそうだ。
消耗を防ぐために、夕食を付き合って欲しいんだが」
「‥‥はあ」
いかにも部長らしい誘い方なので、くすっと笑ってしまった。
さすがの部長も、試験前に足止めされて不安になってるのかも。
窓の外の雪を見ながら、ホテルのロビーで待ち合わせの約束をした。
バス停は大混雑だった。
近隣の中学、高校の学生服がぎっしり、歩道から落ちそう。
これはつまり、バスが遅れているということだ。
15分待ったが、来る気配はない。
来たって、この人数が一度に乗れやしないだろう。
歩くと一時間以上かかる。
走れば? まだそれほど路上には積もってないし、小走りくらいなら。
「危ない!」
歩道で転びかけたあたしに、バイクの警笛が高らかに鳴らされた。
「キンギョちゃん、無茶するなあ!」
500ccの上から声をかけて来た若い男子は?
あたしはバイクに近づいて、フルフェイスのヘルメットを覗き込んだ。
「あ。羽賀先輩」
3年生が引退するまで、テノールで緑川部長とソロを張り合っていた人。
ちょっと軟派な感じがする、社交的な先輩だ。
路肩に寄せたバイクをドルドルとアイドリングさせながら話しかけて来た。
「バス来ないの?」
「はい、もうあきらめました」
「どこまで歩くの?」
「K駅までですけど」
「なんだ、一緒か。 オフクロ迎えに行くとこだから、後ろ乗らない?」
「え」
こちらの返事を待たずに、バイクは歩道の広くなった所へ入って来た。
「今、道路がワヤワヤに混んでるけど、こいつなら10分ちょいで着くよ。
急がないと積もりだしたらアウトだからね」
羽賀先輩、あたしにいきなりメットを渡し、早く早くと座席を叩く。
勢いに押されてハーフのメットを着けた。
締め方がわからないのでやってもらった。
たったそれだけなのに、なんかすごく接近された気がした。
「ちゃんとまたがって座ってね。 横座りはだめだ。
わ。 制服でまたがると、なんかエロいなあ」
「やだ、やらせといて変な事言わないで下さいよぉ」
言われるままに大股を広げてまたがったまではよかったが。
「あ、そんな遠慮してたら振り落とされちゃうよ。
オレの腰、ガシッと抱き込んでよ」
「えええ? そんな」
さすがに躊躇していると、
「スケベ心で言ってるんじゃなくて、こんな天気だからホント危ないの!
オレと重心をあわせてくれないと、カーブで転んじまうよ。
オフクロなんか腹が出てる分、腕が短いもんだから、絞め殺す気かってほどしがみつくぜ」
冗談なのか怒っているのか、わからない口調で諭された。
やけくそだ。
先輩の腰に腕を回して、背中に張り付いた。
「わ。 天国」
「何か言いました?」
「言ってませ〜ん!」
エンジンの音でよく聞こえない。
走り出したら、確かに早かった。
渋滞した車線を縫うようにすり抜ける。
ホントに15分かからずに駅付近まで来れた。
ターミナルビルの前で降ろして貰った。
「ありがとうございました!」
頭を下げると、
「こちらこそありがとうございました!」
なぜか頭を下げられ面食らった。
「なんで先輩がお礼言うんですか?」
「めっちゃキモチ良かったから。
女の子っていいよなあ。
なのにこれから、70キロのばあさん乗せて帰るんだぜ。
ああ、余韻を味わう暇がねえよお」
メットの中で芝居っ気たっぷりに嘆いてから、羽賀先輩は走り去って行った。
待ち合わせのホテルは、バスターミナルビルの隣にあった。
ロビーのソファに腰掛けた、部長の長身を見つけた。
半分眠ったように荷物にすがっていた。
声をかけると、驚いて時計とあたしの顔を見比べた。
「え。 早かったね、キンギョちゃん」
「送ってもらえたので」
詳しい話をするのは、何故かマズイ気がしてやめた。
「どこで食事するんですか?」
「ここ」
「ホテルの食事って高いんじゃないんですか?」
「ピンキリだよ」
緑川部長は、ちょっと手を上げてフロントの方に合図した。
「なんですか?」
「部屋へ届けてくれるように頼んだんだ」
「何を?」
「食事」
「部屋って何ですか」
「ホテルって言うのは本来、部屋を提供してるものなんだが」
「そんなことはわかってます。
そのお部屋に、あたしが入ると思ってるんですか?」
「入ってくれないと困るな」
あたしは思わず立ち上がった。
「男性の個室になんか入りませんよ! 非常識なことやらせないでください!」
後で考えたら、ホテルに部屋を取ると言われていきなり変な想像をしたのは、単なるあたしの勘繰りだった。 その上この妄想に、その崇高なプライドを傷つけられた緑川部長の一言が、あたしの怒りの炎に油を注いでしまったのだった。
「大声をだすな、座りたまえ。
僕は君の性格のほとんどが好きだが、少々頑固なとこがあるのは気になるぞ。
それとも、そんなに大量のフェロモンを撒き散らしてる自覚でもあるのか」
更にタイミングの悪いことに、その時ボーイがやって来て、
「ご用意が整いました」
と言うと、部屋番号のついたカードキーを、目の前の小さなテーブルに置いて行った。
「何考えてるんですか!」
あたしはそこで、爆発してしまったのだった。