1、病原
本編「ビョーキえっち」は、私にとっては実験小説として、携帯風に短文調の小説を試してみた最初の作品でした。 これはその外伝として「ビョーキえっち」本編後半部分に掲げていた作品です。
やはり短文ですが一つずつ違った書き方を試していますので、お気軽にお読みください。
なお、文章を手直ししながらの更新なので一度に出来ない場合があります。
広瀬 廉に課せられた、朝の関所の一つ目は、2階トイレの前にある。
新聞を広げた父親だ。
「こら、廉。 おはようぐらい言ったらどうだ!」
歯ブラシを咥えたまま言う。
「おはよう」
廉は決して逆らわない。
でもダメなんだ。 この人には通じないんだ。
「なんだ、その目は。
人の顔見て、嫌そうな顔するな。 なにが気に入らん?」
口から泡が飛んで来たからだろ?
この顔が気に入らないのは、あんたの方だろ、父さん。
気づいてないみたいだけど、この14年間、あんたは僕におはようを言ったことがないんだよ。
二つ目の関所は、妹たち。
狭い廊下ですれ違ったのは、上の妹、美由紀。
廉と同じ中学の制服を着ているが、まだまだ板についてない。
「おにいちゃんがどいて」
「どいてるよ」
「もっと!」
「もう無理」
「ばか」
壁に張り付いた廉の背中に触らないよう、バレエのシャッセで通過する。
僕はバイキンか。
「イヤあああっ」
ドアを開けた途端、タオルを投げつけられた。
浴室に続く洗面所だ。
「お兄ちゃんのえっち!
ドアが閉まってたら、ノックしてよね! 着替え中なんだからね!」
下の妹、美里の黄色い声。
小学生が何を隠すんだ。 自分の体を拭いたタオルを投げつける方が、よっぽど無神経だろ。
廉は黙ってドアを閉め、タオルをノブに引っ掛けた。
台所にも関所がある。
「廉!きのう道場に行かなかったわね?」
母が、暖簾の向こうで怒鳴った。
「行ったよ」
「うそばっかり。横田師範は知らないって言われたわよ」
「横田師範はいなかったよ。
青森さんとふたりで打って帰った」
ほんとのことだ。でも、信じないんだよな。
「あんたの話は、ウソばっかりね!
サボってなんでもテキトーにやって調子ばかりよくて、ホントいい加減なんだから。
高い月謝払ってる身にもなってちょうだい」
「サボってもサボらなくても、評価は一緒だろ?」
廉はつい、母親をにらみつけた。
「あんたは僕が幸せそうにしてると不安になるんだ、それだけだ。 親父に申し訳ないんだろ?」
「何ですって?」
「あんたは僕が親父の金を使ってのうのうと生活すること自体が気詰まりなんだよ。
ケツの穴の小さい親父が、また親子鑑定の話を持ち出したら、えらい事だからな!」
母が言葉にならない叫び声を上げた。
飛んで来たフライパンを、廉は片手で叩き落とした。
「見ろこの反射神経。 稽古はサボってないぞ!
母親なら自分の浮気を、息子の人生になすりつけるなよな!」
鞄をつかんで、外に飛び出す。
朝食なんて食う気になるか、ああ、顔も洗えねー。
商店街のど真ん中、行き交うのは、出勤するサラリーマン、登校する学生の波。
何食わぬ顔で歩き出しかけて、ショーウィンドゥに映った自分の姿に、思わず目を逸らす。
ハーフにしか見えない白く整った顔。
日本人らしくない、手足の長さ。
人もうらやむこの容姿が、我が広瀬家では悪魔扱いだ。
噂では、母親のもと上司がイギリス人で、似ているらしい。 その男と母が不倫しているという噂があった時期があるのだと知った昨年、廉は自分が家族に不当に扱われている理由を理解して、妙に納得したものだ。 このごろ特に、その風当たりが強くなった。
でも、学校では逆のことが起こっている。
廉はポケットから、小さくたたんだ便箋を取り出して広げた。
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広瀬くんの顔を見ると、胸がドキドキします。
一度ゆっくりお話がしたいけど、
話しかける勇気がありません。
木曜日放課後
北校舎裏に来てください。
お願いします。
2年F組 盛岡 るう
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「どうしたもんかな」
首をかしげた。
この時点では、彼に感動はなかった。
「広瀬くうん、おはよう」
袋田 春奈が、甘えた声で寄って来た。
「見てみて、日直、初ヒットだよ」
黒板の隅に、ふたりの名前が並んでいる。
「ほんとだ。ヨロシク!」
「へへへ 。原井ちゃんにうらやましがられちゃうなあ」
丸顔のベビーフェイスを赤らめて、春奈は照れ笑いをした。
「原井? 麻衣ちゃんがなんでうらやましがるんだ?」
「だって広瀬くん、いっつも日直、原井ちゃんとでしょ?
それに、クラスでひとりだけ、麻衣ちゃんって名前で呼んでるじゃん」
「そりゃ、昔から町内に住んでるから。
じゃ、なくて! なんでそれが特権みたいになってるの?」
「だって、広瀬くん‥‥」
ここで、春奈は突然真っ赤になった。
まともに視線がぶつかったからだ。
「え‥‥。 広瀬くん、自覚ないの?」
「何が?」
廉はわざと、相手の瞳を覗き込んだ。
「広瀬くん、中学に入ってから、その、すごく」
「うん、すごく?」
「あの‥‥」
ちゃんと自覚している。
いつごろからだろう。 こうやって瞳を見つめると、大抵の女の子がシドロモドロになる。
「すごく、どうだって?」
「か、かっこよくなった!」
春奈は観念した様に言い切った。
体の力が抜けて、耳まで赤く染まっている。
今、抱きしめてキスしても、こいつ絶対抵抗しないな。
確信がよぎった。
もちろん、実行したりはしない。「しめしめ」くらいは思ったがあくまで想像上の見解だ。
増してやそれが有難いこととは、微塵も感じてなかった。
廉の感性、この時点ではまだ病んでない。
盛岡るうは、小柄な女の子だった。
校舎の陰から顔だけ出して、廉の姿を見ると、悲鳴を上げて引っ込んだ。
「やだ、やだ、やっぱりダメ、恥ずかしいっ」
「何言ってんの、ここまで来てやめれないでしょっ」
「麻衣ちゃんついて来て、お願い!」
校舎の陰で、もうひとりの女の子ともめている。
この時点で、大体どんな女の子か察しはついたのだが。
「もお! しょうがないなあ、ほら行くわよ!」
やっとふたりとも出て来た。
原井麻衣と、盛岡るう。
「あれ。麻衣ちゃんどうして?」
廉はわざと驚いて見せた。
「るうってば、土壇場でやっぱり勇気が出ないとか言って逃げるんだもの。
廉くんが待ってるの見えたから、引っ張ってきたのよ」
麻衣はよく回る口で、トントントンと軽快にしゃべる。
昔から、この気風のよさは変わってない。
「ほら、ここまで来たんだからもういいでしょ?
廉くんと話しなさいよ、あたし帰るから」
「ええー! 麻衣ちゃんもう少しいてよ!」
るうが泣きそうな顔になる。
「いつまでも甘えないでよ!
これ以上いたら、あたし完璧お邪魔虫じゃん!
ちょっと廉くん、きみも少しはリードしなさいよ!」
「わかったわかった、相変わらず麻衣ちゃん強いねえ」
廉はくすくす笑った。
「ええと、盛岡さん?
部活に行くんで、今はあんまり時間がないんだ。
ゆっくり話すなら、帰ってから電話するけど。
それとも、部活終ってから落ち合う?」
るうは真赤になり、廉と、去って行く麻衣の後姿を見比べた。
それからやっと、
「け、携帯ありますか」
と声を出した。
「いやごめん、僕は持ってないんだ」
「じゃ‥‥部活終るまで待ってます」
「いいの?」
「はい」
るうの全身がふるふる震えているのを、廉は冷静に観察した。
この子も大丈夫だな、と直感的に思った。
唇を奪ったら応えて来る。 体を預けてくる感覚まで、予測できた。
それは廉にとって、数少ない自信の備蓄ではあったが、現実の武器として考えたことは一度もなかった。 女の子は妹たちだけでこりごりだ。
その意識が、のちに180度の転換を強いられることになるとは、廉でなくとも予測がつかなかったに違いない。