スピーカーと試験とCongratulations!
天気は梅雨らしい曇り空。煙たい灰色の雲が幾重にも重なって、太陽の光を遮っている。なんだか息苦しい空模様だ。
左手にコルクの薄板を握り締め、ひたすら足を進める。ものの十分ほどで、じっとりとした汗が噴き出してきた。
「迷ったかな……」
一度立ち止まって、辺りを見回す。
「喫茶店を抜けたら真っ直ぐ進んで、二つ目の角で右へ」
間違っていない。間違っていないけれど……迷っているかもしれない。
どんよりとした空模様とは裏腹に、心の奥でゴムボールがしきりにぽむぽむと弾んでいる。迷路のように複雑に入り組んだ路地に迷うことすら、どこか楽しくて仕方が無い。
自然と早足になり、ようやく見つけた角を曲がるころには駆け足になっていた。
小学生のころ、三ヶ月もの間楽しみにしていた漫画を買いに走ったときの感覚が重なる。
「ここ、かな」
辿り着くころにはさすがに息が切れた。日頃から慢性的に運動不足の帰宅部をナメていたようだ。
手元のコルク板――愛嬌のあるピエロが描かれたコースターに目を落とす。それは昨日、『死繋執行人』を名乗る、偉そうな女の子フランシスが残していった彼女への連絡先だ。もっとも、連絡先というか事務所の所在地だった訳だけど。
どうやらここで間違いないようだったので、改めて僕はフランシスの事務所に向き直った。
丁寧に白いペンキの塗られた、小さな喫茶店のような佇まいの木造二階建て。くすんだ金色のドアノブに掛けられた『伝言サービス』の看板。ここがフランシスの事務所のようだ。
うーん、フランシスのゴシック趣味とは噛みあってないような気がする。
内心で首を捻りながら、猫の形をしたインターフォンを押す。
心の奥で弾んでいたゴムボールが、一層大きく跳ね上がってあちこちに当たった。
涼やかなメロディー……は流れず、それなら当然のような気もするけれど応答は無い。
ひょっとして、壊れてるんだろうか。もう一度押してみる。
「……」
鳴らない。当たり前だがフランシスも出てこない。
インターフォンで家人を呼ぶことを諦めた僕は、ドアノブを掴んでそうっと捻ってみる。ちょっとお行儀が悪いけど、この際仕方が無い。ゴメンナサイ。
金色のドアノブは、僕の手の中で何の抵抗もなく動いた。鍵はかかっていないようだ。
二、三センチメートル程度の隙間から、かなり小声で呼びかけてみる。
「あのー……。昨日の藤岡ですけど……」
『入れ』
スピーカー!?
フランシスはどこにいるんだろう。
僕も人のことは言えないけれど、これは随分と失礼な対応ではないか。
「失礼しますー……」
そろそろとドアを閉め、すぐ右に折れて、オフィスにあるようなプラスティックの衝立を抜ける。主の姿が見えないせいか、悪いことをしているような気がして自然と足音や声をひそめてしまう。
衝立の向こう側は、絵にかいたような『個人事務所』だった。
鈍い銀のデスク、窓際の観葉植物。黒い革張りの社長椅子が無いのが残念なくらいだ。
「フランシス?」
僕は声のボリュームを上げて呼んでみた。ここまで来て、礼儀もクソもあるかぁ!
「僕! 藤岡樹木!」
「五月蝿い」
キツイ一言はスピーカーを通した声ではなかった。
でも、やっぱり姿は見えない。
「どこにいるんだよ」
口を尖らせていると、僕の足元からもう一度声が聞こえた。
「ここだ」
「へ?」
もちろん、僕の足元にゴスロリ姿の女の子は転がっていない。
「ここだ」
いや、どこだよ。
「ここだ!」
語気を荒くした声が、僕の足元――デスクの下から聞こえてきた。
ガツンガツンとスチールを殴る、抗議するような音。
まさか。
「フランシス?」
僕はデスクの裏側に回り――デスクの下のスペースに、ぴったり収まった黒ワンピース少女を見つけた。おお、まさにジャストサイズ。
びっくりするよりも先に呆れてしまう。自然に溜息が出た。
「見つけるのが遅いわ! この腐れオットセイが!」
く、腐れオットセイ?
フランシスはゆっくりとデスクから這い出すと、僕の額にその細腕からは想像もできないほど強力なデコピンをお見舞いした。はっきり言って、無茶苦茶痛い。
怒りで少しだけ紅色に染まった頬に、硝子細工のように繊細で透明な髪がさらさらとかかる。光の加減によってその表情を変える髪は、今は鋭利な白に輝いていた。
「ごめんなさい」
迫力に押されて、わけも分からないまま謝ってしまう。ほんと情けない。
一方フランシスは僕の殊勝な態度に満足したらしく、いつかの勝ち誇った笑みを浮かべて腕を組んだ。
梅雨時でも長袖のポリシーは変わらないらしい。まさか、一年中長袖ということは無い……と思いたい。
「良かったな、イツキ。採用試験――合格だ!」
ゴシックロリータの袖にたっぷりとあしらわれた縁取りフリルが揺れ、魔法のように巻紙が現れる。
あっけにとられている僕の前で、フランシスは巻紙から垂れた紐を引きながら、僕の足元へと巻紙を放り投げた。
『Congratulations!』
フランシスの身長の、軽く二倍はありそうな垂れ幕。
墨痕鮮やかなアルファベット。しかも縦書き。
……ダメだ。ツッコミどころが多すぎて、僕では一度に対応しきれない。
「あ、ありがとうございます……?」
フランシスは上機嫌で、一人盛大な拍手を続けている。
僕はぽかんとしたまま、武士然とした威厳を放つアルファベットを見つめていた。
「いやあ、まさかあのマヌケそうな男が試験に合格するとは思わなかった!」
いや、
「ちょっと待て」
今さり気なく酷い事を言わなかったか? ……ではなく。
「採用試験って、どういうこと」
フランシスから『幽霊が見える』(それ以外の事は全く出来ないんだけど)ことを買われて、既にスカウトされたんじゃなかったのか。
「今のが採用試験だよ」
フランシスは垂れ幕を丁寧に巻き直すと、それをデスクに放った。
薄い胸を張って腕を組み、僕をじっと見据える。
「ここの採用条件は、『真摯であること』だ。イツキはどんな悪条件でも、最終目標を達するために真摯に頑張り続けた。だから合格だ」
今の態度、真摯かな……? まあ、いいか。
知らぬ間に試されていたって訳だ。こんなところで、やりだしたら止められないという損な性分が役に立つとは思わなかった。
「じゃあ、これで僕は晴れて『死繋執行人』の助手として働けるってことだね」
「そうだ」
花がほころんでいくように、フランシスの顔にいっぱいの笑顔が浮かぶ。
「これからよろしく、フランシス」
「フランでいい。改めてよろしく、イツキ」
ずいっと右手を差し出してくる。
初めて触れたフランシス――もといフランの手は柔らかくて小さく、ひんやりと冷たかった。
また明日来るようにと言われ、今日は帰ることになった。
空を覆っていた雲が切れ、蜜色の光が迷路地に差し込む。その中を弾む足取りで歩きながら、僕は明日へと思いをめぐらせていた。
フランが営む『伝言サービス』の実状は分からないけれど、もし許されるなら――雨の金曜日に出逢った、あの女の子を救いたかった。