雨と懺悔と名探偵
フランシスの不思議な魔法は続いた。
「先週の金曜日のこと、覚えてるか? あの、雨がずっと降り続いていた日」
「うん。覚えてる」
フランシスの唇に、楽しかった思い出を思い返しているような甘酸っぱい笑みが浮かぶ。
僕は当惑と恥ずかしさ半分、見られていた驚き半分で、目の前にちょこんと座った女の子を見つめた。
フランシスはちょっと謎めいた、すました微笑を浮かべている。
「君は、今日私が座っていたあの辺りで、一生懸命に小さな女の子と話していただろう」
ああ、やっぱり、フランシスも『見える』んだ。
「うん」
「彼女、幽霊だったな」
「……うん」
淡々と続く雨音と、名前も知らない女の子の胸が痛くなるような泣き声が、思いがけない鮮烈さで耳に蘇ってくる。
「どうしたらいいか分からないんだって、ずうっと泣いてた。雨の中で、傘もささないで、帰りたいって。帰りたいんだって。
パパとママに会って、トモちゃんに会って、喧嘩してごめんねって謝りたいんだって、泣いてた」
幽霊には確かに、肉体というものは無いのかもしれない。僕は彼らに触れたことが無いから分からないけれど、世間的にはそうらしい。
実際、彼らは傘を差すことが出来ない。
「雨に濡れて、もう疲れたって。事故に遭ったときのままの、血染めのTシャツで立っててさ……。どうしたらいいのって、僕に訊くんだ。助けてって言うんだよ」
思わずぎゅうっと前髪を掴む。机に触れているはずの肘からは、何も感じなかった。
でも、幽霊は雨に濡れるのだ。梅雨入り直後の雨に濡れて、寂しげに泣いているのだ。そこで泣いていることにすら、ほんの一握りの人間以外には気付かれないままに。
そしてその『ほんの一握り』が、必ずしも彼らの救いとなるわけではないのだ。
「僕にはどうにも出来ないんだって言った。何にも出来なくて、ごめんねって謝ったら……あの子、いいんだって言うんだよ。涙をいっぱいためて、雨に濡れて、それでも笑って、いいんだって言うんだ。いつか、皆に会えるよねって……僕に……」
フランシスは何も言わない。
クリームソーダの冷えたグラスを、結露の雫が次々と伝っていく。
「どうして僕には、幽霊が見えるんだろう。何にも出来ることはないのに。気休めを言って、誤魔化して。最低だな、僕」
「……そんなことはないよ」
フランシスが、真っ直ぐに僕を見つめていた。最初の射竦めるような眼差しではなく、ほんの少し痛みを堪えているような、優しい眼差しだった。
「優しいんだな。ちょっと優しすぎるくらい優しい」
背を少しだけ丸め、くすくすと笑う。袖口の小さな黒いリボンが、それにあわせてふるふると揺れた。
「私の仕事を手伝ってくれないか? きっと、今のような思いは軽くなるはずだ」
すぐに答えは出せない。
ものすごく後ろ向きな考えで、自分でも逃げてるって分かっているけど――僕に、そんなことが出来る自信はないから。僕に、少なくとも今この瞬間までの僕に、彼らにしてあげられることなんて何一つないのだから。
だけど――。
そんな僕の表情を正確に読んで、フランシスは明るい笑みを浮かべてみせた。
「存分に迷った方がいい。決まったら、明日にでも連絡してくれ」
フランシスの気遣いが嬉しくて、僕は軽口を返した。
何もかも見透かされていた、そんな恥ずかしさを誤魔化すためでもあったんだけれど。
「僕は何でもするんだから、『手伝え!』って命令してもいいのに」
フランシスはソファから立ち上がりざま、さらっと囁いた。
シャンプーの甘い香りと悪戯っぽい響きが、僕を一瞬だけくすぐり、気まぐれに離れる。
「あんなものは口実さ」
不覚にも、女神の如き微笑みに見とれてしまう。
ちゃっかり勘定を僕に押し付けて、フランシスはすっかり暗くなった迷路路に消えていった。
レジで会計を済ませた時、ものすごく大切な事に気がついた。
「僕、フランシスの連絡先知らない」
思わず口に出したその言葉を、地獄耳の若店主が拾ってしまった。
「樹木さん、忘れ物ですよ」
理知的な眼鏡の向こうで悪戯っぽく輝く黒い瞳。ほっそりした指が、さっきまで僕とフランシスが座っていたボックス席をちょいちょいと指している。
「ほら」
黒髪のウェイトレスさんが、無言でテーブルに歩み寄っていく。彼女が手に取ったのは僕のクリームソーダが乗っていたコースターだ。
無表情に無言を貫くウェイトレスさんから、首を捻りつつお礼を言ってコースターを受け取る。これは僕のものじゃないはずなんだけど……?
「可愛い彼女の連絡先、忘れちゃダメですよ。樹木さん」
僕は何気なくコースターをひっくり返して……絶句した。
「……相変わらず鋭いですね」
いや、むしろフランシスはどうやってこんな事をやったんだ! 手品師か!
「すみません、助かりました」
ぺこぺことお辞儀を繰り返す僕に、涼しげな目元をなごませて手を振る名探偵。
「いえいえ」
そしてあんたはどうやって見破った! ――とは、訊けなかった。この人には、『呆れるほど鋭い洞察力』をはじめとする不可思議な謎がとても多い。 正直、このくらいの事は平然と看破するイメージがある。
「ありがとうございました。櫻井さん、美玖さん」
「こちらこそ。またおいで」
穏やかなドアベルの音が、僕を見送った。




