自暴自棄にご用心。
「君、何してるの?」
雨上がりの風が駆け抜けていく。初夏の風は滴らんばかりに伸びやかな若草の香りを含んで、すっとするような夏の予感を運んでいった。
そこそこ大きな、この浪臥梓川に架かる橋の上。じりじり照りつける衣替え直後の日差しに耐えながら、僕はもう一度声をかける。
「ねえ、君、何してるの? そんな所に座っていると危ないよ」
「……」
答えは返ってこない。
でも、ここまで声をかけておきながら一方的に立ち去るなんて、僕にはとても出来ない。まったく損な性分だと思う。
「……」
「……」
「……君、名前は?」
「……」
「僕、藤岡樹木。藤が咲く岡に、樹海の樹に木曜日の木でイツキ」
「……」
……何で自己紹介したんだろう。そりゃあ、無言がいたたまれなくなったからだ。
相手が徹底的に無反応だから、何だか余計に恥ずかしい。
それでも立ち去らない。むしろ立ち去れない。ここまで声をかけたんだ、無責任に見放すなんて事、出来るわけ無いじゃないか!
その『損な性分』のせいで、気温二十七度・湿度七十七パーセントの中を三十分以上粘っているのだから、我ながら本当に救いようがない。
こんなだから級友どもに笑われるんだろう。青春を謳歌する華の高校二年生、十六歳のクラスメイト達は、この老人くさい僕の性分が大層お気に召したらしい。日に一回はからかわれる始末だ。しかも何故か、その台詞は誰が言おうといつも同じなのだ。その一致がなんとも腹立たしい。
今でも目を閉じれば、「おいイツキ! お前何歳だよ!」というはじけんばかりに若々しいクラスメイトの声が聞こえてきそうだ。まったく、最近の若いもんは……。
思い出してちょっとげんなりしつつ、溜息を飲み込んで、もう一度声をかけてみる。
「ねえってば」
ゆっくりと人影が身じろぎをした。腰まである綺麗な髪が、少しだけ揺れる。
艶のある白い髪。細い後姿だけでは、どう見てもまだ少女と呼ぶべき年齢に見える。もっとも、こちらに背を向けていて顔が見えないから、正確な年齢は分からないのだけれど。
その、少女を取り巻く時間軸からずれたような白い髪と、彼女が纏う黒い豪奢なワンピースのコントラストはあまりに鮮やか過ぎて、僕は不覚にも一瞬、ここが日本の一地方都市であることを忘れそうになってしまう。
ともあれ、や、やった! 反応した!
「五月蝿い」
うわ、キツイ一言。浮き足立った気分が一気に萎みました……。
人影は全くこちらへ顔を向けようとせず、ただ真っ直ぐに遠くを見つめている。そのせいで表情は全然見えないけれど――どうやら、おそろしく不機嫌でいらっしゃるらしい。
しかし、ここで引き下がるわけには行かない。ここまでくると意地の張り合いだ。――もっとも、意地を張っているのは僕の方だけかもしれないけれど。
まあ、それはともかく。
「そこに座っていると危ないよ。とにかくそこから降りて!」
人影の形のいい耳が、ぴくん、と動いた。でも、足を僅かにずらしただけで降りては来ない。
冷や汗が背中を伝う。対して、細い背中は余裕綽々といった雰囲気を目一杯醸し出していた。
「……」
いや、危ないって!
僕は慌てて叫ぶ。
「バランス崩したら、まっさかさまなんだよ!」
普段塀の上を平然と歩き回ってる猫とか、平均台演技の全日本王者でも、怯えて逃げ出すような所なんだから!
「……ふん」
小さく鼻を鳴らす音がやけに大きく聞こえて、腹立たしいことこの上ない。こいつ、挑発しているんだろうか。
ふふん、高二にもなってこんな安っちい挑発に乗るかよこの野郎ぉぉぉ!
絶対にそこから下ろしてやる!
いい加減、僕も捨て鉢になっていたのかもしれない。あるいはかなり焦っていたのだ。
三十分間僕が説得を続けている人影――小柄な少女は、橋の欄干部分に腰かけ、あろうことか川の方に足を投げ出しているのだ。
「なんか奢るからさ、早く!」
光をはじくばかりに白い華奢な手が、赤茶色に錆びた欄干に添えられる。だが、足は水面のはるか上を頼りなく彷徨ったままだ。
ペットボトル一本を立てて置くのが精一杯という幅の欄干の上。強い風が一度でも吹けば、少女は川に落ちてしまう。
それが怖くて、思わず半ば怒鳴るように叫んだ。
痺れた頭が捻り出したのは、あまりに陳腐な懇願の言葉。
「もうっ。 何でもするから!」
まずい。完全に自暴自棄になった。
勢いに任せて言ってしまってから、ものすごい後悔が襲ってくる。『何でも』って、何をするつもりなんだよ僕。
途端――欄干においた手を支点に、少女の体が浮いた。
「あっ」
落ちたわけじゃなかった。ふわっと右足が欄干の上を越え、一拍置いて左手を放す。
それを合図に、僕と少女を取り巻く時間が止まった。
透明水彩の空を背景に翻る、真っ黒なワンピース。その喪服じみた純粋な『黒』を退廃的に彩る、真っ白なレースと銀糸刺繍のほどこされたリボン。腰近くまである白髪が膨らみ、幅の広いレースのヘッドドレスがのぞく。
彼女の長い長い髪は、純白というにはあまりにも透明だった。しなやかに美しい曲線を描きながら、夕日の最後の一片をはじいて輝き、気の早い夜闇に透けてしまう。
一瞬遅れて鞭のように宙を舞った髪は僕の頬を鋭く掠め、風を受けて狂ったように踊る。艶のない黒いレースアップブーツが、ことん……と微かな音をたててアスファルトに触れた。
その音が合図だった。神聖な黄昏時の瞬間は終わり、止まっていた時間が堰を切ったように流れ出す。
「わ……」
こんな綺麗な娘、初めて見た。
かなり幼いようにも、うんと年上のようにも見える。本当は何歳なのだろう。
藍色の宵の下で透明な輝きを放つ髪を背に流し、それをリボンと同じ銀糸刺繍のヘッドドレスで留めている。透けるように白い肌にさくらんぼ色の小さな唇、とおった鼻筋。純黒を純白で彩った袖の長い衣装、いわゆるゴシックロリータを纏いながら、汗一つかかずに涼しい表情で僕を見つめていた。
何より、彼女の瞳――。北国の高く澄み切った冬空のような、淡く、どこか寂しげな印象の蒼い色。これまで僕が見てきた中で、最高に美しい色だった。
思わず大きな瞳に惹き込まれていた僕は、若いような年老いているような、少女のような少年のような、そんな不思議な声で現実に引き戻された。
「君、『何でもする』んだろう?」
いちいち区切るように告げる。どこか神秘的ですらある中性的な声に、細く一筋、耳慣れた俗っぽさが混じっていた。
「う、うん」
熱く乾いた喉を、ごろりとした空気の塊が下っていく。
このとき僕を貫いた感覚を、分かっていただけるだろうか。
誰しも小さいころ、『三つだけ願いを叶えてやろう』といった類のお話を聞いたときに、思ったことがあるんじゃないかと思う。
その三つのお願いを使って、『無限に願いを叶えられるようにしてください』と頼んでしまえばいいじゃないか、と。
あるいは、『あと百個叶えろ』と願っておいて、九十九個お願いをしたら百個目で『あと百個』……。子どもならではの、無邪気さと、某魔人を策略的に過労死させるような残酷さを兼ね備えた知恵である。
常識のある一般人ならば、ありがちな『何でもするから発言』の『何でもする』は言うまでも無く一回きりだ。そもそも、いたいけな男子高校生に何でもすると言われても固辞するだろう。だが、この少女は違う。
彼女は僕のヤケを固辞しなかった。
そして今、僕の目の前で意地の悪い微笑を浮かべている。
……。
「私が願う限り、幾度でも、何でもしろ。異論は無いな?」
「へっ?」
いや、異論しかない。
少女はくいっと胸を反らせ、腕を組んで僕を見る。悪魔の微笑みは健在だ。
見事に予想的中だ。どうして僕の勘は、悪い方だけやたらとよく当たるんだろう。
「何でもする、んだろう?」
勝ち誇ったような笑みも、思わず出かけた言葉を飲み込んでしまうほどに美しい。
おかげで、僕は反論のタイミングを失ってしまう。
「まずは、どこかでお茶でもしようか」
勝手に主導権を握って歩き出す。くるりと方向を変えると同時に風が吹き、たっぷりとフリルのあしらわれたスカートの裾と髪が優雅に流れる。
僕はただ呆然と、重い鞄を持ち直した。上手く頭がついていかなくて、思考がまとまらない。
名前も知らない、会って四十分足らずの『女の子』に振り回されるなんて情けない限りだ。そもそも三十分以上はまともに話せなかったから、実際に会話をしたのは僅か三分ほど。
角ばった古風な口調も、服装も、どこか致命的にズレた雰囲気も、出逢って声をかけたことを後悔するのには十分な材料だ。引き返すには今しかない――。
本当に損な性分だ。これで週末明けの月曜日、クラスメイトに笑われるネタはばっちりだろう。
「なんか、ほっとけないんだよなぁ」
生来のお節介。面倒見の良さは天下一品。それが僕、藤岡樹木だ。笑いたい奴は笑えばいい!
開き直ってみたら、なんだか泣きたくなってきた。
僕は溜息をつきながら、さやさやと揺れる真っ白な髪を追いかけた。




