Rainy Flyday
何気ないたった一言が、僕の世界を変えてしまった。
十六年間の人生の中で知った世界はほんの一欠片にすぎないけれど、その一言は僕の『正しい世界』ともいうべき代物を完全に裏返してしまった。
あの日学校を欠席していたら、あの橋を通らなかったら、あの女の子に気付かなかったら。――あの一言を言わなかったら、僕はどんな人生を歩んでいたんだろう?
そう思ったことは数え切れないほどあるけれど、決して後悔はしていない。
あの一言が結んだか細い縁は、臆病さと怠惰と諦めを越えて、ただ見ていることしか出来なかった僕を変えたのだから。
神様がもう一度僕に人生をくれても、僕はあの日学校へ登校し、あの橋を通り、あの夢みたいに綺麗な女の子に言うんだ。
「君、何してるの?」
って、ね。
――Rainy Flyday
「どうしたの?」
錆びた鉄製の欄干に雨が打ちつける、かたくて冷ややかな音。傘から雫が滴り、ゆっくりと制服の色を変えていく。
「どうしたらいいか分かんないの……」
泣いている女の子の声は、降りしきる雨に打ち消されて聞き取りにくい。
どれほど長い間、泣き続けていたのだろうか。掠れきった声で紡がれる言葉が、鑢のように身を削る。
悲鳴、絶叫、慟哭、哀歌。今までで人類が――生きている人間が編み出した表現の、どれにも当てはまらない、ひりひりとしたむき出しの感情。
「みんなに会いたい。パパとかママとか、トモちゃんとか。謝らなくちゃいけないの」
「……どうして?」
幾度もしゃくりあげ、涙を拭い、それでも零れてくる涙を大きな擦り傷のある頬に落として、割れた笛のような音を立てて息を吸う。
「トモちゃんと喧嘩したの。ごめんなさいって言わなきゃ。また明日遊ぼうねって約束するの……」
「……」
現実を突きつけることは、同時に彼女の希望を殺してしまうこと。
現実を隠すことは、同時に彼女の絶望を広げてしまうこと。
この沈黙を、僕はまた繰り返すのか。
橋の上で足を止めてから、どれくらいの時間がたっただろう。
アスファルトに叩きつける雨の音だけが、沈黙の隙間を縫って響き続けていた。
泣き続ける空の塗りつぶしたような灰色の下、女の子の足元にそっと横たえた紺色の傘。彼女に傘を差すことは出来ないのだと知りながら、それを渡した自分の欺瞞に吐き気がする。
傘を渡したのは、勢いを増した雨にたった一人で濡れている女の子を見ているのが辛かったから。
結局は自分のためなのだ。彼女のために自分が出来ることは、何も無い。何一つ、だ。
濡れて顔に張り付く髪をかきあげ、幾千と繰り返した深い諦めと自己嫌悪、砂が崩れていくような無力感で凝った筋を無理に動かす。僕は、上手く笑えているだろうか。
微笑み返した女の子もどこかぎこちない。口元のあたりに、女の子の年頃には似合わない色合いの諦めが漂っていた。
それを見て、また心の端が欠けていく音を聞く。
「じゃあね」
ああ、いっそ、大声をあげて泣いてしまえたら――!
「うん。ばいばい」
手を振って、別れる。
誰一人通らない橋は、すぐに元通りの静寂を取り戻していく。濡れて肌に張り付いたワイシャツの肩に叩きつける雨音がやけに大きい。ついさっきまで、びっしょりと濡れて色を変えた紺のスラックスも、水の滲み込んだ革の指定靴も気にならなかったのに、歩き出した途端にべったりと重く煩わしく感じられる。
もう誰も、彼女に声をかけることは無い。視線を投げかけることも、微笑みかけることも、傘を差し出すことも――。
雨が降っていることが、今はありがたかった。