海坊主の噺
東京を江戸と申した時分のお話。
とある町内に物知りの隠居が住んでいた。しかし、いくら物知りとは言っても人間一人の知識などたかが知れている。当然世の中には知らぬことの方が多い。
だがこの隠居、皆に物知りと持て囃されるうちに、知らない事でもつい「知っている」と嘯いてしまう癖がついていた。
ある夏の日のことである。
男が一人、隠居の知恵を借りようと尋ねてきた。
「ごめんください。ご隠居はいますか」
「おお、粂ではないか。まあ立ち話もなんだから上がっていくといい」
粂と呼ばれた男、正しくは粂八といって少々頭の鈍いところがあった。それでも好奇心は旺盛で、よくこの物知り隠居を尋ねてくる。得意がって知識を披露すると、素直に関心して褒めくれるので、隠居は粂八を大層気に入っていた。
「それで。今日はどうしたんだ」
「へえ。またつまらないことが気になりまして、自分で考えてみたんですがどうにも埒があきませんで・・・もうご隠居の知恵に縋ろうかと」
その言葉に隠居の顔は思わず綻んだ。
「そうかそうか。まずは自分で考えたというところが偉い。それでも分からぬというのなら、私が知恵を授けよう」
「ありがとうございます」
「それで、何が分からない?」
「それがですね・・・」
粂八は徐に語り始めた。
◇
粂八はついこの間、友達に旅に誘われたのだそうな。
元来、旅から旅を重ねる根無し草の友人らしく、江戸を一歩も出たことのない粂八にとっては、日頃からとても眩しく映っていた。何の気なしに津々浦々を訪ね歩けて羨ましいと伝えたところ、
「また今度旅に出るつもりなんだが、お前もどうだい?」
と切り出された。
旅はしてみたいが一人では心もとない粂八にとっては、とても有難い申し出だった。金に余裕はなかったが、これを逃せば江戸の外を知らずにおっ死ぬだろうと、色々と工面をして路銀を拵えたのだ。
ところで。その友達が言うには、船旅がおススメとのことだった。
歩いて行く旅だと、ほんの数里で怖気づいてしまった時に易々と引き返せるが船であればそうはいかない。出港してしまえば、後戻りはできないし着いた後は歩いて江戸に帰るのだと、心が決まる。
そう聞いて、粂八も二つ返事で承諾した。
どうせ一世一代のことと思っているのだから、初めての事は多い方が得だろうと考えたのだ。猪牙舟に乗ったことはあるが、海に出る舟は乗った試しがない。考えるだけでにわかに興奮する思いだった。
そういう訳で、粂八は旅程などは慣れた友達に任せてしまい、自分は旅に出るからしばらく江戸からいなくなる旨を近しい者たちに伝え歩いていた。
そんな中。
船旅をするということを伝えた時に、それを止める者があった。曰く、粂八たちが使おうとしている海路には古くから『海坊主』が出るというのだ。
「海坊主? なんだいそりゃ」
「知らねえのかい。海に出るっていうお化けのこった。真っ黒くって山のようにでっかくってよ、行き遭った船を悉く沈めるって話さ」
そんなようなことを言って、粂八を驚かすのだった。
◇
それを聞いたご隠居は、得意気に言った。
「なるほど。それでワシのところに海坊主の話を聞きに来たという訳か」
「へえ。なんとか無事に船で旅ができるようにはなりませんかね」
「そうだな・・・漁師の間では一番初めに取れた魚を海神に捧げればよいだとか言うな。中には人に化けて水泳を競う海坊主がいると聞いたことがあるが、一介の人間がそれを避ける術となると」
隠居はうんうんと唸りながら、記憶を呼び起こしていた。海坊主の苦手としているモノがなんであったか。喉まで出かかっているのに出てこず、大分もやもやとしている。やがて、煙草を吸おうと取った煙草盆を見てはっと思い出した。
「ああ、そうだ。これだ」
「え? どれです?」
「だから、これだ」
隠居はずいと煙草盆を粂八の前に差し出してきた。
「海坊主は煙草の煙を嫌うと聞いたことがある。もし船の上で海坊主に出くわしても、煙草の煙を吹きかければ立ち去るはずだ」
そう言われたところで、今度は粂八が困ってしまった。
「ですがね、ご隠居。あっしは酒は飲みますが、煙草はのまねえんですよ」
「何? 煙草を吸わんのか?」
「へえ」
「なら、どうしようもない。諦めるんだな」
「そんな殺生な」
粂八はなんとも言えない顔になり、隠居に泣きついた。しかしそれも袖にされてしまい、いよいよ困ってしまったが、その時妙案が浮かんだ。
「そんなに苦手なら煙管を持ってるだけでも、奴さん手を出せないんじゃないですか?」
「うーむ。まあ丸腰よりかは効き目があるかも知れん」
「そうでしょう。ですからね、そのご隠居の持ってる煙管。旅の間だけ、ちょいとお貸しください」
そう言って粂八は煙管に手を伸ばしたのだが、それよりも早く隠居の方が取り上げてしまった。
「馬鹿を言うんじゃない。必要なら自分で買えばいいだろう」
「無茶言わないでくださいよ。路銀を作るだけで、もう手一杯なんです。モノが借りられないなら、せめて金か知恵を貸してくださいよ」
そう言われては、識者で通っている隠居としてはどうにか手柄を立てたい。仕方がないので、一服吹かしながらアレコレと知恵を働かせた。
◇
「うむ。ならこうしたらどうだ」
「何か知恵が出ましたか」
いいかい、と前置きをして隠居は喋りだす。
「船に乗るときに、ああだこうだと難癖をつけてな、前金を払わないでおけ」
「はい? どういうこってす?」
「どうもこうもないさ。金を払わないで船に乗ればいいと言っている」
「そんな事をしてなんになるんです?」
「銭を払わねえで船に乗っていれば、その間お前さんは『キセル』になるだろう」
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※キセルは鉄道の不正乗車を差す言葉ですが、少々意味を拡大してオチにしております。




