いしなげんじょの噺
東京を江戸と申した時分のお話。
あるところに寂れた港があった。人々は魚を獲って細々と暮らしを立てる貧しい港で、名産や旅籠もなく旅人も滅多に訪れることはなかった。時たま迷い船や、航海の予定の狂った船が一旦留まるために立ち入ることもあったが、店などはないに等しく、金を落としていくようなことはなかった。
ある日の事。
その漁村の一人が釣りをする為に船で沖に出ていた。釣果は可もなく不可もなくと言った具合で、夏前のほのかな陽気に誘われた眠気と戦う方が白熱していた。
さて、釣りもほどほどに帰ろうかと思ったその矢先。何故か知らぬが海上に靄がかかってきていた。とはいっても方角は見失っていないはずだと、港に向かって男は船を漕ぎ始めた。
そろそろ港の影でも見えるだろうと思うところまで辿り着く。
その時であった。突然、大岩が崩れ落ちてくるようなけたたましい音が鳴り響いたのである。
男は肝をつぶすくらいに驚いた。この辺りに崩れるような崖や岩はないはずだ。頭ではそう思っていても、恐怖には勝てず、猫が鼠を見つけたかのような速さで船から海へ飛び込んだ。
しかし、待てど暮らせどその後に異変は何も起こらなかった。あれだけの音が聞こえたのだから近くで岩が崩れたことは間違いない。しかしそれにしては水面が静かすぎるし、石が落ちた様な水音も聞こえてこなかった。
男は海中で狐に抓まれたような気持ちになり、すごすごと港に帰っていった。
◇
家に戻り、年老いた母に今日の出来事を話して聞かせた。すると。
「それはお前、『いしなげんじょ』にからかわれたのさ」
「いしなげんじょ?」
「そうさ。石を投げ込んだり崩れたりした音を立てて、今日のお前みたいに慌てて海に飛び込む人間を見て楽しんでいるんだ。音だけのお化けだからね、知ってさえいれば放っておいたって怪我もしないよ」
母の言う通り、それからは時たま岩崩が起こるような音が鳴り響くことがあったが、結局は音だけだったので、怪我をする者は現れなかった。
◇
ある日の事。
村の外れに少々良い造りの一軒家が立ち、二十歳前くらいの男が出入りするようになった。なんでも隣町の大店の息子が道楽を親に叱られて、しばらく謹慎することになったらしかった。
とは言え、娯楽のゴの字もない漁村のことである。始めのうちは釣りなどしてごまかしていたが、とうとうその若旦那も暇に殺されそうになって、村人たちに面白いことはないかと尋ねはじめていた。
そして、誰かからいしなげんじょの話を聞くと船に乗り込み、沖合へ物見遊山に出て行った。
戻って来た若旦那は眼を輝かせて、何故こんな面白いものをほったらかしにしているのかと言ってきた。
◇
しばらくして謹慎が解け、元の家に戻っていった若旦那であったが、ちょくちょく友達を連れてその漁村に戻って来た。そして度胸試しとして、連れてきた連中と一緒に沖に出ては、音に慌てて海に飛び込む様を見て楽しむのであった。
そう揶揄われた者が別の者を連れてきては、いしなげんじょに驚かさせて、様子を楽しむ。すると今度はその人が友達を連れてきて…というようなことを繰り返しているうちに、いつしか話が広まり全国からいしなげんじょの音を聞くために人が来るようになった。
旅籠が立ち、店も数多く並び、港はとても豊かになった。
そうして人が人を呼び続けたので、その内にいしなげんじょは音に聞こえし妖怪になったという。
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